寝楽起楽

ネタばれには配慮しない、感想/紹介ブログです。毎週1回更新 +α を目指したかった。

こどもの現実:『マイマイ新子と千年の魔法』 片渕須直監督 2009年

www.youtube.com

 

片淵監督は『この世界の片隅に』撮った人です。

 

 

 

 

〇あらすじ

 空想好きの女の子が東京から来た転校生と仲良くなっていろいろする

 

〇考察・感想

 こじんまりとしたいいお話。

 

 子供のための作品として監督は造ったみたいだが、実際には大人がいっぱい見に来たそうで、それは多分、子供、というものをものすごくうまく描いているからだろう。

 

 大人目線での子供は、「純真無垢」な存在、もしくは「理解不能な未知」な存在、のたった2種類に分けることしかできないと思う。

 

 だが実際には、子供はまっさらではありえない。彼らは彼らなりの現実を受容している。

 一方でまた、徹底した現実に居ることもない。彼らは彼らの幻想を生き生きと周囲に巡らせてもいる。

 結局はこれも、大人から見た子供像に過ぎない。

だが、爆発的ではなくとも、じわじわと浸透していく人気を勝ち得たのは、自分の中の子供の原像の何がしかにこの作品が触れえたからだと思う。

 

 派手な話ではないので、しみじみ綺麗な余韻な話に浸りたい、というような時にどうぞ。冒頭五分だけyoutubeでみられるみたいなんではっときます。

 

www.youtube.com

 

忍者を窓の外に走らせる遊びはやってたなぁ。 

 

以上。

 

 

空飛ぶばかりじゃいられない:『魔女の宅急便』 宮崎駿監督 1989年

 

www.youtube.com

 

 

 

魔女の宅急便 [DVD]

魔女の宅急便 [DVD]

 

 

言わずと知れた名作。見たことないと抜かす知人が居たので借りて一緒に見た。

 

〇あらすじ

 魔女の修行として13才で親元を離れた少女が宅急便する

 

〇考察・感想

 新しい発見がちょこちょこあって楽しかった。

 

箒にまたがって飛ぶまでの、髪の毛がざわざわしてく描写がすごいすき。
人の感情によって髪が動くのをアニメで実現したのはジブリが最初、ていう嘘か本当かわからん話を聞いて以来、観るときそこを追っかけるようになった。    

 

 一番自分の目節穴だと思ったのは、ニシンのパイ突っ返したあの女の子が飛行船見学の時にトンボの仲間の一人として映ってる=トンボが誘ってきたパーティーってあのパーティーだった、ってとこ。なぜ今まできづかなんだ。

 

 あと、物語の展開に直接関係ないカットがちょこちょこ挟まれてる、というのも新しい気づき。画家の女の子の家行く際に、重い荷物しょってるのを気遣って、坂道で後ろを押してあげるシーンとか。

 

 記憶にはあんまり残らない、こういうちょっとした遊びが入ることで、なんとなく観てる側としては息がつけるし、世界観を広げるのにも一役買ってる。すごい。

本筋をずーっと見せられると緊張しちゃって、繰り返し何度も観る、ということが気楽にしにくい。このあたりの気遣いが地上波で放送されまくる理由の一つなんではないかと。

 

 

 

 今回の考察では、一番の疑問となるであろう「なぜキキは飛べなくなり、ジジと話せなくなったのか」についてを解釈していく。

 

 まず押さえるべきは、キキは魔女としては「空を飛ぶ魔法」しか使えないという点。

 

 飛ぶ、という言葉から思い浮かぶイメージは自由ということである。しかしキキのそれはとくに、地に足がついていない。

 

 最初に街に降り立った時、人に迷惑がかかることを考えずに町中を飛び、その結果お回りさんに事情聴取されるシーンからは、彼女が全く世間を知らない少女であることが明らかにされる。

 

 反対に、キキのお母さんは薬を作ることで整形をまかなっているらしい。その仕事場は多種多様な植物が置かれている。そこからは、どっしりと大地に根を下ろしたような安定感が見いだされ、示唆的である。

 

 その失態でめちゃめちゃ落ち込んだ少女は、パン屋さんの好意に触れ、生来の気持ちのよさを取り戻し、前向きに自分にできることを考えて、宅急便を始める。

 

 こんときに、「私、飛ぶことしか能がないでしょ?」と明るく言うの、つええ・・・と思った。それしか能はない、けど逆にいうと「これはできる!」と心から確信してる。

 

 が、その「空を飛ぶ」という技能は、トンボと飛行船を見に行った日に消え失せてしまう。

地元の女の子たちと明るく話すトンボを見たからだ。

 

