寝楽起楽

ネタばれには配慮しない、感想/紹介ブログです。毎週1回更新 +α を目指したかった。

生きてますか?

私の一番最初のセルフイメージは、生まれ出でた瞬間、身を固くして、こんなところに出たくなかった、と鳴き声も上げず、弱々しく主張している自分である。

 

こんな怖いところ、僕もういいです、という顔をしていたと母は語る。上記はそれを基に形作った幻想であろうとは思う。しかし、どうにもしっくりとくる感覚がある。

 

血潮、という言葉が苦手だ。たとえば頭より足を上にした体勢で寝っ転がった時、足に血が流れているのを感じるのが怖い。切ると噴水の様に吹き出るらしい、と聞いてからは、手首を直視出来なくなった。

 

血が、痛みが怖いだけじゃないかと言われるかもしれないが、しかし僕の中ではそれは生と直結している。

 

私の母も、父も、若い頃は随分な人だったらしい。そのエピソードを聞きながら育った僕は、未だ突き抜け方を知らないままだ。

 

キ◯ガイ、天才、どんな言い方でもいいが、私がそれらの人に対して仄かな憧れを覚えるのが、私は決してその位置には立たないと知っているからだ。

 

生きてて良かった  そんな夜を探してる、とヒトカラに行く度に歌うのは、生きている実感を持ったことが未だにないからだ。

 

痛みを伴うほど鮮烈な生というのを求め、求められている。だがその一歩を踏み出す覚悟が私にはない。

 

生きてますか?と問われれば、だから私は返事に窮する。だが、生きたいとは思っている。同じくらい、生きていたくないとも思っている。

だが取り敢えず、死にたいとは思わない。だから、まあ、なんとなく日々を過ごしている。最近はそんな感じだ。

 

 

21歳になった。

 21世紀のこの日、私はめでたく21歳になっただ。

 

よく考えてみるまでもなく、世紀と同じ歳になることはよほど長生きしないことが無い限りこれが最初で最後の経験であろう。そう思うと凄いことのような気もするし、別にどうでもいい気もする(2000年に20歳になった人は20世紀ー20歳、21世紀ー21歳と二回これを体験できたわけだが、それを思っても別に羨ましいということはなかった)。

 

そんなことよりも、21という数字が特別になる原因が他にある。これである。

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この、「センチュリートゥウェンティーワァアアーン↑↑」のおかげで、私の頭の中では21という数字を見ると脳内でこれが再生されてしまうのである。

 

日常において自分の年齢を書く機会は意外と多い。そのたびに私はこの音声を幻聴することになる。これは地味に、地味に、困ったことだ。

 

この日記を書いた主な目的は、今年同じく21歳になる皆様に、同じ苦しみを味わってほしいと思ったからである。別に今年はこれを頑張る、とかそんな初心表明を書く気はさらさらない。

 

というわけで、書きたいことは書いたので、脈絡なく終わるのである。

こんな夢を見た。

 果てが見えないほど広い丘に家族で来ている。

 

 その丘は人工的な緑で覆われており、見回すと地面を掘り返している人がポツリポツリと見受けられる。どうやらこの丘のどこかにとても貴重な何かが埋まっており、人々はそれを探しているらしい。

 

 しかし見つかるものは何故だか大抵、こどもの写真と無地の色紙である。それは白黒だったりカラーだったりし、また写された当人は既に故人である場合もある。それはしかるべき人の元に返される、成長した本人や、その親族などに。この場にいる大半は、おのれの写真が出てくることを期待して待っている人である。私の兄はその写真を渡す係に従事している。

 

  発掘風景を眺めている人々の間を、私は小学3年生の時の国語のジャポニカ学習帳を持って歩いている。そのノートの中身は落書きで埋まっている。どうやら私がここに来るのは二回目で、一回目当時小学生だった私は誰彼構わずそのノートを差し出して絵を描いてください、とお願いをしたらしい。

  成長した私は、その時に絵を描いてくれた人を探している。同じようにまた、絵を描いてくださいと頼むために。

 

 

安保法制の一連の流れについて

   実際集団的自衛権が限定行使出来るようになったとして、それによって何がどう変わっていくのかの、政治的な見通しを述べることは詳しくないので出来ない。

 
  ただ新聞やニュースで聞きかじったこの安保採決の流れについて些か思うことがあるので書いておく。
 
安倍首相は国民の理解が不十分ではないことを認めつつ、なおも採決を進め、国民には説明を尽くしていく、という考えでいるらしい。
 
  この態度は民主主義からは程遠いと言わざるを得ない。
 
  民主主義とはそもそも、「決めたくても決められない」制度である。できるだけ沢山の人の色んな意見を聞いて皆が納得するようなものを作っていこう!というのが理想なのだから、効率が悪くて当たり前である。
 
これはどうしようもねえな、という輩が権力を好き勝手振るってきた過去を踏まえて作られた、中々良くできた制度である。
 
 
  しかし安倍首相は曲がりなりにも民主主義国家である日本で、理解なきまま安保法案を成立させようとしている。つまり、此処の抜け穴を突けばいくらでも政治を自由に出来るよ、というのを未来の首相達に示してしまっているのである。
 
これは自民党にとってもあまりよろしくない。今後何年後か何十年後かは分からないけど、ずっと自民体制が続くということはないだろう。自党と敵対する党に対しても「民主国家での独裁のやり方」のお手本教科書を作っちゃってるのである。
 
  次に問題だと感ずるのは、どうせ国民なんて鶏ぐらいの知能しかないんだから成立させればこっちのもんでしょ発言である(大分表現は変えてるけど)。
 
  秘密保護法法案の時のことがよく引き合いに出され、あの時同様また忘れて選挙になれば自民党に投票するだろ、とタカを括っている人は多いように思う。
 
 
  他の人たちは分からないが確かに僕の頭は鶏なので、次選挙の際にこの一連の出来事を忘れている可能性はある。それは認める。
  けれども、政治への不信感は、無意識下のうちに残るどろう。
 
個別の事象は忘れても、印象だけは拭い難く残る。これは対人であっても対国家であっても、主体が個人であるがゆえに同じだ。
 
  そしてそれは、日常では綺麗さっぱり無いように見えて、此処ぞという時に爆発する。今回のように。
 
  「もう政治家は誰も信じられない」  「どうせ俺1人が動いても何も変わらない」という形で、大多数の反対派の人の胸の中に安保法案は残る。そのことは、政治をこの先非健全にしていくことにまず間違いなく貢献する。これも自民党にとって良いこととは言えないのでは?
 
 
  別にちゃんと説明を尽くしてくれさえすれば、なんかよくわかんないけど取り敢えず怖いから消極的に反対、という人が賛成派に回って、そのお陰で賛成派多数、ちゃんと民意に従った上での安保法案成立、となる可能性は十分あるし、それなら僕だって文句は言わん(僕個人は理屈の前に感情で強く否定してしまうあんましよろしくない反対派なので、多分賛成派に靡くことはないけど)。
 
  要は安心させてほしいのである。この人なら任せても大丈夫、と思わせてほしいのである。本当は政治のことなんか何も気にせず好きなことに囲まれてのんびり生きてたいのに、なんだか安倍首相のやり方が誠実に見えないから、お陰でいらぬ事を考える羽目になってるのである(んなもん知るか、って感じだろけどあっちとしては)。
 
 
 段々オチが見えなくなってきたなと思ってたら
法案通過のお知らせがきた。予定調和だけどやっぱし徒労感。これからどうなってくのかね。