寝楽起楽

ネタばれには配慮しない、感想/紹介ブログです。毎週1回更新 +α を目指したかった。

BAD ENDが多すぎる:『美しい恋の物語 ちくま文学の森1』 安野光雅他編 筑摩書房 1988年 

 部屋の中に明りがさした。ボヘミアンネクタイがマッチを擦ったのだ。それから火をランプに映した。ボヘミアンネクタイの上半身が障子に映った。鳥打帽を脱いだ手巾を取った。それは間違いもなく僕の妹の横顔だった。

……いや決して美人ではなかった。ただ月光と長襦袢が僕に夢を売りつけたのだ。

(「初恋(尾崎)」 ラストより)

 

  明けがた、雪が降り出しました。雪はクヌートの足の上につもりました。それでも、クヌートはまだ眠っていました。ーー村の人びとが教会へ出かけました。するとそこに、ひとりの職人ふうの若者がうずくまっていました。その男はもう死んでいました。凍え死んでいたのですーー柳の木の下でーー

(「柳の木の下で」 ラストより)

 

美しい恋の物語 (ちくま文学の森)

美しい恋の物語 (ちくま文学の森)

 

 


 

 

まじでまともに成就したといえるの一編もなかった。美しい恋とは。

 

○あらすじ

・誰が踏みそめしかたみぞと:「初恋」 島崎藤村

・同性愛によろめく:「燃ゆる頬」 堀辰雄 1932年

・祭りの幻想:「初恋」 尾崎翠

・身分違いの夢:「柳の木の下で」 アンデルセン 1853年

・恋と愛と:「ラテン語学校生」 ヘルマン・ヘッセ

貞淑でない:「隣の嫁」 伊藤左千夫 1909年

・センチメンタルの病:「未亡人」 モーパッサン 1882年

・謎の貴婦人:「エミリーの薔薇」 フォークナー 1930年

・恋文ノンフィクション?:「ポルトガル文」

 ・夢を売る画廊:「肖像画」 ハックスリー

・芸達者:「藤十郎の恋」 菊池寛 1919年

・あいつに惚れてる貴方に惚れた:「ほれぐすり」 スタンダール 1830年

・春風さやさやかぐや姫:「なよたけ」 加藤道夫 1943年

以上12編所収。

 

○感想・考察

 実は数年前にもこの本については記事にしたことがあって、ただ飛んでもらえれば分かるとおり最初の方のものしかコメントしておらず、なんでかというとそこで一度投げ出したからである。ということで今回は再チャレ、無事読みきることに成功した。

 

 安野光雅さんの感想が感想でなく、しかもその話もまた結局成就していないというところがなんとも味わい深い、のか?

 

 全体の印象の感想を言うと、欧米の作家のは恋愛の世界の追求(「柳の木の下で」「ポルトガル文」)と、作品によってはそれを許さぬ世間(「ほれぐすり」)みたいなとこにスポットが当たってるのに対し、日本はちょっとコミカルだったり(「初恋」「隣の嫁」)そもそも恋といえるか微妙だったり(「藤十郎の恋」)。

なんで、欧米のはわりに着地地点が予想しやすい(成就か破滅か)のに対し、日本のはこれどこにころがんの?みたいなとこがあった。どっちがいいかはまあ一長一短。

 

 予想のつかなさ一位はダントツで「なよたけ」。そもそもかぐや姫が実在したかどうかすらよく分からなくなっていくという。この脚本で演劇見れたらさぞ面白かろうと思った。

 

 愛の重さは「エミリーの薔薇」と「ポルトガル文」で甲乙つけがたい。後者はノンフィクション説がずっと有力で、最近は創作という風に見られてる(?)みたい。相手のフランス人将校がどんな顔してこの恨みつらみがこもった手紙を読んでたのかが気になって気になってしょーがなかった。

 

 ちなみに、壮絶一位は「藤十郎の恋」ほのぼの一位は「初恋(島崎)」です。

前者は描写の迫力、後者はそもそもまともにのびのび恋愛について書いてるの島崎さんしかいねーんだもん。美しい恋とは。

 

