寝楽起楽

ネタばれには配慮しない、感想/紹介ブログです。毎週1回更新 +α を目指したかった。

宇宙

人類は小さな球の上で

眠り起きそして働き

ときどき火星に仲間を欲しがったりする

 

火星人は小さな球の上で

何をしてるか 僕は知らない

(或はネリリし キルルし ハララしているか)

しかしときどき地球に仲間を欲しがったりする

それはまったくたしかなことだ

 

万有引力とは

引き合う孤独の力である

 

宇宙はひずんでいる

それゆえみんなは求め合う

宇宙はどんどん膨んでゆく

それ故みんなは不安である

 

二十億光年の孤独に

僕は思わずくしゃみをした

 

いちばんぼしがでた

うちゅうの

目のようだ

 

ああ

うちゅうが

ぼくを みている

 

www.youtube.com

 

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 上から、二十億光年の孤独/谷川俊太郎、いちばんぼし/まど・みちお、無限に広がる大宇宙/宇宙戦艦ヤマト魔法少女おまつ/吉元ますめ© 講談社ギャグマンガ日和増田こうすけ© 集英社。全ての元ネタが分かった貴方もまた大宇宙的に見れば塵にも満たない存在に過ぎない。

 

 

『自選谷川俊太郎詩集』と『まど・みちお詩集』(谷川俊太郎選)を読んだので感想を書きます。

 

 

自選 谷川俊太郎詩集 (岩波文庫)

自選 谷川俊太郎詩集 (岩波文庫)

 

 

 

まど・みちお詩集 (岩波文庫)

まど・みちお詩集 (岩波文庫)

 

 

  谷川俊太郎はともかくとしてまど・みちおは名前は知ってても具体的に何書いたか知らない人が大半だと思う(僕もその一人)。「白やぎさんからお手紙着いた」のと「ぞうさんぞうさんお鼻が長い~」と「一年生になったら」を書いたのはまどさんらしいっす。へぇ。

 

 ただ詩としては上二つはものっすごい例外で、リズムで読ませるようなものはほとんどつくってないみたい。作る才能はあったんだろうけど、あえてやってないんでしょーね。

 

 テーマもほぼ統一されており、「物/自然・動物への愛・宇宙との調和と合一」みたいな感じ。

 

 りょうてのひらで

ふうわりと

つつんでみたくなる

この かわいい はなが

アサガオです

 

たったいま

この ちきゅうに

ついたばかりの

ほやほやの

あさの かおです

 

まだ

うちゅうの におい

ぷんぷんの

きょうの はじまりの 

かおです

アサガオ

 

↑こんなんとか。

ずっと同じような調子が続いていくので、名前の知名度に反して合う合わないがはっきり分かれそうな人だと思った。

 

個人的には、

つぼは

ひじょうに しずかに

たっているので

すわっているように

見える

(つぼ・Ⅱ)

 

↑ちょいちょい挟まれるちょっと笑かしにきてるようなのが好き。

全体通してだと、

 

つきの ひかりの なかで

つきの ひかりに さわれています

おふろあがりの

あたしの きれいな手が

 

うちゅうの

こんなに ちかい ここで

さわるようにして

 

うちゅうの

あんなに とおい あそこに さわる

みえない しらない おおきな手に

あわせるようにして

 

つきの ひかりの なかで

つきの ひかりに さわれています

つきの ひかりに さわられながら

つきのひかり

 

これが一番よかった。

 

 谷川俊太郎さんのほうは、十代~八十代までのあいだに書いてきたおびただしい量の詩から経年的に選んでまとめたもので、文庫で変遷がはっきりたどれるようになってるのは非常にお得。

 

 最初のころとか結構尖ってて、それが新鮮。「俺は殺すことで人をそして俺自身をたしかめようとした 俺の若々しい記し方は血の色で飾られた」とか書いちゃう。

こういう思春期のやや狙ったような苦悩→金のために書かざるをえなかった苦渋の時代を経るにつれ段々と開き直っていくのが分かり、その居直り加減が気持ち良い。

 すげえ良いと思えたような詩は特になかったが、谷川さんの人となりを把握できたと思うんで、それが収穫ですかね。詩歌には性格が色濃く出るような気がします。

 

以上。

 

 

 

 

 

シンプルな結論

 捕鯨を取り締まろうとする人たちには昔から疑問を感じている。

 