    ここでおそらくは明確に恋心を自覚する。で、独自解釈に入るが、自分がこの街の普通の子だったらいいのに!ってちょっと考えてしまったんじゃないかと思う。

 

    思い返すと、垢抜けたファッションをした子とすれちがい、「もっと可愛い服だったら良かったのにね」とジジに愚痴をこぼしたり、あるいは店番中に窓の外に写ったデートに出かける男女を羨ましそうに眺めたり、そういったものに憧れる描写は随所に挟まれていた。

 

     またキキがまだ旅立つ前に、父に思いっきり抱きついたり、またパン屋の主人にも飛びついていくシーンがある。

13才の女の子としては随分と幼い表現だ。

無論同年代の男の子と父親とでは大分異なるとは思うが、明確に異性としてキキの心に入りこんできたのはトンボが最初。

 

   ただでさえ、魔法を仕事として使っている中で、キキは故郷で守られていた昔は分からなかった、様々な現実を知っていく。

 

    そしてそれは恋の自覚で決定的になった。無邪気に空を飛びジジと会話をしていればよかった時代は終わった。

 

   ジジとは会話が成り立たなくなり、 空を飛ぶ魔法が弱まった際、懸命に練習をする中でキキは箒を壊してしまう(この時、ジジと話そうとするよりも、箒をまず手に取ったというのも興味深く、つまり仕事道具としての魔法のほうを重視した=現実を見ている、ということになるか?)。

 

   ジジも箒も、共に故郷から連れてきたもので、その二つが失われていくのはつまり、キキが独り立ちを始めた証でもある。

 

   最終的には箒、というかデッキブラシに乗れるようになっているが、ジジはただ鳴くだけだ。

両方とも元どおりになると、それはまた両親に心が帰っていってしまっているということ。

あえてそうはしなかった、という所に、自分は故郷と自分の街、その両方に位置を置くことができた、キキの成長を見た。

 

 

    またもうひとつ、身もふたもない、ネットでよく冗談交じりに言われる解釈として、「魔法が使えなくなったのは第二次性徴を迎えたからだ」というのがある。

 

    これ、どうなんだろうなあとずっと思ってたので、今回見るに当たってそういう描写ってあるんか?と探してみたら、1個だけこれは、というものを発見。

 

 ジジの言葉が分からなくなり、箒で飛べるか部屋の中で試すも、すこし浮き上がって落ちてしまった後。

 

 「どうしよう・・・」と呟いて、キキは両手をお腹に当てる。そして、「魔法が弱くなってる」という一言。

 

 アニメ的表現としては、困ったときって普通頭に手をやることが多い。それをわざわざお腹に持っていった。それはつまり???

 

 と、いう読みも、まあ確かに出来なくはないのかも。ただ他には見つかんなかったです。

 

    しかし、13才の女の子の性徴表現がないかを探す成人男性、ていう構図客観視するとこれは相当なものがありますね。

事件起こしたら新聞に書かれるでこれ。 

テロップは「知的好奇心があった」かな。うひゃあ。

自分はもしかしたら取り返しのつかないことをしたのでは?

 

 以上。

 

 

 

フランス的エスプリを超えた何か:『ぼくの伯父さん』 ジャック・タチ監督 1958年

www.youtube.com

 

よくわかんないまま見終えてしまい、今もよく分からない。

 

 

○あらすじ

 ネジがゆるんでるおじさんが騒動を巻き起こしさっていく

 

○考察・感想

 音楽いいなあ、で見始めて、あまりにも平坦に進みすぎて途中眠くなって、なんとか我慢してたら相変わらず何も変わってないのに、なんか面白い、のかも?と思い始めて、そのまま観てたら終わった。

 

 検索したらチャップリンみたいな喜劇的面白さを挙げてる人が一杯居たけど、でも彼の様なユーモアを全面に押し出してここを観てくれ!っていう作品ではなかったと自分は思う。

 

 モダン追求しすぎて美術館みたくなってる家のデザインとか、ちょっとした台詞回しとか、そのへんのフランスの品の良さ、を見るべきポイントの中心としてあげてる人もいたけど、それだけで終わらすのもなんかなあ。

 

 と思って調べてたら、いとうせいこうさんがジャック・タチを語ってる記事があって、これがまさしくこの映画の説明になってた。

 

 

www.cinra.net

 

 ジャック・タチは、好きに解釈しろよ、俺も好きに撮るから、で映画を作った。

 

