昨日の縄文ZINEの紹介で本ブログの記事数がめでたく150記事となりました。
中学~高校にかけて3つ4つブログを作っていた記憶がありますが、いずれも数記事更新しただけでやめてしまっていたので、この数は自分にとってはちょっとした記録と言って良い。150も超えればもうブロガーと名乗ってもいいんじゃないですかね。
頭に浮かんだことをとりあえずブログに上げる形式にしたのがよかったのだろうと思います。
ただそうすると生まれてくる記事のクオリティも様々です。過去の自分が刺しに来る、という現象はあって、特にネットだとやろうと思えば簡単に遡れてしまうから大変ですよね。有名人の人とかは失言を掘り返されたりしてて本当キツそう。ちょっと気が大きくなって書いちゃったようなことを、こんな年になってから叩かれても、と思う人も多かろう。
ブログとかツイッターとか、大げさに言えば自分の弱点を晒してるようなもんです。就活でアカウント見られる恐怖におびえる学生の多さを見ればそれは明らかでしょう。
このブログにもほんとは消したい記事とかいくつかあって、実際2,3年前に発作的に消したりもしたんですが、最近はもうそれはそれで一個の記録として残しとこうという気持ち。
150記事突破の記事をこうして書いてしまっている以上、少なくともこれより以前のはもう消えないと思います。
で、そんな風にパッと書いて上げるスタイルでも、中にはこれはちょっと見せられない、と思って下書き状態で眠ってる奴とか、途中まで書いて力尽きてるのとかがあります。
それらの中から、これは面白いんじゃないかと思ったのを公開し、突っ込みを入れるという遊びをしようという試みをしました。
結果、内容バラバラで、かつ人に見せるほどのクオリティでもなく、なのに全体としては長いという不親切な記事の出来上がり。暇なときにどうぞ。
でははじめ
正しい読み方というのは存在するのだろうか?
僕が本を読むときには、僕なりの解釈がそこに働く。
その解釈が間違っているか、正しいかは、誰にも(その作者にも!)断言は出来ないものであると僕は信じている。
しかし、解釈というのは、分かった気になる、という事と紙一重である。
分かった気になるのは危険だ。それは往々にして、独断的な意見を導き、他人の私見に介入し、不快にさせる。
しかし、それが彼の読み方であるのなら、それを否定することは出来ない。
反対に、僕には本当には分かっていないんだけど、と告白するのは、一種の逃げであり、卑怯である。自分はこうした物言いを多用するけれども、其処には、「表層だけ読んで、分かったつもりになっている人間と自分とは違う」という驕りと、「分かっていないと言っているのだから、違っても許してくれ」という甘えがあるのみである。
又、深く読むというのも、ある種の陶酔が働いている気がする。
作者が、自分のために、意味を隠してくれているという確信と、自分こそがそれを分かってやれるのだ、という自己賛美。
そうしたエゴは醜いものだが、しかし、そこから逃れるのは難しい。
こうしたことを書いているのも、結局のところ、僕はこんな事を考えているのだから、敬えとまでは言わないまでも、もっと良く観てほしい、という願望、一種のエゴの現われである。
じゃあどうすれば良いのか?僕は其処で途方にくれている。
こうしたことを書いているのも、結局のところ、僕はこんな事を考えているのだから、敬えとまでは言わないまでも、もっと良く観てほしい、という願望、エゴの現われに過ぎない。
(2014.7.1)
なんか真面目に考えてて偉いなあ。
このころは読書論とか真面目に考察しようとしてたみたいですね。どうもブームがあったらしい。
2014年はこういうちゃんとしたことを書こうとする意欲があったようで、下書きにもこういうのがいっぱい。
次。
「ねえ、知ってる?〇〇君(本名)、今朝死んだんだって」
何気なく発せられた言葉に、僕はうまく対応することが出来ない。〇〇君、死んだんだって。形のないそれを、いくら口の中で転がしても、それは体の奥に消えていかない。
「へえ、そうなんだ」
へえ、そうなんだ。実際は、納得なんてできているわけが無い。〇〇が死んだ。だとすれば、ここに居る僕は一体誰なんだ?
