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寝楽起楽

最近は頑張って読書感想ブログにしてます。

上橋菜穂子『月の森に、カミよ眠れ』 偕成社 1991

 

月の森に、カミよ眠れ (偕成社文庫)

月の森に、カミよ眠れ (偕成社文庫)

 

 

 

上橋菜穂子さんは、この人の作品が読めるのだから、生きててよかった、と個人的に思っている作家の代表である。

 

獣の奏者守り人シリーズで広く名を知られるようになったが、本作はそれ以前に描かれたもので、商業作品としては多分二作目。

 

九州の、愛した男の正体が実は大蛇で、それでも側を離れずついに子を産んだ女性の古い伝説を基にして書かれており、神と人との間にもうけられた子が、新しく朝廷に従ったある地域の、月のカミの調伏を頼まれる、でもその影にはある因縁があって、、というストーリー。

 

縄文から弥生に移り、それにともない狩から稲作へと生活が変容する、時代設定をうまく生かして書いているけれども、いかんせん後書きで仰っているように資料の少ない時代と場所であるがゆえに、世界観はうまいこと今までの幻想文学の人たちが積みあげてきたものに委託している感がある。

こういう書き方も出来るんですね。上にあげた二作とはまた全然違う感じ。

 

多くを語り部形式で綴っていることもあり、ムラの中で、ぽつりぽつりと伝承を語られるのを自分も覗かせてもらっている気持ちになる。

 

多分今では失われてしまった、かつては語られていた物語がたくさんあるはずで、それを思うと残念だけれども、今私たちが居る場所の奥底で、それらが静かに眠っているところを想像するのは怪しくも楽しい。

 

 

 

アーシュラ•K.ル=グウィン『影との戦い ゲド戦記1』 清水真砂子訳 岩波少年文庫 2009年(原著1968年)

 

影との戦い―ゲド戦記〈1〉 (岩波少年文庫)

影との戦い―ゲド戦記〈1〉 (岩波少年文庫)

 

 何故か読みさしで放置していたのを読了。

好物がこれでもかと出されて、お腹一杯になる作品だった。

なんの説明もなしに地名が挿入されたり、呪文の名前が出てきたり、精霊っていう単語が出たり竜が出てきたり色々するんだけど、どれ一つとっても世界観と破綻しているところがなくて、凄く安心して読んでいけた。

 

一応あらすじ。

アースシーという島々が寄り集まった世界。ゲドはその中のゴント島、十本ハンノキの村という片田舎に生まれる。彼はふとしたきっかけで自らに魔法の才能があることを知り、師匠にも恵まれ、順風満帆の中で更に魔法を深く学ぶために学院に入学する。魔法の神秘を次々と習得していくなか、彼はライバルであるヒスイの挑発に乗ってしまったがために、禁忌である死霊を呼び出す魔法を唱え、それが原因で自らの<影>を呼び出してしまうことになる。ゲドと<影>との、孤独な戦いが始まった。

 

ファンタジーには魔法を『技術』として描く人と『神秘』として描く人と両方ある気がするけれども、本作はそれを未分化の、生活に深く根を下ろされたものとして作っている。

魔法や冒険は、どちらも身近にあるものとは言いがたく、だからそれを扱う小説はしばしば荒唐無稽になりがちなんだけれども、あくまでアースシーという世界の中での、ゲドという魔法使いの生活を、ありのまま等身大に描こうとしている。そこに不自然さがないのでほんと良い。

 

ただ、いわゆる「冒険ファンタジー」みたいなものをイメージして読もうとすると多分肩透かしを食らうと思う。そういう話ではないです。

イメージとしては、前紹介した『魔法使いの弟子』なみの地味さだし、あれは明るい作品だけどこれはむしろ暗い、というか多分そういう部分を意識している作品では全くない。詳しいことは読んでみれば分かるけど、とにかく大事にされているのはリアル感だと思われる。

 

第一巻にしてゲドが成長しきってしまった感があるので、この後どう展開していくのかが結構気になるところ。今までなんとなく見聞きしてきた感じでも、この『影との戦い』は話題になることは多いけど、第二巻以降の話ってあんまり皆してなくない?