 起承転結がはっきりしてて、ここで雰囲気を盛り上げて、みたいなお約束を一切合切無視して、自分にとって興味のあるところだけを偏執的に追いかけている。だからタチ自身の好奇心に視聴者側のピントが合うまでははっきしいって全く面白くない。合わせられなかったらそれで終わり。

 

 「一生懸命に頑張った人が報われました。めでたしめでたし」とか「ある人が不治の病にかかって死んじゃった」とか、そういう一本調子な物語に感動する人には、タチの世界は全くわからないと思う。でも、「なぜかどんなことにものめり込めない」とか、「夢中になれない」とか、「どうしても物事を斜めから見ちゃう」とか、ちょっとでもそういうコンプレックスがある人は、観ると理解できると思う。そして、「あ、この人よりは自分のほうが人間らしい、だから大丈夫だ」と思えるはず(笑)。

 

 やーなるほどなあ。

 

 しかし上のインタビュー読むと、『プレイタイム』も観ないとという気持ちになってきますね。 

圧倒的情感:『老妓抄』岡本かの子 新潮文庫 1950年

 目立たない洋髪に結び、市楽の着物を堅気風につけ、小女一人連れて、憂鬱な顔をして店内を歩き廻る。恰幅のよい長身に両手をだらりと垂らし、投げ出していくような足取りで、一つところを何度も廻り返す。そうかと思うと、紙凧のようにすっとのして行って、思いがけないような遠い売り場に佇む。彼女は真昼の寂しさ以外、何も意識していない。

 こうやって自分を真昼の寂しさに憩している、そのことさえも意識していない。

(「老妓抄」p8)

 

  どんな視点で世界見てればこんな描写できるんですかね。

 

 

老妓抄 (新潮文庫)

老妓抄 (新潮文庫)

 

 

〇あらすじ

芸妓を引退した老女が或る男を飼う「老妓抄」

ある寿司屋の常連老紳士が語る思い出「鮨」

東海道を放浪する男「東海道五十三次

飯屋のおかみが唯一与えられたもの「家霊」

ビンタから始まらなかった関係「越年」

つながった老女と童女「蔦の門」

姫を契機に悟りを開く「鯉魚」

彼にとっての妻は死んだ「愚人とその妻」

料理に才能を持つ高飛車おじさん「食魔」

以上9編所収。

 

〇考察・感想

 裏表紙では、「女性の性の歎き、没落する旧家の悲哀、生の呻きを追求した著者の円熟期作品」って書いてあるけど、あんまりそういう風には読めなかった。

 

 文章一つ一つが分かりやすく綺麗に書かれているせいで、切迫したものを感じとることができなかったからだと思う。

 

 誰だったかな、角田光代さんかな?どろどろしたものに浮いた、上澄みの部分を掬えるタイプの作家が居るって話をしてて、この岡本かの子さんの作品でいえば、上の説明書いた人はそのどろどろにつながる部分を読み解くことができて、自分はできなかったってことなんだろう。

 

 そんな浅い読みでも楽しく読めちゃうぐらい文章が素晴らしかった。

 

 「老妓抄」の締めの歌、

 

 年々にわが悲しみは深くして

   いよいよ華やぐいのちなりけり

 

 これも秀逸。作品全体のテーマなのかな?

 

 あからさまに悲劇という話は一つもなく、むしろ全体としては幸福とさえ言えると思うんだけど、でも一つ一つには虚しさとか悲しさとかが伏流してて、それが却ってある種の鮮烈さを生み出している、ような気はする。

 

〇印象に残ったシーン

 その子供には、実際、食事が苦痛だった。体内へ、色、香、味のある塊を入れると、何か身が穢れるような気がした。空気のような食べ物はないかと思う。腹が減ると餓えは充分感じるのだが、うっかり食べる気はしなかった。床の間の冷たく透き通った水晶の置きものに、舌を当てたり、頬をつけたりした。

(「鮨」p57)

 こんな純粋な少年存在していいの?いや、存在はしてないんだけど。

拒食症とかにかかってしまう人って、こんな風だったりするのだろうか。

 

 私は身体を車体に揺られながら自分のような平凡に過ごした半生の中にも二十年ともなれば何かその中に、大まかに脈をうつものが気づかれるような気のするのを感じていた。それはたいして縁もない他人の脈ともどこかで触れ合いながら。私は作楽井とその息子の時代と、私の父と私たちと私たちの息子の時代のことを考えながら急ぐ心もなく桑名に向かっていた。主人は快げに居眠りをしている。少し見えだしたつむじの白髪が跳ねて光る。

(「東海道五十三次」 p100)

 

 大まかに脈をうつもの、自分も欲しい。

 

以上です。