寝楽起楽

ネタばれには配慮しない、感想/紹介ブログです。毎週1回更新 +α を目指したかった。

『いつか春の日のどっかの町へ』『サブカルで食う』 大槻ケンヂ 角川文庫

 左手でマイクを握り、右手でギブソンJ-50のネックを握った。歌い続けながら、ギターを肩から外すと、いっそギタースタンドに立てかけた。そして身一つだけになってまた歌い続けたのだ。

 この信じられないギター弾き語りシンガーの、歌ってる途中でギターを置く、という驚愕のパフォーマンスに、観客たちは大爆笑し、手拍子を始めた。そして今やマイク一本の真夏のアカペラシンガーと化したFOK46は、夏の太陽の下、観客達の手拍子のみで「踊るダメ人間」を歌いきった。

 歌い終わると嵐のような拍手が僕を包んだ。

 うれしかった。

 グッと来た。

 ギターを始めてよかったとあらためて思った。

 ギターを弾くのを途中でやめちゃったというのに、だ…それなんか、根本的に間違ってないか?

(『いつか春の日のどっかの町へ』 p129)

 

 こことか声出して笑った。

 

 

いつか春の日のどっかの町へ (角川文庫)

いつか春の日のどっかの町へ (角川文庫)

 

 

 

 

 

〇要約

 自分を表現するには音楽という手段しか身近になかった 、という消極的理由でバンドを結成、楽器は何もできないからずっとボーカル一本で通してきた大槻ケンヂが40を過ぎてギターを始めた経緯と経過→『いつか春の日のどっかの町へ』

 バンド、テレビ、小説、様々な分野で活躍してきた大槻ケンヂが「サブカル」になりたいくん/ちゃんに教える、彼の人生の渡り方→『サブカルで食う』

 

〇感想

 筋肉少女帯とか大槻ケンヂと絶望少女たちとか名前は知ってたけど、いまいち自分には合わんと避けて通ってたとこがあった。こんな面白くかっこいい方だったとは。ケンヂさんのことすげえ好きになった。

 

 特に『いつか春の日のどっかの町へ』の「ミルクと毛布」の話は読み終わってすぐ『パナギアの恩恵』のアルバム買ってしまったぐらい良かった。ほかにも良い曲あったら教えてください。自分でも探します。

 

 後サブカル業界の大変さも見えた気がする。まあ当たり前だけど本当に何でもかんでも好きにやれるわけではないわな。

結局は「悔い改めて遊んで生きちゃう」ことだとケンヂさんは語ってるけれども、それでも色々とつらいこともあるはずで、そん中で「遊んじゃう」といえるだけの強さがあるからこそ今の立場があるんだろうと思う。

 

 元々『サブカルで食う』はこちら

「何者にもなれない」あなたに読んでみてほしい、「何者かになってしまった人」の10冊 - いつか電池がきれるまで

 で紹介されてて面白そうだと思って読んだんだけども、↑でも引用されてる「表現するにはプロのお客さんにはなってはいけない」てとこで一つ思い出したことがある。

 

 ニコニコ動画が将棋の新しいタイトル「叡王」を作ったことまでは知ってる人もまあまあいるかと思う。

その叡王の座を獲得するための、「第三期 叡王戦」の決勝7番勝負が今年4月から始まるんだけども、トーナメントを勝ち上がって決勝に進んだのは誰か、皆さん名前言えますか?

 

 破竹の勢いで去年29連勝をなしとげ、現在も13連勝してるという将棋界の彗星藤井聡太6段でもなければ、永世七冠達成し国民栄誉賞を受賞した羽生二冠でもなく、かといって現タイトルホルダーの佐藤天彦名人や渡辺明名人かと思いきやそうでもない。

 

 じゃあ正解は誰かというとこの二人↓

 

 このPVでピアノ弾いてる(上手で笑う)「格調」こと金井恒太六段vs「増田or前田」こと高見泰地六段。この二人が決勝に上がると予想していた人は多分誰もいなかった。

 

 前置き長すぎたが、このPVの4分20秒~、高見泰地六段が自嘲の笑みを浮かべながら「プロの観る将って呼ばれて、」と言うその表情を是非一度見てみてほしい。

 

 観る将っていうのも将棋知らん人は聞いたことない単語だと思う。

サッカーに熱をあげるおばちゃんが実際にサッカーを始めることはないのと同じく、将棋を実際に指さないけど将棋観戦はする人たちのことをそう呼ぶ。

彼らはプロの将棋解説や雑談や昼食などを見ることに面白みを見出す。僕もちょっとしたラジオの代わりになんとなく放送を流したりするので、気持ちはとてもわかる。

 

