寝楽起楽

ネタばれには配慮しない、感想/紹介ブログです。毎週1回更新 +α を目指したかった。

国語の教科書の文章を読もう 『教科書名短編 少年時代』 中央公論新社編 2016年

『そうか、そうか、つまり君はそんなやつなんだな』

p21「少年の日の思い出」より

 

これが読めたので満足。

 

教科書名短篇 - 少年時代 (中公文庫)
 

 

〇あらすじ 

蝶の採集にともなうほろ苦い記憶 ヘッセ「少年の日の思い出」

胡桃を割り、心を割る 永井龍男「胡桃割り」

田舎にやってきたあかぬけたあの子(一人目) 井上靖「晩夏」

人生の物寂しい情景 長谷川四郎「子供たち」

ふてくされ少年の目が輝いた日 安岡章太郎「サアカスの馬」

成長の喪失と獲得 吉行淳之介「童謡」

人に馴らされた神の馬 竹西寛子「神馬」

真昼、十数年越しに裁かれた罪 山川方夫「夏の葬列」

えんびフライが食べたい 三浦哲郎「盆土産」

血は争えない 柏原兵三「幼年時代

田舎にやってきたあかぬけたあの子(二人目) 阿部昭「あこがれ」

身分社会の浮彫 魯迅「故郷」

以上11編収録。

 

〇感想

意外とこんなんあったな、て思い出せるもんですね。

 

 

「神馬」が一番好み。「童謡」も好き。

 

「少年の日の思い出」とか、「夏の葬列」とかそっちには、とても個人的なある種の感傷がにじみ出てる気がしてあんまり目新しさはない。

その点、「神馬」はそういうとこを超越したどうしようもなさに打ちのめされる感じがあってよかった。

 

ほのぼのしたのは「幼年時代」。主人公が幼稚園児。それだけでかわいい。

 

「少年の日の思い出」って、「エーミール!」って呼びかけるシーンなかったんですね。

あとエーミールって主人公の名前じゃなくて友達だった。

『エーミールと探偵たち』と記憶が混ざってる。

改めて読むと、倫理的正義の前に一切の酌量なく断罪されてる気持ちになって悲しかった。しかも100パーセント主人公悪いし。でもこういうことってままありますよね。

 

〇印象に残ったシーン

 

「晩夏」本書p64より。

 そのうちに、夜の闇が全く、松の木も大学生の姿も呑んでしまった。私は息を弾ませながら一本の立木にもたれていた。手や足の方々が痛かった。至るところ負傷しているらしかった。

 私は浜のほうへでて、草叢から雑草の葉をむしりとると、それを膝頭や手首の負傷個処へ擦り付けた。

 私は、戦い終わったものの感傷で、暗い海を眺めた。曇っているせいか、海には一点の漁火も見えず、エンジンの音を海面に響かせていた。

 これ、あこがれの子と親戚関係のお兄さんが、彼女と仲良く話していたのに嫉妬して、彼に皆で石を投げてぼこぼこにする計画を実行した後のシーンなんですが、何感傷に浸ってんだお兄さん可哀そうすぎだろ、て思った。

 

 

 少年は家の中で彼女の声がするような気がしていつまでも耳をそばだてた。

 そういう日がずっとつづいた。そして、六月の雨のふる日曜日、少年が玄関のポーチに出てぼんやり立っていると、目のまえを彼女が赤い傘をさして通りかかった。

 彼女は彼がいるのを見つけて門の外から声をかけた。

 彼は、どうしよう、と思った。

(「あこがれ」本書p198より)

 こっちの子とはえらい違いだよな。前者はトトロのカンタがもっとやんちゃになったイメージ。

 

 

全部客観論理で解決しなきゃいけないの問題

一人学際という考え方を最近知った。

 

学際というのはそもそも、様々な学問から専門家を集めて、ある一つの問題に対して有機的・総合的に取り組むことで、一人学際とはそれを個人の中で完結させるものであるらしい。

 

難しく考えんでも、「あの時先生が言ってたあれって、もしかしてこれじゃない?」みたいな、昔のことがふと今に繋がってくるようなことは日常レベルで皆覚えがあると思う。

 