 以上。

たわだ語の思想:『エクソフォニー 母語の外へ出る旅』 多和田葉子著 岩波現代文庫 2012年

 人間だけではなくて、言語にもからだがある、と言う時、わたしは一番、興奮を覚える。日本語にも、たとえば、文章のからだ、「文体」という言葉がある。文章はある意味を伝達するだけではなく、からだがあり、からだには、体温や姿勢や病気や癖や個性がある。

(本著p197)

 

 

エクソフォニー――母語の外へ出る旅 (岩波現代文庫)

エクソフォニー――母語の外へ出る旅 (岩波現代文庫)

 

 

    すごくすごく面白かった。

 

◯内容要約

    母語の外にでた状態一般を指す、エクソフォニーという言葉を手始めに、ドイツ語と日本語の両方で著作を行う筆者が、エッセイ形式で言葉についての洞察を行う。

 

◯感想・考察

   ここまでのお話を、しかも意識的にではなくあくまでも自然に感じている状態として書けてしまう多和田さんにはもう平伏すしかない。

言われてみれば!が大量にありすぎて、ちょっと追っつかない感があった。

 

   前も書いた気もするけど、高校ん時に現文の授業で、日本語で何でも名付けた世界に居る以上、自分らはその檻に閉じこめられてるし、それは他言語をやったところで結局変わらない、というようなことを教わり、ちょっぴり絶望した思い出があり、今でもちょくちょくその事を思い返したりする。

 

   檻という言葉を聞くと、自分はジメジメとした地下で、蠟燭の灯りが影を肥大化してみせて、苔がタイルの隙間からそこかしこにのぞいてたりして、水の垂れる音がどこからともなく聞こえて来る、みたいな牢獄然としたイメージ(これは恐らく、クロノ・トリガーのマールを誘拐した罪で投獄されるあの場所を大分引きずってる)を持つ。

   なんだけど多和田さんは、確かに檻は檻として存在するんだけど、その隙間から入ってくる清涼な風を一身に感じられるような非常に通りの良い檻を持ってらっしゃるっぽくて、かつ其処から檻の外に対して、きちんと中で響かせた言葉を投げかけてる、その在りようが素晴らしいと思った。

 

  日本語で書いている人は、日本語しかできないという消極的な理由ではなく、その言葉を選んで書いてるんだということをもっと自覚しないといけない、て部分と、書き言葉であっても其処にはちゃんと特有のなまりが出て来る、て話が面白い。

 

   読書記録とか日記みたいなもんは挑戦挫折を繰り返してきたが、結構前はその直前まで読んでたものに露骨に文が引きずられたりしてた記憶がある。

それを踏まえて考えてみると、最近はまあまあ安定してるような気もしなくはないがしかし、「これが俺の訛りだッッ」と思って前の文を読んだりすると、もうちょっとどうにかならんものかなあと思ったりもする。

でもまあ、訛りってそういうもんかもしれん。

 

以上。

 

無貌の意思:ジャック・ロンドン「萎えた腕」他感想 雑誌『MONKEY』VOL7より

 「我らは知っている。父親から、そのまた父親から一部始終を聞いた。彼らはまるで子羊のようにやってきた。もの静かなしゃべり方をした。連中がもの静かにしゃべったのも当然だ。当時は我らのほうが数が多く、強力で、すべての島を支配していあたのだから。それでもの静かなしゃべり方をしたのさ。やつらには2種類の人間がいた。ひとつは神の言葉を説く許可を求めた連中だ。彼らはこちらの寛大な許可を求めた。もうひとつは交易をする許可を求めた連中だ。彼らもこちらの寛大な許可を求めた。そいつが始まりだった。

(P32より)

 

   植民地期の闘争を真っ向から書いた作品って読んだことなくて新鮮だった。

 

 

MONKEY Vol.7 古典復活

MONKEY Vol.7 古典復活

 

 

○あらすじ

 ハンセン病を患ったハワイ先住民が白人と闘う ジャックロンドン「萎えた腕」(村上春樹訳)

 挫折して故郷に返る青年が過去を振り返る カーソン・マッカラーズ「無題」(柴田元幸訳)