「死因はよくわかってないんだって。居間の椅子に座った格好で亡くなってるのを、お母さんが発見したらしいよ」
想像する。僕は乱雑に手足を投げ出している。力が抜け、姿勢を保つことが出来ずに、その体は半ばずれおちそうになっている。そしてそれを、寝起きの母が発見する。
「可哀想にね、まだ若いのに」
気持ちが入ってはいるが、その言葉は薄ら寒く響く。ニュース番組のコメンテーターと同レベルの感情。それも当然で、彼女と僕は別に生前(!)特に親しかったわけでもない。そう、所詮は他人事なのだ。
だけど。人はそもそもが、死を体験することなんて出来やしないのではないか?死後のことを知っているひとは誰もいない。自分の死は、結局のところ、自分にとっても他人事なのではないか?
「葬式は3日後だって。行かなきゃね」
「そうだね」
僕は頷く。死んだ僕を見送らなければならない、そう心から思って。
(2016.10.11)
2015年は一個読書に関するものしかなかったので飛ばしたら、次がこれでした。
確か、自分の訃報を仲良くない知り合いから聞くっていう夢を見て、面白いなーと思って書いたのがこれ。でもなんか小説になっちゃって痛かったのでそのままお蔵入り。
実際は、終始「え~~~~死んでないよ~~~」って思いながら、でもうっすい関係性のこいつにそれ訴えても微妙な雰囲気になるだけだし、って考えて間が持たない会話をするという感じだった気がする。死んでもそんなこと気にしながら生きなきゃ(?)いけないんですかね。
次。
一日に何千何万PVとかいくような奴じゃなく、普通の人の普通のブログを最近読むようになった。
まあやっぱり凄い人が居る比率に減少はあるけれども、それでも凄い人は凄いので面白い。
ただ心配になるのは自分の闇や病みをひたすら書きつづっている様なタイプで、順調に快方に向かっていくなら良いが、逆に文にすることでますます重くなっていくものが散見されたりする。
人によって考え方は違うと思うけど、僕は文章というのは良くなるために書き読むものだと思うので、自分なりに健康的になるような吐き出し方を考えてみたい。
まず前提として、人は恐らく多かれ少なかれ病んでいる。これは真に健康な人というのを想像してみれば簡単な話で、それは側から見れば異常に思うだろうし、異常というのはつまり病んでいる。
つまり人はある程度健康である程度病んでいる状態が通常なのだ(完全に脱線するが、ぼくはこのなのだ、という語尾が、なんか無邪気を装っているような気がして結構嫌である。である、の重々しさをもっと見習ってほしい)。
所謂病んでいる人はその比率がおかしくなってしまっているので、まずはそれを元に戻す作業がいる。合間合間に旅行に出かけて行ったりする行為なんかは、日常生活の中で溜まった病みを吐き出すものだと思う。
(2016.12.1)
タイトルが「病の健康的な吐き方について、あるいは健康的な病み方について」で、このコピーを思いついただけで満足しちゃって本文書かなくなったやつ。
あとこのころ、「なれなれしいひとまつげもやすちゃん」という方の文章をぐわっと読んでた時期で、その中のこれを読んで書き始めたけど、勝てないからやめた。
短歌もこの方から知ったとこが多分にあって、こんなすごい人の文章を、ずっと過去から無料で追えていけるなんてネットって凄いと思っていた記憶(あれ?)