ただこれの難しいのは、その発見は自分の中での直感的な繋がりに過ぎず、言葉にしても他人からあんまり理解されない、ということが往々にしてあることだ。

僕は柔道を一生懸命練習してたら自然と数学が出来るようになった、という人の話を聞いたことがある。まじで意味わかんなかった。

 

他人に理解されないのは、「論理的」な文章になってないからだ、という指摘は非常によく聴かれる。

入試の現代文はそのすべてが客観的な視点から答えなければならない。

日本人としてある程度の同質性がこれまで保たれていた僕らは、グローバル化の波に飲まれている昨今にあって、まったく異質な他者と対話するために、論理力をより磨いていかなければならない、のかもしれない。

けど、ほんとにそれで良いのかと個人的には少し思ってしまう。

 

『学習の生態学』という非常に面白い本があって、その中で、ドレイファスの学習の五段階という概念が紹介されている。

 

学習の生態学

学習の生態学

 

 簡単に説明すると、

(1)初心者→決まったことしか出来ない(将棋でいう、駒の動かし方を覚えた状態)

(2)中級者→場面場面での対応は可能(部分定跡(棒銀の受け方とか)は覚えた)

(3)上級者→全体を見れるようにはなった(全て定跡を意味は分からず丸暗記した)

(4)熟練者→全体を分析的に対処可能(定跡の意味を全部知ってるし、経験もある)

(5)達人→全部経験(全ての場面を無意識的的に対処できる)

 

この論の面白いのは、(5)のモデルは一番上なので、教えるのも上手いのかと思いきや、全部直感で処理しちゃうので、むしろ(4)の人のほうが指導は上手だとしているところ。

(5)の人に教えさそうとすると、「ここでこの機械を使う」と口では言いながら全然別のものを操作しはじめたり、参照するといったパラメータを実際には見向きもしなかったり、といったことが平気で起こるらしい。

(5)の人は先達から教わったやり方は全部覚えているんだけど、それを元にして自分の経験を積み重ねてきて、優先されるのは後者のほう、ということがそこから分かる。

 

スポーツ漫画とかの中に、「データは裏切らない」(メガネくいっ)みたいなキャラは必ず一人いる。

けど、彼等が何故そんなにデータにこだわるかというと、「データは裏切らない」「から好き」っていう、きわめて主観的な気持ちが入ってるからだと思う。

 

この文章は思いついたことを適当に書き散らかしている。

これこそ「一人学際」の民間実践だよな、とか考えたりもするが、そもそもが普通何も意識せずに人に文章を書かせるととっちらかったものになるのは当たり前の話で、人間は主観で物を考えるからだ。

 

榎本俊二の『ムーたち』で、「セカンド自分」「サード自分」という、「自分を客観視する自分を客観視する自分」を作り上げる話があるけれども、サードまでいっても自分から、主観から逃れることは出来ない。

 

ムーたち(1) (モーニングコミックス)
 

僕はずっと塾でバイトしていて、生徒に現代文を教えたりする。

そん時は必ず、「論理的に、客観的に書かないと駄目だよ」って話をするわけだけど、言いながらでも何か変だよなといつも感じている。

論理教育を推し進めて、「筋道立ってればいい」がまかり通ってしまうと一番問題なのは、自分の論理が唯一の正解のように思ってしまうことだと思う。

そうすると、自分とは違う論理の人々は間違いであるから、正さないと、という過激派が産まれ、血で血を洗う論争が巻き起こることになる。

どんなに客観的に様々なデータを引っ張って説明しようとしても、先行するものたちのどれを信用するか、という部分が既にして主観であるわけである。

そのへんの、自分の論理をどれだけ自分で信じようとしないかが、いい学者かどうかの分かれ道なんて話あるけどこれは完全に蛇足ですね。

 

別に客観論理それ自体が駄目だと否定するわけではない。

完全な客観への志向を土台として今の時代が作られていることは疑いようがないと思う。

でも、なんつうか、せっかく「完全な客観」はちょっと難しいんじゃない?という流れがあるわけだから、もうちょっと主観を大事にする路線になっても良いんじゃなかろうか。主に学問界隈。

と、いう結論が既にして非常に主観的なのが、なんとも面白いよなぁとかぼんやり思ったりする。

 

もっと主観的で感情的でゆえに支離滅裂な文体で書いたら楽しかった気がするけど、書いてみたらこんなんなった。

今回は以上です。

サマセット・モーム『片隅の人生』 天野隆司訳 筑摩書房 2015年(原著1932年)

