寝楽起楽

ネタばれには配慮しない、感想/紹介ブログです。毎週1回更新 +α を目指したかった。

真木祐介『気流の鳴る音 交響するコミューン』 ちくま学芸文庫 2003

 

気流の鳴る音―交響するコミューン (ちくま学芸文庫)

気流の鳴る音―交響するコミューン (ちくま学芸文庫)

 

 

 

 本名見田宗介。若くして東大の助教授になった後のメキシコ留学で「近代の後の時代」について深い知見を得た。この本はその最初期の若く荒い構想を世に表明したもので、

 文化人類学カスタネダの、呪術師ドン・ファンとのエピソードに多く紙数を割きつつ、これを中心に比較社会学の観点から近代合理主義を自明のものとする空気に疑問を投げかける。

 

 たまたま視覚とか聴覚のような、客観的に測定しうる感覚の量的な退廃のみは、たとえば十五分後には機音がわれわれにも聞こえてくるとか、いくつもの丘のむこうを事実走行したトラックの記録とかいう、固陋な近代理性にとっても否応のないデータを通して、われわれの感覚の欠落部分を外的に立証してみせてくれる。

 けれどもそれは、雨あられと降る文明の土砂のかなたに圧殺され、近代理性の流れるようなハイウェイの舗装の下に窒息する多くの感性と理性の次元の、小さな露頭にすぎないかもしれないのである。(p.16-17)

 

  この序盤の文章でもうやられてしまい、後は流れるようにずーっと読み進めてしまった。

 

 読みどころはやはし不可思議(に僕らからは見えてしまう)ドンファンの言葉の数々。

 

「死は人間みたいなものじゃない。むしろひとつの存在だ。」「わしは人といるとくつろぐ、だからわしにとっては、死は人だ。わしは自分を神秘に捧げる。だから死はうつろな目だ。それを通してみることが出来る。」「戦士が自分の死を見る味方は個人の問題だ。それはなんにでもなる奪取―鳥にも、光にも、人間にも、潅木にも、小石にも、霧にも、道の存在にも。」

 カスタネダはすっかり混乱してしまう。(p.61)

 

 この文章自体にわくわくするし、どう説明してくれるのかも凄く楽しみで、ページをめくる手を止められなかった。

 

 合理主義は必然的に「成果」を求め、それは究極的に全ての人類を「死」という結果に帰結することになる、というところから、生きている今に対するいとおしさ、かけがえのなさに人は拠るべきである、という筆者の論調そのもの(こんな一言で収まるようなもんでもないので、具体的に知りたい人は本読んでください)は全く一般的でも、論理的なものではない。しかしそれも考えてみれば、合理主義とは別の立場から書かれている本が、合理主義者からみて理論立ってないのは当然のことなのかもしれない。

 

 確かにここには近代の諸問題に対する一つの解答が示されているように思わせる、何かが書かれているように思う。「人生って(=現代って)なんかつまんねーなー」と最近思っている人が読むと良いかも知れない。

 

『Sting』 監督:ジョージ•ロイ•ヒル 1973年

 

スティング (字幕版)

スティング (字幕版)

 

 映画。若手の詐欺師が、表にも裏にも広く顔のきく大人物に意図せずちょっかいを出してしまったために目をつけられ、相方を殺され自分も命を狙われる身になりながら、詐欺師として「命は奪わず金をだまし取る」ことを復讐として、様々な人物の手を借りて大計画を実行に移す話。

 

中々寝付けなかった日にぼんやり見た。面白かった。俳優の名演ぶりにしっかりと引き込まれ、先の展開を期待しながら見てしまう。話は単純ながら一本道にはなっておらず、かつ最後はすっきりと気持ちよく見終えることが出来る。高く評価されているだけのことはあると思った。

 

個人的に、劇中音楽にラグタイムが使われてるのが嬉しかった。これは20世紀初頭のアメリカで流行した軽音楽で、つい最近その名称を知り聴き始めたところだったので、「これ進研ゼミでやった奴だ!」みたいな偶然の快感があった。