次。
手袋ってすごい。なにせあったかい。
普段そんな習慣ない分、今日きまぐれにつけた手袋のその暖かさには驚愕というほかありませんでした。手が何かに包まれているというのはこんなに心安らぐことだったのかっ!と感嘆しましたが、最初の感動が過ぎ去ってしまうと、その後はただ、いつもはない圧迫感に対する不快の念だけがありました。
例えば僕は別にノーパン主義ではないのでいつもパンツを履いています。しかし、お風呂からあがり、パンツを履く時に感動することなど一切ありません。そこにあるのはそう、惰性だけです。そういう意味で、僕の中の価値基準では手袋>>>パンツです。
しかし、パンツに不快感を催すこともまたありません。あって当然のものだからです。そういう意味では、パンツ>>>手袋です。
新しいものに触れる時、常に人は感動と不快を覚える、ということですね。
パンツといえばオムツです。思えば、小学校低学年のとき、弟のオムツ替えをしたことも一度や二度ではありませんが、僕はオムツというものに当時何かよくわからない感情を抱いていました。
ほんの少し前は、僕もその当時の弟と同じようにオムツを履いていたはずなのに、
弟のあれをごわっとしたオムツで厳重に包み、まだ生暖かいそれをずっしりとした重みを感じながら捨てるのは、ちょっと面白かったことを覚えています。というかこれ、オムツへの感情というよりはむしろうんへの
(2017.1.13)
どこか確実におかしくなりながら書いている。パンツといえばおむつです、のあたりとか特にやばい。さすがに自分でもやばいと思って公開にしないだけの理性はあったらしい。
ちなみに手袋はその後5日に1回ぐらいはつけるようになり、そのたびに新鮮に暖かさに感動している。安い精神。
次。
死ぬときは体に大穴を開けて死にたいという願望がある。
ナイフで刺されました、とか爆弾で吹っ飛ばされました、とかそんなレベルじゃなく、アニメの悪役が極太レーザーを照射されて、真っ白な画面に悪役の体がシルエットのみ描かれた状態で声にならない悲鳴をあげながら消滅してく、みたいな、あんな感じがベスト。
この欲望を抱いたきっかけははっきりしている。小学生の時に見たジブリの名作、もののけ姫のせいである。
もののけ姫には、サンを負ぶって出て行こうとしたアシタカが、タタラ場の女の子に大砲ぶっぱなされ、体に穴開けた状態で平静と門まで歩くシーンがある。
あれを見た時、僕の思考は「うっわ痛そう→アシタカあれで歩けるって凄くね?→あんなん食らったら僕なら痛みを感じるまもなく死ぬわ→でも苦しまないならその死に方は良いかも」
という風に回転した。
(2017.4.3)
着地の方向がいまいちわからずお蔵入り。願望の傾向を見ると、死にたいっつーか消え去りたいんでしょうね多分。
次。
帰り道の、開店中は存在を認識すらしていなかった店が、閉店のお知らせをシャッターにはっつけてて、無視できる程度の、ほんのわずかな寂しさを感じた。
これと全く同じ体験をした文章を、小説かエッセイかで読んだことがある気がする。その時の僕の想像力では、その感覚を疑似体験すら出来ずに終わってしまい嫌に思った、気がする。
けれどもこれも定かではない記憶で、ひょっとすると寂しさの拠り所のなさからくる幻想なのかもしれないとも思う。前から知っていた、ような、、初めて気がついた、ような、、漠然とチクチクと刺してくるこの悲しみ。
(2017.4.17)
最後の一文が狙いすぎ+短すぎでボツにした気がする。でも着眼点は好き。
「かつてあった/もうない」という形でしか知りえないものってたくさんありますよね。
もう絶対に届かないという哀切を持ってしか受け入れられず、それのために心の中に開けたスペースはずっと空洞のままなんです。でも、「もうない」という形で、それは確かに心の中にあるみたいな。「無知の知」ならぬ「不在の在」。
そう考えると消え去りたいっていうのは違くて、「不在の在」になりたいのかも。
上の夢は、「在の不在」っていう状況ですね。
次のやつは、わかりづらいとこがあったので※で注釈をつけました。
漫画『蟲師』の、筆の海という章に、自分の中に住む危険な蟲を封印するために、蟲を殺した話を書き写して一生を終える、そんな定めを持った一族が出てくる。
写された文字達は、中に蟲を内包しているがゆえに、生きて書庫から脱走して来たりする。「文字が生きてる」という設定と、蟲師全体の、得体の知れないものと人間が様々な(時には承服し難い形で)共存している雰囲気がとても好きで、よく覚えている。探幽さんはギンコのメインヒロインだと思います。