 豚や牛や鳥や魚を人は食べる。であるならば、鯨だってイルカだって食べたって別に問題はなかろう。これはありふれた論ではあるが、それがゆえに有効性も高い。

 

 捕鯨反対論の最も基本の根拠は、鯨は知性のある生き物であり、だから殺してはいけない、というものである。しかしそれをいうならば豚も牛も鳥も知性はあるし感情も持つだろう。

殊更に捕鯨反対をあげつらいたいわけではない。日本の女性作家の誰だかが、犬の支援ボランティアをやっている人達を題材に、「何故だか分からないけど、何とかしないといけないと思ってしまった」という心理を見事に描いた短編を書いていた。

意味不明なままに「天命」を見出してしまう、そんな出来事は恐らく誰にでも起こりうるだろうし、そうした状態は肯定されるべきだ。

ただ私からすれば、人間側の目線で勝手に動物たちに線引きをする、その態度は疑問であり矛盾に見え、さらに行き過ぎた人たちは端的にヤベー奴らだと思ってしまう、という話なだけである。

 

 

 ハムスターを飼っていた時期がある。

ハミングくんと弟より命名された彼は元々、私が自身の部屋の汚さを儚み、同居者が居れば少しはマシになるんじゃねーかと思って購入した動物だった。

お世話をすれば当然愛着は湧くもので、まあ脱走されたり色々面倒もあったものの、それなりに楽しく(あっちはどうだかわからないけれども)一緒に生活をしていた。

 

 その彼が亡くなってから少し経って、家に鼠が出没するようになった。

ハミングくんが居る間は彼の縄張りと思って遠慮していたものを、不在を嗅ぎつけてやってきたものらしい。

ただどうも住処は別にあったようで、隣の家が工事で取り壊されたここ一ヶ月、ついに彼らの影を我が家で感じない日がなくなってしまった。

昼夜を問わず屋根や壁を走る音がし、災害用にと用意されていた米袋が空になり、と実害も出るようになると流石にいよいよ駆除を検討せねばならぬ。

いっそ猫を飼うのはどうか、いやまずは音波器で様子を見よう、など家で議論が交わされる中、この一週間ついに殺鼠剤と鼠捕獲シートが導入された。

 

 弟は鼠の断末魔を壁越しに聞いたらしい。

 父からは大量捕獲、の言葉とともにシートにへばりついた鼠達の画像が送られてきた。

 

 考えざるを得ないのは彼らとハミングくんとの差異である。

調べてみるとわかるが、ハムスターとネズミは、分類学上は殆ど違いはない。見た目にも、はっきりと違うと言えるのは尻尾の長さぐらいなものだ。にもかかわらず片方は可愛がられ、片方は殺される、これはひとえに人間の一方的な観点からにすぎない。

例えばもし今回暴れまわっているのがネズミではなくハムスターだったら、私は恐らく被害を受けることを許容しただろう。

ここにきて浮かび上がってくるのは、私も捕鯨に反対する人たちと同じヤベー奴なんじゃん、というシンプルで動かない結論のみだ。

 

 人間、という一般名詞を使うとき、しばしば私はそこに(私以外の)という行間をそこに付け加える。

しかし、当然のごとくその人間の中には、他ならぬ私自身もまた表象されている。その当然であるはずの事実に、私はひどく狼狽える自分を見出している。

 

 何も知らないフリをしながら、父からのメールに「わーすげえ」と返信を打つその瞬間、私はまた一歩地獄への道を歩んでいる。

 

 

 

 

 

シンセイ 強力ねずみ捕り 6枚入

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羽生善治という神話

 藤井聡太4段がデビューから29連勝、そして羽生さんが永世7冠達成と2017年の将棋界は偉業の時代であったわけだが、その輝かしい業績の影の隅の1ドットにも満たない欠片の中で、私はスマホアプリ「ぴよ将棋」の放つ8番目の刺客ぴよ介に無事八連敗を喫した。

 

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↑屋台で売られるカラーひよことは一味違うんだよ、とでもいいたげなすまし顔。

 

 将棋ウォーズ2級の身で偉そうに語るのもなんだが、将棋において重要なのはまずなによりも「ミスをしないこと」である。

角のライン見逃しからの王手飛車ふんどしの桂割うちの銀etcetc、一瞬で勝負が決まる(とも言えないのが低級将棋の面白さではあるけど)ような致命的な隙を見せず、かつ相手の隙を見逃さない。