 制御できない呪いの因果 トマス・ハーディ「萎えた腕」 柴田元幸

 主人を失い行き場をなくした きたむらさとし「外套」

 

  「病者クーラウ」、まえおきでハンセン病の描写が惨いんだけど、当時(1909年初出)の目線を反映しているものだからそのまま載せますていうてて、覚悟決めて読んだらひょうしぬけた。

 ただこれはハンセン病について自分が無知すぎたことが関係してて、画像検索したら納得いったんだけど、初読時は例えば

 彼ら男女三十人は、社会から締め出されたものたちだ。彼らの上には獣のしるしがつけられていたのだ。

 人々は花輪をつけ、月光を浴び、かぐわしい匂いのする夜の中に坐っていた。彼等の唇は奇妙な音を立て、その喉はクーラウの言葉に賛同するように、耳障りな唸りを発した。誰もがかつては当たり前の男女であった。しかし今はそうではない。今では彼らは怪物だった。(p33)

とか

 「誰が病を運んできたのだ、クーラウ?」とキロリアナが尋ねた。

針金のように痩せた男で、笑ったファウヌス(ローマ神話の神)のような顔をしている。ヒトはその顔を見て、下半身に裂けた蹄があることを期待するかもしれない。(p34)

 

とかから、ハワイが舞台ということもあいまって、クトゥルフとかのグロテスクだけど神性を帯びてる人たちの病者、みたいなファンタジーな読みをしたのが原因かと思われる。

ただ醜さだけを強調するならローマ神話の神を引き合いには出さないだろうから、ある程度意図的にやったのでは?とも思うが、村上さんがそんなことは一言も言っておらず、当時の事情もとんと詳しくないので分からん。

主人公であり反乱のリーダーでもあるクーラウは、史実の通り負けていくのだが、その際に白人のシステム的な支配への意思に対して尊敬の念すら抱く。それさえ共有してさえいれば白人側は誰が全面に出てきてもよく、白人のほうに固有名を持つ人物が登場することはない。

一方で反乱側はクーラウで保っているようなものであり、彼はたった一人で白人全体の意思と闘っているも同然で、まあそりゃあ負ける。

で、その個人vs白人の構図が、同時に神話vs近代科学の構図として読み解けたら面白いなー、と思いながら読んでた。ほんとにそれでいけるのかは知らんが、多分無理筋。

 

「無題」、あらすじで一行でまとめてしまうとなんともつまらんね。

場末の町の寂れた酒場で、子ども時代の未だ本人の中で消化できていない思い出を徒然に回想していくうちに、突如として精神的に大人への脱皮を果す話だと思って読んだ。

思い出の一個一個をトラウマ的に保持している実感が滲み出ていて読ませるものがあり、カーソン・マッカラーズは他作品も読みたいと思えた。

後終わり方に中々非凡なものがある。最後の7行、多分削ってもそのまま小説として成立するんだけど、それがあることで全体の深みがぐぐっと増しているように感じる。

 

「萎えた腕」、これは普通にエンタメ小説として質が良いかなという印象。イギリスの田園地帯が舞台ということで、その辺の雰囲気もついでになんとなく知れて現代のと比べてお得だってぐらい。

 

「外套」は唯一の絵本。なんか良かった、としかいいようがない。のめりこむような風でもなく、とぼけた空気のまんまそう終わるのかあ、で終わって。外套が何の違和感もなく意思を持って動いているのも、普通に受け入れて読めてしまうのが不思議だ。

 

 このvol7MONKEY、他に村上春樹柴田元幸が復刊されてほしい翻訳小説について語る、という題目でアメリカ・イギリスの小説を豊富に網羅してくれるのと(まあ名前が挙がった奴大半絶版で読めないんだけど)、村上春樹川上未映子がインタビューしてる奴と、あと発行2015年なんでノーベル賞関連ではなくカズオ・イシグロにもインタビューしてたり、内容が濃い。

 

 お洒落風で手出しにくいと思ってたけど、思ってた以上に良い雑誌だった。今後も買い。

 

以上。

私論・詩と短歌と小説の違い

    読んでみっか!という気分になり、11月版の「短歌研究と」「歌壇」をパラパラめくってみたところ、なんとなく短歌がどういう性質のものなのか分かった気になれた。

 