「重みのある文章」という表現があり、また「軽妙な文体」という批評がある。
実際に、文に質量のある世界というのを最近妄想して楽しんでいる。
(※以下、思いのこもってる文章ほど重みが増す、という設定)
夏休みの読書感想文の宿題は、最低限微風に耐えうるクオリティが求められ、国語の先生は提出された原稿に対して扇風機を回すことでチェックをする。文字が吹き飛んでしまった人は、残念ながら再提出となる。
貧乏ゆえに、壊れてそよ風しか出せない扇風機しかない家の子がいる。その子は小説家になるのを夢見て、夜な夜な文章を書き付ける。父や母は、そんな姿を見ても特に何もいうことはなく、だから私に何の関心もないんだ、と思っている。
やっとのことで小説が完成する。家の扇風機の風に耐えることも確認した。原稿の束を麻紐で縛り、なけなしのお小遣いをはたいて買った封筒にそれを入れ、ドキドキしながら川を挟んで向こう側の、出版社へと足を向ける。その時、突風が吹く。
糊付けの甘い封筒から原稿が飛び出す、そこから一生懸命書き綴った文字が、次々と離れ軽やかに宙を舞い、そしてすぅっと消えていく。
しばし呆然とし、やっとのことで走り出して地面にぐしゃりと落ちた原稿を確認すると、文字が全部飛び去りまるで新品のようになったそれの端っこに、小さく母と父の筆跡で「がんばって」の文字。
悔しさと、嬉しさと、いろんな気持ちでぐちゃぐちゃになって泣く、その頭上で、最後の一文字がふわりと消える。
みたいな。
(2017.6.15)
なんだこの良い話は。正直これは自分結構センスあると思った。
原稿でも、紙幣でもいいんだけど、何かそういうものがぶわっと空に巻き上げられていくシーンって解放感あって好きなんですよね。あと、漫画の『青のオーケストラ』とかがよくやる、音楽が大気に広がっていく感じとかも。
うろ覚えなんですけど、『モブサイコ100』で、女の子が散らばしちゃった原稿をモブ君が超能力で一つにまとめるシーンがあって、モブカッコイイけど、個人的にはそのまま吹き飛んじゃってほしかった、と思った記憶。
5000文字超えたので、大体こんなもんですかね。
これ書くにあたって、ノートに残ってる小学校~高校の文章も見てみたんですけど、恥ずかしくてとても読めたもんじゃなかったです。文章ってやっぱ基本黒歴史だわ。このブログもいずれはそうなっていくんでしょうね。
ただ、そうしたノートの文章は、提出したときに先生方からコメントもらってたりして、それらがどれも味わい深くて良かった。
公民の新聞スクラップノートに、「手書きの文章なんてもう古いでしょ」って書いたら「今まさに150人のノートに手書きでコメントしてるんだけど」ってキレられてたり。
最初は行の下まできっちり練習してんのに最後は3回ぐらいしか書いてない漢字練習帳に「もっと頑張ってよ」って書いてあったり。
中1の自意識丸出しの日記に対してやたらビックリマークの多い暑苦しいコメントが返されていたり。
それらを見てるとしみじみ懐かしく、先生には恵まれて今まで来れてるなあという気がしました。ガキの書いてきたものをちゃんと読んでコメント返しててほんと偉い。先生って偉い。
ノートにあった中で、これは唯一晒せるなあと思ったのはこれ。小学四年生の時のもの。
ぼくのなまえは(本名)です。
すきなものはどくしょとたっきゅうで、すきなたべものはたまごりょうりです。すきなのみものは、むぎちゃです。
これから(あえるかどうかはわかりませんが)よろしくおねがいします。
これヤバくないですか???小4でなんで全部ひらがななんだよと思うし、なんで漢字練習帳に突然これ書いてあるんだよだし、何より(あえるかどうかはわかりませんが)ってどういう状況ですか?誰宛なの?ホラーかと思った。
真面目に検討してみると、(あえるかどうかはわかりませんが)っていう一文が加わることで、未来に出会う可能性のある、ありとあらゆるものすべてに対する自己紹介になるんですねこれ。すご。のわりに伝えてる内容どうでもよすぎない。
小4の時好きなもの読書と卓球だったんですね。そういや近くの公民館に卓球コーナーがあって、友達同士で遊んでたんですよね。
とか言ってたら7000字になったので、このあたりで辞めます。今年中に200?250?300?記事ぐらいまでいきたいですね。どんな低クオリティの記事を生み出そうとも、それがすぐに忘れ去られる勢いで記事を生み出していけばいいのです。
以上。