僕が九歳で世界が想像しうるあらゆるたぐいの壮麗さに満ちていて、人生がいまだ楽しい神秘な夢だった古きよき時代のある日、僕以外のみんなから頭がおかしいと思われていたいとこのムーラッドが午前四時にわが家にやってきて、僕の部屋をこんこん叩いて僕を起こした。
アラム、とムーラッドは言った。
僕はベッドから飛び出して窓の外を見た。
僕は自分の目が信じられなかった。
まだ朝ではなかったけれど、夏だし夜明けもすぐそこまで来ていたから、夢ではないとわかるだけの明るさはあった。
僕のいとこのムーラッドが、美しい白い馬の上に坐っていたのだ。
(本著p15「美しい白い馬の夏」より)
ゆるいユーモアの短編集。
○あらすじ
頭がおかしいいとこと一緒に馬に乗った「美しい白い馬の夏」
アホのジョルギおじさんとおつかいにいった「ハンフォード行き」
最低の農場主で詩人のメリクおじさんと砂漠で農業した「ザクロの木」
アラムもアホだった「私たちの未来の詩人の一人、といってもいい」
神秘的なジコおじさんにアドバイスもらった「五十ヤード走」
鞭うちラブコメ「愛の詩から何からすべて揃った素敵な昔風ロマンス」
学校中で一番頭がいいディクランの演説「僕のいとこ、雄弁家ディクラン」
無造作宗教「長老派教会聖歌隊の歌い手たち」
毎年恒例おやじの鞭うち「サーカス」
認められた少年たち「三人の泳ぎ手」
インディアンの車を運転「オジブウェー族、機関車38号」
おじさんへの老人のありがたい忠告「アメリカを旅する者への旧世界流アドバイス」
きむずかオスローブおじとアラブ人の奇妙な交友「哀れな、燃えるアラブ人」
ニューヨークへ行け「あざわらう者たちに一言」
以上14編所収。
○考察・感想
親戚に一人は欲しい、「なんかよくわかんないことしてふらふらしてるおっさん」の成分が小説になりました。
そういうおっさんって概して嫌いな人からはすっげえ嫌われるもんだが、これにはそんな存在は居ない。肯定されてる。優しい世界。でもその「ふらふらの方向性」がなんだかやっぱり身近にいる人らと違う感じがする。
アメリカのアルメニア人、というちょっと自分にゃどんな風なのかまるで想像もつかない集団が主になってて、それが却って曖昧模糊とした小説の雰囲気を増幅させている。
あとがきを読むと、当時の情勢もあいまって発表当初は「楽観的にすぎる」という批判があったらしい。
ただ、サローヤン自身も決して楽な人生を送ったわけではないことはあとがきにも明示されているし、そうした人達へのアンサーは最後の「あざわらう者たちに一言」で十分示されてる気がする。
信じる、と僕は言った。何を信じるんです?
何もかもをだよ、と彼は言った。思いつくこと何もかもをだ。左、右、北、東、南、西、二階、一階と四方、内、外、見えるもの、見えないもの、善と悪とそのどちらでもないものとその両方であるもの。それが秘訣なんだ。私はこれに行き着くのに五十年かかったよ。
それだけでいいわけ?と僕は言った。
それだけだよ、と伝道師は言った。
オーケー、と僕は言った。僕、信じますよ。
君、と宗教の人はいった。君は救われた。もうニューヨークへ行こうとどこへ行こうと、何もかもすらすら楽に行くはずだ。
(p241)
14ある物語中で、哀切を味わうことになるのは「ザクロの木」のメリクおじと「哀れな、燃えるアラブ人」オスローブおじ。
地に足つけろよおっさん、と思うのと同時に、いつまでも夢を見ていて欲しいという感情もあるのが不思議である。
以上。