短歌研究 2017年 11 月号 [雑誌]

短歌研究 2017年 11 月号 [雑誌]

 

 

 

歌壇 2017年 11 月号 [雑誌]

歌壇 2017年 11 月号 [雑誌]

 

 

   ということで、短歌と詩と小説のそれぞれの特徴を整理してみようというのが今回の記事です。

 

◯短歌

   最近は少しゆるくなっているものの、短歌はその全てが三十一文字の制限、定型を意識して作られると言って過言ではないと思う。

形式が定まっていると方向性も似通うのか、あるいは文字数の少なさが原因なのかはわからないが、わかりやすいテーマ(恋愛とか)が選ばれる傾向が強い。

そのため短歌は、その日常経験の「わかりみの深さ・軽妙さ」といったところで勝負している、というのが大きな特徴として挙げられるのではなかろうか。

逆に言うとこれは、深い読み込みをしない限りは全部同じに感じてしまう、ということでもあり、個人的に短歌系の本を読んだ時に驚いたのは、一句一句全てにちゃんとコメントが付けられていることだった。

また上に付随する要素として、個人的経験が詠まれることが多いために、作者の顔が非常に見えやすく、かっこつけた言い方をすれば、自我を離れることが難しい、ということも挙げられるのではなかろうか。

 

 

◯詩

   てことで今度は詩のお話。

ゆーて詩は全く詳しくなく、教科書に載ってた奴(おれは カマキリだぜ、だのいるかいるかいないかいないか、だのわたしがからだを揺すっても鈴の音はしない、だの、懐かしい)+αぐらいの知識しかないので、まず谷川俊太郎×DECO*27対談 「詩はいつでも歌に憧れてる」 - インタビュー : CINRA.NET

この記事に頼った。谷川さんの言うことならきっと間違いはなかろう。それ違くね?ともし読んで思われてもそれは僕のせいではなく谷川さんのせいです。

要約すると、

・小説は論理、詩は曖昧でOK

・詩は何しても良い

・自分の名前が消えて、詩だけが伝わっていくことが理想

   というようなことを言ってる。まあ確かに、こうでなくちゃ詩じゃねえ!みたいな人って詩界だとあんま想像つかない。

自我、という観点で言えば、そっから離れることも詩は割に容易そう、というのも中々面白そうなとこではある。

ただ自分が唯一歌集も持ってる吉野弘さんという方の詩は、寧ろ土に根ざした俺、みたいなとこが出てて、「わたし」から離れた詩っていうもんのサンプルが手元にないため、書けることがない。

 

 

吉野弘詩集 (現代詩文庫 第 1期12)

吉野弘詩集 (現代詩文庫 第 1期12)

 

 

 

 

◯小説

   んで小説。

   小説で一個面白いよなあと思ってるのは、作者が自分が何書くかを分からず、その分からないとこを出発点として書いてることが非常に多いこと。

    短歌と詩はそれそのものはわからなくとも、少なくともこれと決まった部分が存在はする、というところは伝えやすい形式だと思う。一方で小説は文を繋げているうちにそこがぼやけやすく、しかもそれを決めてなくても書けちゃう。更にはそれが決まんないまま終わってる小説まである。

    谷川さんは小説は論理、とおっしゃってるけれども、それは作り方の話であって、テーマについてはむしろ小説のほうが詩よりも掴み所がないことが多いんではないか。まーでも詩を知らねえからなあ。なんともかんとも。

    あとまあ他二つでも触れたので自我については、村上春樹が言い出しっぺなのかな、自分とは別の何か(うなぎ)と相談しながら書いてる、ていうのが結構よく小説では言われてて、完全に離れられはしないけど、ちょっとは離れないとしんどい、というのが小説の立ち位置という理解をしている。

 

 

     無論、一口に短歌詩小説いうてもその中での振れ幅は膨大にあるので、全部についてこれは当てはまらんと思うが、何となく僕が好きな範囲としては、これが割りに当てはまるかなということで、私論として取り敢えず収めておく。

 

以上。