 

ということで。二巻以降も今度読みます。

津村記久子『とにかくうちに帰ります』 新潮文庫 2015

 

とにかくうちに帰ります (新潮文庫)

とにかくうちに帰ります (新潮文庫)

 

 

「小説というものは問題が起こり、解決されていく過程で主要人物に変容が起こる、その過程 を楽しむものだ」

 

と、いうような人にはオススメできない作品。

 

この小説では事件らしい事件は何も起こらない。胸がすく逆転劇、めくるめくドラマ、そんなものを期待して読んではいけない。

 

本著で描かれるのは、ただの我々の日常、何気なく生きているとそのまま通り過ぎていくものたちだ。

 

その取り上げ方があまりに自然であるために、読んでいてもこの風景•感情に覚えがある、とハッとさせられるようなことがなく、この点がますますこの作品を凪いだものにする。

 

ある意味ではつまらない作品で、そのはずなのに山崎の変な力み具合、池之上さんの底知れなさ、サカキさんのいい人ぶり、そうしたものに促されるまま読み進め読み終わり、いい気分のまま何となく本棚に仕舞いこんで、何年後かにふと思い出す。

なんかそんな感じ。

 

あるいはいっそ何十年後かに読み返してみると面白いかもしれない。

小津安二郎の映画が「古き良き時代」の風景画としてしばしば語られるように、この作品も今この瞬間の平成の風景画として生きるのかもしれない。わかんないけど。

 

以上。久々読書記録。もしかしたらしばらくまた続くかも。

 

 

金縛りにあう話

昨日の夜、数年ぶりに金縛りにあった。

中高の全盛期には三日に一回くらいかなしばっていたので、随分としばらくぶりで懐かしく

今日はそのことについて書こうと思う。

もしかしたら以前にも書いてたかも知れないが、知らん、俺は物覚えが悪いんだっということで、書く。

 

金縛りにあったことのない人にそのイメージを伝えるのは難しい。

なんというか、空気がたちまち凝固し、そこに自分がすっぽり収まっているような感じ。一分の隙なく型どられてしまっているので、ほんとに身体のどこも動かせない。

しかもその状態で、大抵の場合は幻覚•幻聴を見る。これが怖い。

 

僕の場合、今でも記憶に残っているのは、多分ちっちゃい小人みたいな奴が、布団にすっぽりおさまった僕の上を団体で走って通り過ぎていくのと、いろんな人の笑い声が大音量で暗闇の中ずうっと部屋に響き続ける奴である。

前者は息ができなくなり、後者は恐怖で死ぬかと思った。

 

で、まあそんなに何度も金縛りにあっていれば、原因と対策を考え始めるのは必然である。一応対処療法はあって、まず手の小指の先をすげー頑張って曲げる。

 

動かせないんじゃなかったのかよ、と突っ込まれるかも知れないが、その作業だけでも全身に力をこめなくてはいけないし、しかも花が蕾から開いてくぐらいの速度しか体感だせず、

これはもうほぼ動かせないのと同義だと思う。

で、なんとかして小指を動かせたら、徐々にもっと大きな部位にチャレンジしていくと、ふと楽になり解けるのだが、いかんせん時間がかかる。

もっと根本的に、金縛りにかからなくなるか、あるいは幻覚が消えてくれるようなやり方を僕は探した。

 

科学的には、金縛りは頭は起きてて身体は寝てる状態として説明される。

で、これが人間のポンコツなところなのだが、脳はそれを理解できずに、なんとかして合理的に説明づけようとする。

その結果として、たとえば「身体の上に得体の知れない何かが乗ってる」とか、「幽霊に動けなくさせられてる」とか、そうした類の幻覚を見ることになる、らしい。

 

