寝楽起楽

最近は頑張って読書感想ブログにしてます。

                ネタバレには配慮しない感想ブログです。          

福岡伸一『世界は分けてもわからない』 講談社 2009年

 

世界は分けてもわからない (講談社現代新書)

世界は分けてもわからない (講談社現代新書)

 

 

 

生物と無生物のあいだ』で一躍有名になった先生が、その続編のような立ち位置のものとして、雑誌連載していたのを一つにまとめた本。

 

前作は、人間の体はエントロピー増大の法則に対抗するために、「分解」と「合成」の絶え間ない動的平衡の中にあるということが話の中心だったが、今作はそれから更に発展して細胞分野のみならず絵画や写真などから「全体とは部分の総和以上の何かであり、その何かは流れ(=部分と部分の常に移り変わる関係性)である」とし、「世界に部分はなく、輪郭線もボーダーもない」ことを示しながら、それでもなお世界を分けつづける意思を静かに書き記して終わる。

 

その考えそのものはそれほど目新しいものでもないけれど、分子生物学者としての深い経験と、他分野にも精通する学識で持って書かれた文は非常に読ませるところがあり、これは有名になってくれてよかった人だと思う。

 

ただ事実そのものを教科書的に書くことなら知っている人になら誰にでも出来ることで、福岡先生はそれをしっかり自分の血が通う文章にしている。これが出来る人になりたいですね。

有島武郎『小さき者へ』

有島武郎は、1878年明治維新から10年後に生まれ関東大震災の起きた1923年に亡くなった白樺派の作家。

今回は岩波文庫の『小さきものへ•生まれいづる悩み』から、

小さき者へ』は妻を結核で亡くした後に、残された自分の子に対して宛てた文章、

『生まれ出づる悩み』は実在の人物をモデルにした、平民生まれだが芸術の精神を解し画家を志すも、境遇ゆえに故郷に戻って漁師にならざるを得なくなった青年との交流を書いた小説になっている。

 

 

小さき者へ・生れ出づる悩み (新潮文庫)

小さき者へ・生れ出づる悩み (新潮文庫)

 

 

 

積んでいる本をいい加減消化しようと思って読み始めたものの一冊目で、実を言うとこれは一度既読済みなのだが、読み通したかどうかの自信が持てなかったので再読。

 

小さき者へ』は子に対する熱い情念で書き上げられている。1p目から

お前たちは去年一人の、たった一人のママを失ってしまった。お前たちは生まれると間も無く、生命にいちばんだいじな養分を奪われてしまったのだ。お前たちの人生はそこですでに暗い。

とか、

お前たちは不幸だ。回復の途なく不幸だ。不幸なものたちよ。

とかいっちゃう。 普通子供にこんなことは言わないし言えないと思う。

こんな調子から始まり、後は妻を失った悲しみと子に対する思いがないまぜになった文章がずっと続く。

 

読みどころは思いの丈が詰まったその文章そのもの。

なにしろお前たちは見るに痛ましい人生のめばえだ。泣くにつけ、笑うにつけ、おもしろがるにつけ、さびしがるにつけ、お前たちを見守る父の心は痛ましく傷つく。

その全てに、子供たちに母を亡くしたという一点で持って不幸な人生を送ることへの感傷が流れている。だが決してそれだけで終わっているわけではなく、最後の行け。勇んで。小さき者よ。で終わる力強い段落は一読の価値は十二分にあり。

 

一度目に読んだ時は親の事について色々と考えていた時期だったこともあり、こんなに子を思う親がいるもんなのかと衝撃を受けた覚えがあったが、今回はある意味では凄く冷めた目線で読んだ。 

 

『生まれいづる悩み』についても書こうと思ったが、今までの記事と比べて長くなりそうなのでとりあえずやめておく。いつか書く。

 

酔ってる。

酔ってるまま書いてるので、なんかおかしいとこあったらすまん!という記事。

 

 

酔ってるけどすまん!とか書いときながら、ミスタイプしてて、しかもそれはきっちり修正している。ミスタイプ、をミスタ椅子、と書いてしまうぐらい、一行につき二回 (これも最初は二階って書いてたし、なんなら(も;って打ってたし)ぐらいミスタイプしながら書いてるけど、そこは間違った!と思って直してるあたりに、最低限自分の譲れないラインがそこにはあるんだろうなあという感じ。

 

酔うと人の素が出るとはいうけれど、例えば今終電で最寄駅に着いた時、めっちゃ小便したいって思ってトイレ行くと同じ感情のおっさんと

目があって「君も?」「あ、そうっす」みたいな風に目があってにっこり笑い合うとか、手を洗おう!と思って洗面所に行くとその勢いですこしよろけたりとか、駅前の違うガールズバーの客引き同士でなんか仲良くなってたりとか、他の奴と比べれば客観的な状況判断ができてるだけまだまだましでしょとか思ってたりする自分とか、もろもろいいなあと思うわけです。

 

 

この記事も、酔ってるなりに推敲して書いてるし、酔ってる割にはちゃんと書けたっしょ!?と自画自賛してるし、まあ何が言いたいかっていとただ酔ったよってことですかねぇ。

 

皆さん今日もお疲れでした。明日もそれぞれ自分なりに頑張りましょうね。では。

パロティング現象の主体者として

 人から聞いたことの受け売りで話すことを、parrot(=オウム)からとって、パロティング現象(≠エピゴーネン)と言う。ちなみにこの説明は人からの受け売りである。

 

 受け売りと、パクリと、オリジナルの三者の区別は一体どこでつければいいのだろう。そもそもが自分の知識なんて全て人からの受け売りじゃん、というような思いがある。が一方で、色んな物からこれはこの人にしか出来ない、というような凄みを感じることは多い。ひらめいた、と思ったことが実は遥か昔にどこかで見たものだったとして、それはパクリになってしまうのだろうか。

 

 自分は結構ネタ被りとかには寛容でいるように心がけようとはしていて、何故かといえば上で挙げたようなことが起こりうるだろうと思うからだ。オリジナルって?独創性って?みたいなことをよく考えるのだけれど、答えは中々でない。

 

 例えばこういう記事を書いている時も、とっくのとうにどこかの誰かが考えているものの下位語互換に過ぎないんだろうという諦めがあったりする。それと同時に、自分にしか出来ない論理がそこにはあればいいとも思っている。

 

 「我々は自分自身によってはかけがいのない独自の人間であるとしても、他人の目から見れば所詮は普通の人である」

 

 これは、安西水丸さんの『平成版 普通の人』に付された、村上春樹さんの書評。世間ではやたら貶されたりするけど、村上さんはめちゃ頭いい人だと思う。

 

 他人の目から見れば普通の人かも知れないが、自分自身にとってはいつまでも独自の人間でいたい、というような思いが常にある。気がする。

 

 余談だが、この記事を書くために、パロティング現象という言葉を思い出す際、

「パ、パ、パロ?パロディウス??」とかなってしまい、結局調べなおす羽目になった。自信満々にパロディウス現象とか書かなくて本当に良かったと思う。知ったかぶりは恥かく恐れが高いので、出来るだけパロティングしないように生きていきたいですね。