寝楽起楽

ネタばれには配慮しない、感想/紹介ブログです。毎週1回更新 +α を目指したかった。

オディロン•ルドン

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上はオディロン•ルドンという人の、『夢の中で』という連作?の一つらしい。

 

光り輝く目ん玉に真っ先に視線が向きそうだけど、個人的には左下の影になってる人達が良い。見知らぬ宮殿の中に二人迷い込み、手と手をつないで探索中、決定的にわけのわからないものを見つけてしまった、て感じ?

 

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ICOのこの絵とか、その元ネタのキリコの絵とかを何となく思い起こさせる。

人が影になってる絵が自分結構ツボみたい。 

 

あと、通りで見覚えあると思ったら、オディロンルドンさんは最近アニメになった(てさらっと書いたけどもう三年も前らしいですよ。笑えねえ)漫画悪の華のあのボードレールの小説の挿絵のモチーフになってた。

 

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よくわかんないけどなんか目ん玉が好きな人だったんですな。

 

ぬか

それがどうした、俺はぬかを漬けているんだぞ

 

上記は小野ほりでいさんの随分前のツイートだが、とても好きでたまに見返している。

 

高校生の時分は、俺って空っぽだな、という気持ちを常にどこかに抱えながら生活していた。

 

だからといって別にそれについて深く悩んでいたわけでもなく、中身を埋めようとする努力も特にしなかったあたり、どうしようもなく僕であるが、最近はあの何にもなさを感じることがなくなったように思う。

 

他の人と比較して、俺って何もやってきてなかった•••と後悔するキャラは様々な作品で出てくるけれど、そこを恥じる必要は本当はないという気がする。

 

人生経験の多い少ないは年齢の多寡のみによって決まるし、経験に深さ浅さも別に存在しないと思う。21年生きりゃ、21年分の何かはきっと自分の中にちゃんと存在する。同い年の人たちと比較して良いか悪いかなんて、自分を含めて誰にも決められない。

 

きっと必要だったのは、冒頭の言葉のような、開き直りの心なんだろう。この世界の此処は少なくとも俺の居場所だ、みたいな。

 

同じ部活に、「ほっとけ俺の人生だ」て書いてあるTシャツをよく着ている奴が居たけど、そうだよねえ、と今なら頷ける。

 

まあだからといって真の意味で好き勝手にやって上手くいくかと言えばそれは全然別の話だけど。

 

にしてもぬかは本当良いチョイスだ。

これを書くにあたってぬかをチラッと調べてみたら、2chのぬか漬け総合スレが46樽目まですごく和やかに進行してて、ほっこりした気持ちになった。

 

ぬか漬けについて知らない人と意見交換出来るなんて、インターネットはやっぱ偉大な発明だ、

まとも/まともじゃない

 うちの両親はまともな人達だと思う。

 

 一般的な視点から見ると、私の父と母は随分と外れている人間である。

だが彼等は常々、自分達ほど常識のある人はこの世に他に居ないと豪語するし、実際またその通りだ、と感じるエピソードだってないことはない。

 

 外れていながら、何故まともで居られるのか?

それは多分、二人が常に自分達がまともの中心からどれほど隔たった距離に居るかを点検しているからだ。

 

 どんなに性格がぶっ壊れてている人でも、世間の中心はあそこにある、と分かっているならば、その人はきっとまともだ。

 

 汚いものが世の中には多すぎる、もう金輪際俺は美しいものしか見ない!と言って、目を閉じて歩いた結果線路に落ちた経験を持つ父だって、ある意味では普通の人である(中3のときくらいの出来事だといっていたので、上のエピソードは素面である)。

 

 つまり社会の中での自分の位置をマッピングできるかどうかがまとも/非まともの境目なんじゃないか、という気がする。

 

 誰だって自分本位に生きたいし、社会の中心なんてまるっきり無視したいけど、でもやっぱそういう風には中々いけないもんだ。

生きてますか?

私の一番最初のセルフイメージは、生まれ出でた瞬間、身を固くして、こんなところに出たくなかった、と鳴き声も上げず、弱々しく主張している自分である。

 

こんな怖いところ、僕もういいです、という顔をしていたと母は語る。上記はそれを基に形作った幻想であろうとは思う。しかし、どうにもしっくりとくる感覚がある。

 

血潮、という言葉が苦手だ。たとえば頭より足を上にした体勢で寝っ転がった時、足に血が流れているのを感じるのが怖い。切ると噴水の様に吹き出るらしい、と聞いてからは、手首を直視出来なくなった。

 

血が、痛みが怖いだけじゃないかと言われるかもしれないが、しかし僕の中ではそれは生と直結している。

 

私の母も、父も、若い頃は随分な人だったらしい。そのエピソードを聞きながら育った僕は、未だ突き抜け方を知らないままだ。

 

キ◯ガイ、天才、どんな言い方でもいいが、私がそれらの人に対して仄かな憧れを覚えるのが、私は決してその位置には立たないと知っているからだ。

 

生きてて良かった  そんな夜を探してる、とヒトカラに行く度に歌うのは、生きている実感を持ったことが未だにないからだ。

 

痛みを伴うほど鮮烈な生というのを求め、求められている。だがその一歩を踏み出す覚悟が私にはない。

 

生きてますか?と問われれば、だから私は返事に窮する。だが、生きたいとは思っている。同じくらい、生きていたくないとも思っている。

だが取り敢えず、死にたいとは思わない。だから、まあ、なんとなく日々を過ごしている。最近はそんな感じだ。