自分で作り出したものに自分で怖がってる、お化け屋敷の仕掛け人が鏡に写る自分の姿みて悲鳴あげてるようなもので、端的に言って馬鹿だ。

しかも幽霊の正体見たり枯れ尾花、でその構造を知った後は幻覚なくなるかといえばそんなことはなく、相変わらず出るし、相変わらず怖い。

 

んでしょうがないので更に調べる。

オカルト界隈的には、金縛りによく遭う人というのはどうも幽体離脱明晰夢を意図的に実現させやすい体質らしいということが分かる。

その中に、金縛りで見る幻覚は要は自分の妄想だから、自分で思うがままにすることが可能、という情報を見つける。

R18なことしたったwwwみたいな2chのまとめ記事を読む。

 

これだ、と思った。

その後の僕は金縛りを心待ちにした。そしてどうなったか。

 

慣れてくると、縛られる日、というのは感覚的に掴めるようになる。

僕の場合、その前の夢うつつの状態の時に考えていたことが、大体幻覚に反映される。

その日の僕は頑張った。

だが、どうしても怖さが拭いきれなかった。

その二つが融合した。結果。

 

貞子が出てきた。

なるほどな、と思った。

しかも特に何をするわけでもなく、ただ脇で立ってるだけ。

貞子に見守られながら、小指を動かすために全身力む自分はさぞ滑稽だったろう。

 

以来僕は幻覚を操るのを諦め、なすがままに任せるようになった。

めちゃくちゃ怖いやつも相変わらず見たが(笑い声の奴とか)、その一回以降は結構どうでもいいようなものが出てくることも増えていったようにおもう。

 

全てが全て自分の妄想だったかというと疑問が残る。

上をかけまわられる奴とか、布団越しに伝わる足一本一本の質感まで今でもリアルに思い出せるし。

 

もしガチであるのならそれはそれで面白いし、脳が作ったものだとすれば自分凄い。そんなあやふやな感じで良いと思う。

 

昨日はイナズマイレブンの、寝癖髪の、茶髪の、主人公?みたいな人?が延々とドリブルしているのを見た。

このしょうもなさから上の一件を思い出したので、書いてみた次第である。

 

以上。ではまた。

向田邦子『父の侘び状』 文藝春秋 2006年(初出は1976~78)

 幸田文(いつも「ふみ」なのか「あや」なのか迷う。あやです)さんのエッセイが好きで、幸田文さん好きが必ず一緒に名前を挙げる人が向田邦子さんなので、気になって読んだらはまりました。

 

父の詫び状 <新装版> (文春文庫)

父の詫び状 <新装版> (文春文庫)

 

 

 

 ほとんど全てが子供の頃の鮮やかな思い出話で占められている本著は、筆の向くまま書き連ねたとみえ、一つの章に一見無関係に思えるエピソードがこれでもかと詰め込まれている。話が三転どころか四飛五跳し気づけば最初の話が霞のようになるタイプのおばちゃんはどこにでも存在すると思われるが、自由なハンドル捌きに追いすがるようにしていくとすとんと落ちがある。

 

 最初からそうしよう、と決めた訳ではなく、自分の人生の些末事を振り返り振り返りすると、こんなところにこんな共通点があった、という風な書き方で、それがいかにも自然で気持ちが良い。

 

 以下はちょこちょこ気に入ったとこ。

 

鯛やひらめの舞い踊り

ただ珍しく面白く

月日のたつのも夢のうち

(本書p117より)

 

 たいやひらめがまいおどる、は、シャドバの乙姫が言ってたので知ってたけど、元ネタがあるとは思わなんだ。知ってました?