 いうまでもないが高見泰地六段はプロである。人当りもよく、丁寧な仕事ぶりにファンからの人気が高い。しかしこれまで、タイトルには縁がなかった。

 だからこそ「プロの観る将」などと称されてしまったわけだが、しかしそう揶揄された時の悔しさはいかほどのものであっただろう。

 

 あることを実践しつづけプロになる以上、どんな分野であってもそこには矜持がなければならない。『サブカルで食う』も、一見は「サブルなくん」「サブルなちゃん」への応援にみせかけて、大槻ケンヂさんのある種の覚悟を自然に見せつけられる本なのではなかろうか。

 

 以上(しかし一方で「60になったけどまだデビューした気がしない」とか言っているみうらじゅんという人もいる。それはそれですげ~~)

三者三様:『読んじゃいなよ!』 高橋源一郎編 岩波新書 2016年

 わたしが大学に入ったのは一九六九年。卒業、ではなく、除籍になったのが一九七七年。その八年の間に、わたしは、数えるほどしか授業に出ませんでした(十回も行ってません)。

 なので、ひょんなことから、大学で教えるようになったとき、というか、学生たちを前にして、なにかをやらなきゃやらなくなったとき、わたしは、思わず、こう叫んだのです。

 「どうしよう、なにを教えていいかわからない!っていうか、「教える」って、どういうことだかわからない!」

(…)

 わたしがやったことのなかでいちばんの傑作(?)は、一年生の授業で、とりあえず、一時間ほど黙っていたことでしょうか。

 学生諸君は、びっくりしたようでした。いや、恐怖を感じた?でも、だれもなにもいわずに、静かに座っている。先に音をあげたのは、わたしの方です。

 「ねえ、きみたち。ぼくは、こうやってただ黙っているんだけど、どうしてだか、訊かないの?」

 すると、ひとりの子がいいました。

 「なにか理由があるのかと思って。先生がなにかをおっしゃるのを待っていたんです」

 

 とりあえず、なにかがはじまりました。

(本著p3,p7) 

 

 良い意味で遊んでいる本なんだけど、タイトルで損をしている気がしなくもない?

 

 

 

 

〇内容

 明治学院大学国際学部高橋源一郎ゼミで

鷲田清一『哲学の使い方』

長谷部恭男『憲法とは何か』

伊藤比呂美女の一生

(全部岩波)

 をそれぞれ数か月かけてじっくり読みこんだ後で著者さんお呼びして講義してもらった

 

〇 感想・考察

 内田樹さんにめちゃめちゃはまってた時期に、大体一緒の界隈の人として覚えたのが平川克実さん、釈徹宗さん、安田登さん、橋本治さん、春日武彦さん、高橋源一郎さん、鷲田清一さん。

 

 このあたりの人々に共通するのは一見人当りが良いということで、文章も気持ちよく読ませるものを出してくる。

特に内田さんは凄くて、一見何の関係もなさそうなところから結論に至るまでの道筋のつけ方なんかはその真偽を問うのを忘れさせるぐらいに華麗。

「聖書の人」とか「aikoの人」とかはてな界隈にもいらっしゃるけど、ああいう文章にあこがれる人は内田樹さんのも(政治的信条が合う合わないとかを別にすれば)気に入ると思う。話逸れた。

 

 高橋源一郎さんについていえば、敵味方を区別しないというか、年老いてからなのかどうかはわからないけれども、素直な人だという印象が強い。

 

 たとえば二人目に挙がっている長谷部さんは、特定秘密保護法案に賛成を示した数少ない憲法学者の一人として知られている。

高橋さんは、法案反対派のリストに名前を連ねていて、普通であればある程度の反感を持って長谷部さんのことを見そうなところ、「彼の文章はカッコいい」とか書いちゃう。

その鷹揚さ、懐の広さがなんとなく全体に行き通っていて、ゼミ生の人たちも安心して発言している感があった。

あと皆真面目で、ちゃんとそれぞれの先生の話を聞き、咀嚼し、発言しているのが当たり前であり当たり前に偉い。でもそれも、高橋さんがまず率先して面白がって話を聞いている態度があってこそだと思う。

 

 それぞれの講義について感想を述べると、鷲田さんは話上手で安定した面白さ。

 

 深さについて言うと、「深さ」って通常、垂直方向で潜っていくっていうイメージなんですね。その底に何があるかとか、根本・根源に何があるかって。そして「深み」に行くほどすごいことを言っているかのように感じます。

 「無」とかを語りだしたりする時です。根底にあるそういう幻想をつぶしていきたい。基礎のさらに基礎へと遡っていく「究極の基礎づけ」という哲学の理念を僕がずっと批判しつづけてきたのもそういう思いがあってのことです。深い、ていうより、むしろ底がないことを大切にしたい。そこには底抜けになっていることの大切さがあると思う。僕はその深さのイメージを垂直から水平に変えたいと思っています。それは、深い森の中にあるような、最終的には理解が届かない他者たちの存在の深さとでも言うべきものです。

