寝楽起楽

ネタばれには配慮しない、感想/紹介ブログです。毎週1回更新 +α を目指したかった。

運命の出会い:『君の名は。』 新海誠監督 2016年

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今更鑑賞。

 

○あらすじ

 いれかわちゃった。

 

 

 

 

○考察・感想

 序盤に出てきた糸森町の国語の先生『言の葉の庭』の雪野先生と違う?

こういうスターシステム的なのは凄い好きです。

 

 観終わった直後の感想として思ったのは、5年後/8年後の糸森が果たしてどうなったのかがまるで描かれていないのがやや不満かなと。

 

 二人をつないだのは大きくは宮水神社の血筋であり、また組紐という伝統技術は映画の中で象徴的に用いられるし、古来より脈々と生き継がれてきたもの、というのが糸森にはあったはずで。

 

 それは彗星の落下で粉微塵になっちゃうわけだけど、故郷をなくした葛藤というのは全く示されず、被災した子供達が成長して東京で暮らす姿だけが描かれる。

これはどーなん?と。

 

 んだけど、その後ぼんやり色々と考えた結果、あれは大人たちの現在が描かれていないことも含め、意図された空白箇所なんではないか、という気がしてきました。

 

 この作品において一番大事なのは、瀧と三葉が長い時を経て、出会うというところ。

 

 「何かを捜し求めている気がする」「何かを忘れている気がする」二人同士が、ずっと昔からお互いを知っているような気持ちになりながら惹かれあっていくのだろーなーという感じなんですが、もしかしたらその感情の根底には、こんな壮大な出来事があったかもしれないね、という物語としてみると諸々納得いくところがあります。

 

 千年以上続く伝統、というのは、要はそれだけの昔から(前々前世から)の因縁がった、という舞台説明の一つ。「さるべきにやありけむ」で「前世からの因縁があったのではないだろうか」なんて受験古文で覚えさせられましたね~。

 

 大人たちが必要最小限にしか描かれない、というのも、何かを強く求める気持ちが強いのは彼等よりも断然高校生達のほうだから。大人の方を描写しすぎてしまうと、「君と出会う物語」という主軸から逸れていってしまうのを嫌ったのではないかと。

 

 ただ個人的には、色んな解釈の幅が広い作品のほうが好きなので、その辺もやっぱりちらっとでも見せてほしかったかな。

 

 新海さんのおっきな特徴として、確実に多分彼の頭の中では町長が現在どうしているのかとかも決めてるんだろうけど、無駄だと思うと全部省いちゃう、というところにあると思う。

 

 確かに小説で脳内設定を延々語られるとダルいんですよね。でも漫画・映画は、本媒体と違って読み飛ばすのも簡単だし、ちらっと画面の隅にそうした設定を入れこむハードルはものすごく低い。

 

 にも関わらず全部ばさっとそぎ落とす、その手法は映画よりもむしろ小説的だという気がします。

 

 自分は映画より本のほうを多く読んできた人間で、映画には本にはない要素を求めている部分が大きいので、そういう意味でどっか新海さんとはかみ合わなさが出るのかもしれないです。

 

 以上。

救い:『言の葉の庭』 新海誠監督 2013年

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雨の演出の美麗さ最高。

 

 

言の葉の庭

言の葉の庭

 

 

 

○あらすじ

   バッシングで学校に行けなくなった女性教師と靴職人になりたい学校の生徒がお互いの素性は知らず雨の公園で心を通わせ合う

 

○感想•考察

   「愛よりも昔、孤悲のものがたり」というキャッチコピーにはやや考えるところあり。

 

  確かに雪野先生のほうは謂れのない悪意に晒され「歩くこと」も上手に出来なくなり、でも他人とはどこかでつながっていなければならない「孤独で悲しい」状態で、だから靴としてもま繋がりとしての役割も果たしてくれる孝雄を求める、というのはとても理解できる。

 

  問題は孝雄。未だ少女のような恋愛を繰り返す母の下育った彼は年の割には相当自立した存在。

 

  また彼は同時に、兄とも、学校内でもちゃんとした関係を築き上げることができている。つまり、孤独ではない。

 

  そして何より、作中において孝雄は雪野先生に惹かれていることが明確に描写される。

つまりこちら側からすれば、これは孤悲ではなく恋の物語なのではないか?と思うわけです。

 

 孝雄の側からも孤悲なのであれば、キャッチコピーがこれなのは納得なんだけど、いまいちそこを掴みきれなかった。

 

 もしくは「孤悲」の概念解釈そのものを間違っている可能性があるか?