こういう古歌とかを文章の端々にさらっと挿入出来るのかっこいいよなぁ。

 

 ライオンは人のいい目をしている。虎のほうが、目つきは冷酷で腹黒そうだ。

 熊は図体にくらべて目が引っこんで小さいせいか、陰険に見える。パンダから目のまわりの愛嬌のあるアイシャドーを差し引くと、ただの白熊になってしまう。

 ラクダはずるそうだし、ゾウは、気のせいかインドのガンジー首相そっくりの思慮ぶかそうな、しかし気の許せない貴婦人といった目をしていた。

 キリンはほっそりした思春期の、はにかんだ少女の目、牛は妙に諦めた目の色で口を動かしていたし、馬は人間の男そっくりの監視委目であった。競馬場でただ走ることが宿命の馬と、はずれ馬券を細かくちぎる男達は、もしかしたら、同じ目をしているのかもしれない

(本著p189-190)

 

 此処、一番共感しながら読んだ。人の顔を動物に例えたり、反対に動物を人に見立ててみたり、そういうことってしますよね。

 

 

大島真寿美『ツタよ、ツタ』 実業之日本社 2016年

 

ツタよ、ツタ

ツタよ、ツタ

 

 

 

 琉球王国の名家に生まれ、結婚を機に台湾、それから夫に従って東京や名古屋を転々とした女性の、実話を元にしたフィクション。途中離婚したり七つ年下の学生といい仲になったり作家としてデビューしかけたり色々する。

 

 沖縄の女性だから、という時代の差別がひどく、決心して強く立とうとしても状況に押し負け、自分のやりたいこともよく分からなくなり・・・といった、格別に不幸だとはいえないけど、でも確実に本人にとってはいい状況ではない感じがずっと続く本。

 

 自分の中にある自分でないもの(それは本名であるツタであったり、あるいは中盤から本名にもなった筆名の千紗子だったり、また終盤にはまってる宗教の神様であったりする)との格闘が主題だと思って読んだ。それがまたさっぱり上手くいかなくて悲しい。

 

 ただ明確に作中で何かを押し出しているような風ではなく、全体的には久路ツタさんの半生をただ綴っていっているだけなので、ぼんやり読むと表面をなぞるだけで終わってしまう。

 

 

高野秀之『腰痛探検家』 集英社 2010年

 『はい、泳げません』に引き続き、チェコ好きの日記さんでセットのように紹介されていた本書を読了。

 

 

腰痛探検家 (集英社文庫)

腰痛探検家 (集英社文庫)

 

 

 

 早稲田大学在学時代は探検部に所属、そのまま幻の怪魚をインドで追いかけることに熱中したりしながらノンフィクション作家として生計を立てている筆者がひどい腰痛にかかり、色んな医者にかかって悪戦苦闘する話。

 

 まじでかかる医者かかる整体それぞれに違うことを言われて当惑する筆者、彼としてはとりあえずどんな手法でも治してさえくれればいいってスタンスだが、「3回通ってもらうだけで何でも治す」という評判の人にさえ匙を投げられる。

 

 最終的に筆者は自分自身でとある決断をし、そして結局原因は分からないまま何をやってもさっぱり良くならなかった腰痛は快方に向かう(といっても3時間以上立っているのはきつかったりとかはするみたいだけど、もしかしてこれは40歳ぐらいになるともはや一般的な状態なのだろうか?だとしたらすげえいやですね)。

 

 自分の病と気質に適したことをしてくれるところを見つけるには、勘と運が本当に大切なんだろう。誰に尋ねても、「だれそれは名医」と人を挙げられ、しかもそれが絶対に被ることがないというあたり、整体があふれかえるのもむべなるかな。

 

 民間療法の設立者は、大体がその元の療法にかかった結果持病が爆発的に治り、感動して自分も院を開く、というパターンが多いということをはじめて知る。

 

 あと、一回だけお酒を一緒に飲んだことのある、超能力者の秋山眞人さんがさらっと作中に不意打ちぎみに出てきて笑う。その人がちょっとさわっただけで(その日一日だけだけど)腰痛がしっかり良くなっててさらに笑った。