プロの方々でも概ねやっていることは同じで、終局後の感想戦では必ず敗着がどこだったかがまず検討される(検討してもわからないこともある)。

 

 とあるブログによると、将棋の局面数は全部で大体10の68乗通りだそうだ。例えばその全てを暗記し、「正しい」手を指すことができればそれは一つの「完成」と呼べるだろうけれども、恐らく人間には不可能なことだろう。だがこれは、目指す境地として想定しうる。

 

 羽生善治という存在は、間違いなく将棋における一つの到達点と思われていた。県大会上位レベルに居ないと入れない奨励会員が150人程度、そこから上位の30人が三段リーグを争い、半年で上2名のみがプロになり、そのプロが160人程度いる中で、選ばれし10人のみが在籍するA級にあって、並み居る強豪棋士をちぎっては投げちぎっては投げしていたのが羽生さんである。

 

 将棋を志す少年の大多数における目標は羽生さんであったことは、まず疑いようがないだろう。複数保持するタイトルのうち一つでも奪取されれば「羽生衰えたな」と噂され、圧倒的な強さでいることを求められ続ける、その重圧は半端ではなかったであろうと思う。

 

 しかしその幻想は、図らずも電王戦における人間の敗北、という形で崩されたように私には思える。

 これまで将棋における最高峰としてみなされていた棋士たちの、更にその先が存在しうる。アマチュアの目からすれば、AI将棋がプロをなぎ倒していく様は悪夢の様にも写るが、プロ棋士たち、とりもなおさず羽生さんにとっては、これは肩の荷を一つ降ろせるような、福音にも見えたのではないだろうか。

 

 永世七冠のインタビューの中で、羽生さんはこう語る。

 

  (将棋について)子どもの頃からずっとやってきていますけど、自分がやってきたことって、そのほんの一欠片、一欠片の欠片にもなっているか、なっていないか、ということだけなので、それを考えると、根本的なことはわかっていないという面があるとは思っています。

 

 一昔前であれば、この発言は衝撃を持って迎えられたかもしれない。しかし新しい地平が開けている今、この言葉はある種当然さを持って受け入れられる。

 

 藤井聡太四段はプロ入り時のインタビューにおいて、「目標としている棋士はいない。凄く強い棋士になりたい」とコメントを残した。若手にとっては、羽生はもはや目標ではなく、越えるべき壁の一つに過ぎない。

 

 そうした新たな時代にあって、羽生永世7冠がどれだけの偉業をこれから成し遂げるのか。あるいは羽生神話を受け継ぐような棋士が、今後また現れるのだろうか。

一介の将棋ファンとして、今後の将棋界、及び羽生永世7冠の発展を見守りたいと思う。

 

 

 

 

不調和の中の調和:『尼僧とキューピッドの弓』/外れてる人達:『犬婿入り』 多和田葉子

 違いますよ日本人ですよ、と道子は 仕方なく答えた。ああトヨタか、と言って最初の男が艶めかしく笑った。わたしはトヨタなんかじゃない、と思ったとたんからだが小さな自動車になってしまったような気がした。

 何しろあいつは頭が”トラビ”だから、とかつての東ドイツから来た友人の悪口をトーマスが言ったことがあった。そんな風に軽く言い放つトーマスは自分をベンツにしてしまっているのだった。ベンツになったトーマスは、みすぼらしく見えた。道子にはどんな高級車でも、ある種のみすぼらしさを感じずにはいられなかった。世帯じみた人間の見得や自動車工場のイメージが重なって、みすぼらしさを感じてしまうのだった。

 わたしは自動車なんかじゃない。そう思ってみても、自動車の製造をしていない国の人の目には自分もまた一台の自動車のように見えてしまうのかも知れないと思った。道子は息苦しくなって歩調をゆるめた。

(『犬婿入り』の一編「ペルソナ」よりp40)

 

 外国留学とかする人には普遍の悩みなんですかね。

 

 

尼僧とキューピッドの弓 (講談社文庫)
 

 

 

犬婿入り (講談社文庫)

犬婿入り (講談社文庫)

 

 

○あらすじ

・ドイツの片田舎の千年続く修道院の人間模様をつぶさに観察しました:『尼僧とキューピッドの弓』 

・日本人より前にわたしでわたしより前に日本人で:「ペルソナ」(犬婿入りに所収)

・妖怪はここに居る:表題作「犬婿入り

 

○感想・考察

 前に紹介したエクソフォニーの本が激面白かったので、小説はどんなもんじゃろと思って読んだ。

 