(p106)

 

  一部の人が掘り下げていくんではなく、哲学は万人に開かれているものだよ、ていう話だと多分思うんだけど、こんな語り口でそれを表現できる人はなかなかいない。

 

 

 長谷部さんの講義は全く門外漢の世界なので勉強になった。

憲法学者によっても色々タイプがあって、長谷部さんの興味対象は(こんな本に登場するぐらいなので)その中でもだいぶ変わってるぽいけど、一個憲法について視点を持てただけで凄い収穫。

 

 憲法は何のために必要かというと、民法とか刑法とか、皆さんが日常で触れるはずの、日常生活をささえているはずのいろいろな法令があります。で、普通はそれで充分なんです。そういう法令さえあれば。憲法なんてよく分からないものがなくても。特に憲法の中でも、基本権条項ですよね。国民の権利及び義務に関する条項とか。何のために必要なのかというと、そういう通常の法令通りに裁判所に来た紛争を解決していると、良識に反する結論になってしまう時とか、どう考えてもこれはおかしいという結果になってしまうという時に、初めて出番が来るのが憲法です。

 何のために出番があるかというと、良識に戻れというためです。

(本著p187)

 

 「良識ってなんぞや」と思った人は本を買おう。

 

 伊藤さんはもう存在そのものが強烈すぎる。

文章からでさえこちらの自我をふっとばしてくるようなエネルギーがあるので、実際に講義を受けた人はなおさらすごかっただろう。

 

 とにかく目指すのは、変人だと思いますね。どれだけ変人になれるか、どれだけ人と違えるか。実際にそれは楽かっていったら、楽じゃないのね。やっぱり日本人って本当に枠があるから楽なの。枠の外に住もうと思うと、それなりに自分で自分の何か、自分ってものを信じなくちゃいけないし、自分が信じられないし、そこでゆがむんですけど。まあ五〇になってごらんなさい。苦労して五〇になってみたら、私はね、そうやって生きたほうが自分らしいっていうふうにね、生きていられると思うんですよ。五〇になったら七〇はすぐですからね。七〇になったら八〇はすぐだし。

(本著p298)

 

 これの前に、若いころは滅茶滅茶にぶっ壊れる寸前に居たのだろうと察せられる語りを聞いているおかげで、なおさらここは胸に響くもんがある。 兎に角まず五〇。なるほどなあ。

 

 ほんとは引用をするときって、引用した文が「従」でその他が「主」になってなきゃいけないという決まりがあるんだけど、それぞれがとても太刀打ちできない人なので、「主」にはちょっとなれそうもない。なるほどとしかいえねーんだもん。突っこみが出来ん。

 

 かといって引用文を削るのも主義に反するというか、自分が本を選ぶ時の基準って9割9分は語り口にあって。

裏表紙にあらすじとかが載ってる本ってあるけれども、内容を知るには確かに便利なんだけど、一方でストーリーをそれで勝手に見越してしまって結局買わないってこと、あるあるネタで通じると思う。

 

 だから大体は冒頭を読んでみて面白そうだと思ったら買う、もしくは自分の好きな誰それさんが紹介してたから信じて買う、てのが最近の手の出し方で、後者には狙ってはなれないとしても、前者を皆さんに見せるきっかけぐらいにはなりうるんではないかというのが引用文をブログに書き始めたきっかけなんすね。

 

 四人それぞれタイプも違うけど、引用した文の中のどっかに面白さを感じてくれたんであれば、読んでみて損はないということだけはとりあえずお伝えしておきたい。

 

 とかいってたら一応分量的には主になれたかな。これで終わります。

 

以上。

みうらじゅんフェスティバルに行ってきた話

www.kawasaki-museum.jp

 

↑これ。

 

 みうらじゅんさんっていまいち何してる人かわかんないんだけど、この企画展見に行っても何やってんだか結局わかんなかった。

 

 内容は、ちっちゃい頃からみうらじゅんが自分で締め切りを作って、恐竜や仏像のスクラップブックだの新聞だの漫画だのせっせと書いていった成果物がばぁーっとあって、あと彼がひたすら義務感にかられて収集してきたいやげもの(もらっても特に嬉しくないお土産)とかがまたばぁーっと展示されてるという感じ。

 

 「こんなことやってて俺一体何してるんだろう?」みたいに悩んだりとかした痕跡が(少なくとも展示の中には)微塵もなくて、思春期に書いてるポエム日記にもなにかどっか余裕がある。

 

 

 「大学四年生になって、皆が就活パニックになったので、俺もじゃあパニックに乗っておこうかということで就職活動したんですけど、面接に自分の描いた漫画持っていったら、漫画頑張ってくださいって面接官に言われて、何のために就活したんだかさっぱりわかんない」