 サンダース医師は何も望まなかったから、誰の障害にもならなかった。彼にとって、金はたいした意味をもたなかった。

患者が金をはらっても、はらわなくても、気にしたことなど一度もなかった。人びとはサンダース医師を博愛主義者と思っている。

しかし時間も金と同じく重要ではなかったから、自分から積極的に患者の面倒をみているわけでもなく、ただ自分の治療で病原体が屈服するのを見るのがおもしろかった。

それに人間のさまざまな性質を見出すことにも興味があった。彼は病人と病人でないひとを混同していた。

人間はそれぞれが無限につらなる書物の一頁であって、そこには奇妙なくらい無数の繰り返しがあって、それがいよいよおもしろかった。

そうした人びとが、白いのも、黒いのも、黄色いのも、人生の危機的状況を迎えて、これにどのように対処するか、それを眺めることに好奇心をそそられた。

(本書p36より)

こんなやつが主人公の話です。

 

 

片隅の人生 (ちくま文庫)

片隅の人生 (ちくま文庫)

 

 

 

〇あらすじ

 凄腕の名医であるサンダース医師が、病気に苦しむ大富豪の頼みでマレー諸島のタカナ島まで治療に赴くことになる。

 

赴任先で出会うのは野卑な船長と、その船に乗る人間不信の様子を見せる青年。サンダース医師は彼らの船に乗船し、交流を深めることになる。

 

〇感想

 同じ著者の『月と6ペンス』が前読んだときすごくよかった覚えがあるので、それつながりで手を出しましたが自分にはあんまり合わなかったかもしれない。

 

 

 本編で繰り返し強調されるのは人間というものの不思議さで、例えば先の引用の、冷静を通り越して異常といってもよい性格のサンダース医師が、船が難破しそうになるとめっちゃてんぱってたりする。

 

あるいは下品で高尚なことは少しもわからず、カードをやっては巻き上げられてばかりいるニコルズ船長が、その嵐の際は別人のように頼もしく、また死を少しも恐れないような気高さを見せる。

 

『片隅の人生』というのは、当時の価値観としては田舎も田舎な東洋の島々のなかで、それでも全く自分たちと同じように複雑な人生を送っている、その妙味を現したものなのだろうと思う。

 

 なんであんまり楽しめなかったかの要因を探るのは簡単で、ひとえに既知の価値観をひたすら教えこまされているような気持ちになったからだ。

 

たまに移り変わりもするけど、基本的には物語はサンダース医師に寄り添うような形で進み、彼は前述のような人物なので、物事は淡々と進んでいく。

 

自分は本を読む際、①主題②登場する人物の魅力③綺麗な描写、の3つを楽しむタイプで、主題はしってることだったし人物は落ち着きすぎてるし描写はその人物の視点だから平坦だし、という風でのめりこむようなところがなく読み終えてしまった。

 

 

 まあそんな読み方でも最後までいけたので、(僕にいわれるまでもないけど)ちゃんと完成されている小説だとは思います。

 

〇印象に残ったシーン

 嵐のとこ。

 

医師はむなしく苦しんだ。目の前の排水溝から勢いよく水が噴出している。怖い、怖い、胸が痛い。

できることなら、恥も外聞もかなぐり捨てて、飛沫のこない隅へいって、体をちぢめて子犬のように、くんくん小声で泣いていたい。

とっさに神に祈りたい衝動に駆られたが、サンダース医師はぐっと堪えた。彼は神の存在を信じてはいなかった。

だから、唇をわなわな震わせながら、歯をぎりぎりくいしばって、必死になって、口を衝こうとする祈りの本能を抑えていた。

(本著p138より)

 サンダースさんの怖がりぶりに笑いました。実際どこともしれない島海で嵐にあったらそりゃこうなりますわな。彼の感情が理性より優位に立っている貴重なシーンです。

ペルソナ5クリアしたよ

発売してからちまちま進めてたペルソナ5、ようやくクリアしました。

 

ペルソナ5 - PS4

ペルソナ5 - PS4

 

 大人たちに虐げられる存在であった高校生たちが力を持ち、心を盗む怪盗団を結成し、歪んだ欲望を持った悪党達を改心させる、というお話です。

よくしらねー、という人はこのPV動画を見てくれれば感じは掴めるんじゃないかなと。

www.youtube.com

 