雪野先生のそれを、「孝雄に自らの本心を明かしきれない(本質的に孤独のまま)の悲しみ」

孝雄のそれを「先生が全てを明かしてくれない悲しみ」と取ってみる。

 

 ただこの場合も、孝雄の描写が弱いかなあ。やっぱり彼が雪野先生と比較して孤独ではないのは自明だし。

 

 彼の悲しみの根源は知ることができないこと、にあるとすると、その表現はものすごく難しいでしょうね。

 

 雪野先生の視点からすれば、孝雄の知らない彼女の情報を視聴者にだけそうと分かるように見せてあげればそれで済みます。

 

 しかし孝雄の場合はそれへの切望を描かなきゃいけない。結局のところ大部分をそこは独白で補ってた気がするけど、そこをもっと映像表現でも頑張ってくれると個人的にはもっと突き刺さる作品になったかも。

 

 以上。

 

海賊は誰だ:『パイレーツオブカリビアン 最後の海賊』 ヨアヒム・ローニング&エスペン・サンドベリ監督 2017年

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 ※ネタバレには配慮しないです。それでも良いという方のみどうぞ

※前作以前のは見たり見てなかったりで記憶も曖昧なため、今作のみでの考察をします。

 

 

○あらすじ

  10年に一度しか陸に出られない父の呪いを解きたい青年と行方知らずの父を追い求める孤児出身の天文学者の女の子が海賊にひっかきまわされながら頑張る

 

○考察•感想

   早速だけど、ストーリーの核心に触れながら考察を始める。

 

    ジャックスパロウは、かなり型破りな性格で描かれる。

    強引な銀行強盗作戦を決行に移し金庫の中で眠りこけ、酒を飲むために(これは途中で明かされることだけど)亡き船長から受け継いだ欲しいものを指し示すコンパスを担保としてためらいなく酒場で差し出す。

   敵役サラザールから「小鳥のような」と称される彼は、自分の得た宝についてさほど執着がない。それは捻った見方をすれば、海賊らしくない、ともいうことができる。

 

    そんな、海にさえも縛られない彼だからこそ、光る石で星々を表す島に上陸することが可能となる。

   もしジャックが現代に居たのであれば、彼は海ではなく空に向かったのではないかと思う。

 

 

   主要人物の一人、天文学者カリーナについても考察。

 

   女性でありながら科学を学んでいる、という点で、当時かなり先進的な人物。実際序盤で魔女として迫害されていたりする。

 

    彼女はその合理性から、当初は青年ヘンリーの調べた伝承を全く信じようとしない。

    しかし説明のつかない出来事を経験するにつれ、その考えを改めるようになる。

   ここで起こっているのは科学→浪漫、という逆行。

  天体望遠鏡/クロノメーターといった科学的なアイテムが初期にのみ登場するのも象徴的。

  段々と彼女は物語の世界へと引きずりこまれていく。

  そして後半、彼女はジャックのライバルであるバルボッサの娘であることが、やや唐突に明かされる。

  バルボッサはジャックと違い、宝を大事にする典型的な海賊。彼女は実はその血を引く者だった。

 

   今回における敵キャラ、サラザール

  彼はかつて海賊殺しでならしたスペイン人。

  イギリス人ではない、というところが重要で、史実的には アルマダの海戦でスペインの誇る無敵艦隊はイギリスに破られている。

  つまり彼は失われた過去の栄光。サラザールの幽霊船がジャック郎等を追いかけるイギリスの船を邪魔だと言わんばかりにはぶっ壊すシーンがとても良かった。

 

   そして終盤、舞台は割れた海の底に移る。持つ者は海を制する、と言われたトライデントの槍は、一時サラザールの手に渡るもヘンリーによってぶっ壊される(=古い伝説の崩壊。ヘンリーはかつてのジャックの仲間ウィルの息子であり、新しい時代の到来)。

 

   それによって呪いは解かれ、また同時に割れた海がどんどん一行に迫ってくる。

    絶体絶命の危機に差しのばされるのは、上の船から降ろされた錨。それにしがみつくのはジャック、ヘンリー、カリーナ、バルボッサ、それにサラザール

 

    サラザールが追ってくるのをみたバルボッサは、カリーナにお前は自分にとっての宝だ、と告げサラザールを巻き込み海の底に落ちていく。

 

   宝を守るために殉じる、それはまさしく誇り高い海賊の生き様。「海賊はつらいよな」としみじみ呟くジャックの言葉が全て。

 

   ラスト。カリーナは自分をバルボッサと名乗る。海賊は彼女の中に受け継がれる。

    航海に乗り出すジャックの前には、バルボッサの肩に乗っていた猿がやってくる。顔をひきつらせるジャックに彼が差し出すのは色んな人の手を行き渡っていったコンパス。

 

    ジャックの肩に乗る猿。空を自由に飛ぶような存在であった彼もまた、この映画を通じて海に縛り付けられたことが示され、エンドロール。

 

   「最後の海賊」はバルボッサ。古い因習が消え、科学が到来していく世においてしかし、その心は確かに受け継がれていく。

 

 

    まあこんな風な話ですかね〜。

   原題である「死人に口なし」の死人は多分サラザールですね。

  バルボッサは死んでない、俺たちの心の中に受け継がれていくんだエンドだと僕は見ました。

 

   すげえ金かかってて、スクリーンで見ると迫力が違います。

 