 

有名どころのラグタイムの曲は例えばこれとか。

エンターテイナー ピアノ楽譜 スコット・ジョプリン / The Entertainer Piano Sheet Music Scott Joplin - YouTube

家にテレビがあるならまず聞いたことはあると思う。

 

 

 

 

 

福岡伸一『世界は分けてもわからない』 講談社 2009年

 

世界は分けてもわからない (講談社現代新書)

世界は分けてもわからない (講談社現代新書)

 

 

 

生物と無生物のあいだ』で一躍有名になった先生が、その続編のような立ち位置のものとして、雑誌連載していたのを一つにまとめた本。

 

前作は、人間の体はエントロピー増大の法則に対抗するために、「分解」と「合成」の絶え間ない動的平衡の中にあるということが話の中心だったが、今作はそれから更に発展して細胞分野のみならず絵画や写真などから「全体とは部分の総和以上の何かであり、その何かは流れ(=部分と部分の常に移り変わる関係性)である」とし、「世界に部分はなく、輪郭線もボーダーもない」ことを示しながら、それでもなお世界を分けつづける意思を静かに書き記して終わる。

 

その考えそのものはそれほど目新しいものでもないけれど、分子生物学者としての深い経験と、他分野にも精通する学識で持って書かれた文は非常に読ませるところがあり、これは有名になってくれてよかった人だと思う。

 

ただ事実そのものを教科書的に書くことなら知っている人になら誰にでも出来ることで、福岡先生はそれをしっかり自分の血が通う文章にしている。これが出来る人になりたいですね。

有島武郎『小さき者へ』

有島武郎は、1878年明治維新から10年後に生まれ関東大震災の起きた1923年に亡くなった白樺派の作家。

今回は岩波文庫の『小さきものへ•生まれいづる悩み』から、

小さき者へ』は妻を結核で亡くした後に、残された自分の子に対して宛てた文章、

『生まれ出づる悩み』は実在の人物をモデルにした、平民生まれだが芸術の精神を解し画家を志すも、境遇ゆえに故郷に戻って漁師にならざるを得なくなった青年との交流を書いた小説になっている。

 

 

小さき者へ・生れ出づる悩み (新潮文庫)

小さき者へ・生れ出づる悩み (新潮文庫)

 

 

 

積んでいる本をいい加減消化しようと思って読み始めたものの一冊目で、実を言うとこれは一度既読済みなのだが、読み通したかどうかの自信が持てなかったので再読。

 

小さき者へ』は子に対する熱い情念で書き上げられている。1p目から

お前たちは去年一人の、たった一人のママを失ってしまった。お前たちは生まれると間も無く、生命にいちばんだいじな養分を奪われてしまったのだ。お前たちの人生はそこですでに暗い。

とか、

お前たちは不幸だ。回復の途なく不幸だ。不幸なものたちよ。

とかいっちゃう。 普通子供にこんなことは言わないし言えないと思う。

こんな調子から始まり、後は妻を失った悲しみと子に対する思いがないまぜになった文章がずっと続く。

 

読みどころは思いの丈が詰まったその文章そのもの。

なにしろお前たちは見るに痛ましい人生のめばえだ。泣くにつけ、笑うにつけ、おもしろがるにつけ、さびしがるにつけ、お前たちを見守る父の心は痛ましく傷つく。

その全てに、子供たちに母を亡くしたという一点で持って不幸な人生を送ることへの感傷が流れている。だが決してそれだけで終わっているわけではなく、最後の行け。勇んで。小さき者よ。で終わる力強い段落は一読の価値は十二分にあり。

 

一度目に読んだ時は親の事について色々と考えていた時期だったこともあり、こんなに子を思う親がいるもんなのかと衝撃を受けた覚えがあったが、今回はある意味では凄く冷めた目線で読んだ。 

 

『生まれいづる悩み』についても書こうと思ったが、今までの記事と比べて長くなりそうなのでとりあえずやめておく。いつか書く。