最終プレイ時間は95時間。95時間!?なげー。

僕はどちらかというと作業することが一杯あるゲームのほうが途中で飽きちゃうタイプで、だからペルソナ3はダンジョンが単調すぎて投げたんだけど、ペルソナ5は会話とかムービー見てる時間が多く、それも丁寧に作られてて見飽きなかったので投げ出すことなくプレイできました。

5はペルソナシリーズで個人的に非常にネックだったダンジョン部分が解消されてたし、戦闘とかメニュー画面とか演出とかもろもろすっごくスタイリッシュになってて、やってて非常に楽しかったです。

 

あとまあほんのちょっとタロットをかじったのが物語の考察を深めてくれて、あれこれ推測する面白みもありました。

「魔術師」と「戦車」ってどっちも強い志向性を持つという意味では同じアルカナで、だからモルガナと竜司は反発したりもするんですが、でもモルガナが出てった後になんだかんだ手を差し伸べるのは竜司なんだ、とか。

「皇帝」は父性/権力/統制とか、一見悠介には合わない解釈が並ぶんだけど、これは育ての親の斑目との関連で考えるとよくて、父に強い恩義を感じているからこそ彼は斑目を悪人と断じながらも憎みきることは出来ないし、人間のむき出しの欲望がこりかたまったメメントスやパレスに彼が強く惹かれるのは、アルカナ的には自分の極にあるものだから当然だよなー、とか、色々。

発売元のアトラスさんがネタバレは強く禁止しているそうで、あんまつっこんだこといえないんですが、こんな楽しみ方もあります。

 

www.famitsu.com

 

上のインタビューで語っている通り、タロット的にいうと

ペルソナ3は『死(死神)』

ペルソナ4は『節制』

違うシリーズだけどキャサリンは『悪魔』と『塔』

そしてペルソナ5は『星』、つまり希望の物語になるそうです。

星というとつまり三島君ですね。

彼の怪盗団に対する心酔ぶりはやばくて心配になっちゃいますよね。あれは鴨志田の改心が彼にとっては世界がひっくり返るような衝撃で、怪盗団に大きな希望を抱くようになっちゃったからなんですね。

何か自分も怪盗団の役に立ちたい、という思いで始めた怪盗お願いチャンネルが力を持つにつれて、三島君の中では自分も世界を変えられるんだ、という気持ちが強くなり、それは増長を呼んでいきます。

この辺までは、タロット占い的には、「星」の逆位置の相が強く出てるって解釈することが可能です。

最終的には彼はCOOP終盤で見せるような青年になりますが、これは怪盗団に憧れるだけでいることをやめたことを意味しています。

かつては「怪盗お願いチャンネル」の無責任な大衆たちと同じ、怪盗に身勝手な期待を押し付ける役回りをしていた三島が、自分の足で立とうと決意した。

これは自己の利益ばかりを優先する大人への怒りがテーマである本作にあって、地味ながらも凄く希望の持てる姿で、だから彼は星のアルカナなんです。

ペルソナ5」の怪盗団の協力者達は、全員が全員何かしらの形で社会から虐げられている人たちなんですけど、それはつまり皆タロットの逆位置が出てしまっている状態で、それを正位置に直していく役割をジョーカーは担ってる、とかこういう妄想じみたことを書いてると長くなるので、この辺にしときます。

ほんとはアルカナでこじつけて読み解くペルソナ5、とかやりたいんですけど、

ネタバレ満載になっちゃうからね。

 

ペルソナ5が『星』なら、順番でいけば次作品は『月』ですねー。

自分の持ってるタロット解釈本(下の奴)によると、恐れ/幻影/想像力/戸惑い、だそうです。

 

ラーニング・ザ・タロット―タロット・マスターになるための18のレッスン

ラーニング・ザ・タロット―タロット・マスターになるための18のレッスン

 

ペルソナ5の製作スタップはほぼそのまんまアトラス初のファンタジーの製作に移ってるとのことで、 割と作り易そうな言葉が並んでる気がします。

 

COOP全マックスのために2週目、というのはちょっと気力的に無理なので、完全版出るまで待つつもりです。

どうもp5に関連するドメインが最近次々取得されたそうで、これは多分完全版、出るよね?と勝手に思ってます。