   ジャックのむちゃくちゃぶりにさざなみの如く笑いが広がる、良い雰囲気の劇場で鑑賞できて満足。

 

   以上です。

 

   

 

女性のためのファンタジー?:『ゲド戦記4 帰還』 アーシュラ・ル=グウィン 清水真砂子訳 2006年

「つまり、男は皮をかぶってるんじゃないかと。かたい殻を被ったクルミみたいに。」コケは言いながら、ぬれた、長い、曲がった指でクルミをつまみあげるしぐさをした。「まったくこの殻は固くて、丈夫で、中は男がいっぱい。すごい男の肉がびっしり。どこをとっても、男、男。でも、それだけ。あるのはそれだけ。中身は男だけ、ほかにはなんにもない」

(中略)「じゃあ、女は?」

「そりゃ、おかみさん、女はまるっきりちがいますわな。女というものがどこで始まって、どこで終わるか、それがわかってる者がどこにいます?いいですかね、おかみさん、このわしも根を持っている。その根はこの島より深く、大地が持ちあげられたときよりもっと昔にさかのぼり、ついには闇の世界に帰っていく」

(本著p85-86)

 

 

帰還 ゲド戦記 (岩波少年文庫)

帰還 ゲド戦記 (岩波少年文庫)

 

さーわかんないぞー。

 

〇あらすじ

 力を全く失ったゲドがおばさんになったテナー(『壊れた腕環』で助けた女の子』)の元に帰っていく

 

 

〇考察・感想

 『さいはての島へ』から18年の歳月を置かれて書かれた本作は、それまでとはかなり味が異なり、一転してテナーの目線からのいわゆるフェミニズム、なのか?が濃厚。

 

 前3部作は「ゲドかっけぇ、アースシー楽しそう」なんていうぐらいな気持ちで読み進めていくことが可能。なだけに、あのゲドがただの傷ついたおっさんになり、あのテナーがおばさんになり、というのは衝撃的で、実際賛否両論あるみたい。

 

 とりあえずテナーがすげーいろんなもの(ゲドにも権力者にも自分にも)に対して切れてて、それは作者の現実に対する意見が反映されているんだろうが、それ以上の理解が僕には追い付かなかいです。

 

 映画『ゆれる』を前に見たとき、自分は次男なのでオダギリジョーに感情移入しまくり、反面長男の香川照之の心情がさっぱり理解できないことがあって、僕の立ち位置をはっきりと自覚したことがあった。

 

 今作も、「理解できない」という形で、強制的に自分の場所を意識させられた。

ただ「フェミニズム文学なんだね」でただ片づけてしまうのは折角の読書をドブに捨てる行為なので、もうちょいじっくり本作について今後考えていきたいと感じます。

 

 本作品に対する多分男性の意見として、「ゲド戦記アースシーという舞台でやる必要性を感じない」というようなものをみたが、むしろ逆に「あえて作者が他作品ではなくゲド戦記でこれを書いた意図は何なのか?」ということを考えたほうが身になるかと。

 

 

 今回作品については全然何もいえないので、せめてものあがきとして。ベクデル・テストというものを皆さん知っているだろうか?

 

 創作物において、どれほどのジェンダーバイアスがかかっているかどうかを判定するためのテストのことで、その判断基準の中心は以下のたったの3つ。

 

1.少なくとも2名、女性が出てくる。
2.互いに会話をする。
3.話題は男性以外のものである。

 

  これ満たす作品、どれだけあります?なんやかんや言われても、確かに男性偏重の世の中ではあるのかも。

 

   ちなみにこのテストは、カクヨムで活動されている浅原ナオトさんの紹介で知りました。

 

   ナオトさんの代表作であるこれ↓は、自分にとって性にまつわる問題を考えるきっかけです。

 

kakuyomu.jp

 

  これは女性じゃなくBLの話ですが。

 

   web小説ってほんとにこれ無料で良いんですか?て思うようなもんがごろごろあるんですよね。web小説タグを作ってその辺も紹介していきたいなあ。

 

 

  

 

 

 

〇印象に残ったシーン

 ゲドの師匠、オジオンが死ぬところ。

 テナーは宵闇のなかに死者としばらくすわっていた。牧場のむこうにカンテラの灯がホタルのように光っていた。テナーはテルーの持ってきてくれた毛布をオジオンと自分の両方の上にひろげていたが、オジオンの手を握る彼女の手はまるで石ころでも握っているように、だんだん冷たくなっていった。テナーはもう一度オジオンの手に額を押しあてると、立ち上がった。からだが言うことをきかず、目眩もして、自分のからだではないようだった。やがてテナーは人を迎えにおりていった。カンテラの灯が誰のであろうと、ここまで案内しなければならなかった。

 その晩、村人たちはオジオンの傍らで通夜をした。もうオジオンは村人を追い返しはしなかった。

(p40-41)

  死んでしまっても居なくなるわけではない、というのを最後の一文が端的に表しているようで、ちょっとハッとした。