 わたしは本当は、意味というものから解放された言語を求めているのかもしれない。母語の外に出てみたのも、複数文化が重なりあった世界を求め続けるのも、その中で、個々の言語が解放され、消滅するそのぎりぎり手前の状態に行き着きたいと望んでいるのかもしれない。

(『エクソフォニー 母語の外へ出る旅 p157)

 

 と多和田さんは言っていまして、『尼僧とキューピッドの弓』のつかみどころのなさはこれが由来だろうかと、ある方の「何語で書かれててもおかしくない」という感想を見て思った。

 

 特に第一部が透明無色、無味ではないから小説として読めはするけど、多分多和田さんのことを知らない人が読むとまったくといっていいほど作者の顔が見えないか、あるいは淡々としたドキュメンタリーが主体の人だと誤解するかどっちかなんじゃないだろか。

 

 それだけ色を出さずに書けるというのも一つの類稀な才能であると思う。思うけど、一般的に小説を読む人が求めるような条件からは大分外れてるので、その辺予め了解しないときついかもしれない。

もしかしたら、解説先に読んでから手を出すほうが面白いかも。「弓道」と「クピード」で韻とか、気づかんかった。こういう言葉遊び的なことも相当に好きな人らしいので、こんなちょっとしたとことか探しながら、多和田さんと一緒に遊んだりすると良いのかも。

 

 

 手軽にすげえ!と思いたいなら、『犬婿入り』のほうがお勧めです。

次に引用するのは、「電報」なる謎の手紙が届いたかどうか確認するため、訪問してきた謎の男とのシーン。恐らく本著を紹介する際には一番引用されているであろう。

 

「電報、届きましたか」

 とまた尋ねるので、みつこは、あわててまた首を左右に振り、男は、みつこのショートパンツを、袋から鞠を出すように、するりと脱がしてしまって、自分はワイシャツもズボンも身につけたまま、礼儀正しく、あおむけに倒れたみつこの上にからだを重ねて、犬歯をみつこの首の肌の薄そうなところに慎重に当てて、押し付け、チュウチュウと音を立ててすうと、みつこの顔は次第に青ざめてきて、それからしばらくすると、今度は急に赤くなって、額に、汗が噴出し、ねばついてきて、膣に、つるんと滑り込んできた、何か植物的なしなやかさと無頓着さを兼ね備えたモノに、はっとして、あわてて逃れようとして、からだをくねらせると、男は、みつこのからだをひっくりかえして、両方の腿を、大きな手のひらで、 難なく掴んで、高く持ち上げ、空中に浮いたようになった肛門を、ペロンペロンと、舐め始めた。その下の表面積の広さや、ゆたかにしたたり落ちる唾液の量、そして激しい息遣い、どれを取っても、文字通り<人並み>ではなく、しかもみつこの腿を掴んだその大きな手は、この猛暑の中、少しも汗ばんでこないし、震えもせず、随分長いことそうしていたが、そのうちあっとみつこを抱き起こしてその顔を覗き込んだ黒目の中は静かで、額にも鼻にも汗の粒ひとつ見えず、髪の毛はとかしたてのようにきちんとしているので、みつこが思わず手を伸ばしてその髪の毛に触れてみると、タワシの毛のように堅く、その下の膚は牛皮のように強くなめらかで、みつこは魅せられたようにその頭を撫で回していたところ、男は何も言わずしばらくまじめな顔をしていたが、突然、下半身に何もつけていないみつこをそこに残して台所へ駆け込み、もやしを炒め始めた。

(p98-99)

 

 たったの二文でこの量。この長さにも関わらず、文庫で読んでると意外とさらっと読めちゃうというのも凄いことで、同じ長文でも「息をつかせぬ」とか「怒涛の」とかそんな表現が頭につきそうな作家さんは幾人か居る気がするけれども、そんな雰囲気はないんすよね。

 

     『尼僧』とは異なり、なんとなく日本語の情念に連なるような書き方がされてて、純粋に文章の個性を読む、というような楽しみ方が出来ます。

 

 ストーリー的にも、みつこさんも変な人だし、何故かこの初対面のまんまいついちゃう「男」も変な奴だし、さっぱり理屈も分からないまま、ズルズルと物語が何となく進展していくのをただ見守るしかない。何が書いてあるのかさっぱり理解は出来ないけどなんかすげえ!という気持ちになれる。お勧め。

 

以上。