 

 「多分これ見ても、見に来た方たちはわぁーってなるだけだと思うんですよ。10個あってもたいしたことないんだけど、万を越えて並べられてればわぁーってなる」

 

 「これがアートなのか、はたまたガラクタなのかは、まあ皆さんに決めていただくということで」

 

 などなど、展覧会の中で流されているインタビュー動画の中でも、みうらじゅんさんのかもし出すゆるさが存分に発揮されていて良かった。

 

 芸術家ってもっと「こんなもんはゴミだ!」グシャァ、みたいな、作っても満足できないでたたき壊すようなとこがあるようなイメージだけど、それはなしにほんとにただ何かを作って作って作ってきた結果が展示されてる。

 

 「アート」とも「ガラクタ」とも私的には判断つかないけど、「みうらじゅん」は存分に味わえる、そんな企画展だった。

 

 以上。

『鈴を産むひばり』『うづまき管だより』 光森祐樹

・鈴を産むひばりが逃げたとねえさんが云ふでもこれでいいよねと云ふ

(『鈴を産むひばり』) 

・内海と外海のこゑ聴くときにうづまき管は姉妹と思ふ

(『うづまき管だより』

 

 この辺は解釈とかいうより「考えるな、感じろ」の世界なんですかね。

 

 

鈴を産むひばり

鈴を産むひばり

 

 

 

うづまき管だより

うづまき管だより

 

 

〇内容

京都大学短歌会出身、光森祐樹さんの第一歌集と第二歌集。

1998年から2010年までの314首→『鈴を産むひばり』

2010年から2012年までの128首→『うづまき管だより』

 

 〇好きな短歌10選

 上5首が『鈴』、下5首が「うづまき管』

 

・それぞれの花火は尽きてそれぞれの線香花火を探し始める

 確かに言われてみりゃ花火やるときってこんな感じだわ。

 

・花積めばはなのおもさにつと沈む小舟のゆくへは知らず思春期

  灯籠流しを詠んでるのかな。「小舟のゆくへ」は調べてみると、自然に分解される材料を使うor翌日に主催者側がゴミとして回収、のどちらからしい。前者ならまだしも、思いを廃棄物とされてしまう後者はしゃーないけど物悲しい。

 

・手を添へてくれるあなたの目の前で世界をぼくは数へまちがふ

 相手が優しくしてくれればしてくれるほど失敗したときに「ごめんなさい」て気持ちになる法則をうまくつかんでると思った。

 

・ドアに鍵強くさしこむこの深さ人ならば死に至るふかさか

 鍵を差し込むときに思いのほかガリガリ大きな音が響いて背徳感覚えることあるんですけど、なるほどあれはこういうことなんですね。嫌いなやつの顔思い浮かべながらやれば現代版の新しい呪いにもなりうる。しないけど。

 

・やはらかないちにちでしたと綴られしメイルをつひにつひに捨てたり

 メイルの送り主との関係性をどう想像するかでだいぶ見方変わる。

 

・てのひらをすり抜けさうな雪だからはめて間もない手袋をとる

 でも手袋とると寒いからまたつけるまでが、自分的には一セットになるんですがどうでしょう。

 

・三月が斜めに裂けてしまふから四月も破るちからの限り

 十二月までずっと同じことが言える歌。ちからの限り破る一年。

 

・助けたかった、と わたしの耳を伝ふ指がなみだのやうにぬくかつたから

 「から」なんなんだろうという疑問が湧く。それはもう言葉にならないからこういう風に詠んだということ??

 

・黄葉の葉擦れやまざる耳鳴りはからだのなかに湧く音といふ

  「気にしないことです、と医師はいふ」という前置き付き。納得いってるのかいってないのか、なんかどこかとぼけた雰囲気がある。

 

・あなたがやめた多くを続けてゐる僕が何ももたずに海にきました

 この歌については、ちょっと他の歌も絡めて解釈してみます。

 

 さっきの「メイル」のやつとか、あと

 

・隣人の目覚まし時計が鳴り止まず君の何かが思い出せない

 などなど、『鈴』のほうでは「君」に代表される他者とはどっか決定的にすれちがってる感じがある。また

 

・嗚呼だからいますぐお店の狂はない時計を全部見せてください

・狂はない時計を嵌めてゐる人と二度逢ひ三度逢ひ明日も逢ふ

  この連作の中には、人と合わせなければならない、すれ違ってはいけないという強迫観念めいたものが垣間見える。

 

一方『うづまき管』では、

 

百年経ってゐますやうにと願いつつふたりして押す秋夜の扉

 こんな風に、ちゃんと平常に出会える人を見つけられているイメージ。

 「海」については、『うづまき管』の中に

 

・陽を沈め海があふれてゆく浜に見失ふ犬、かへりみち、他

・尾びれをつかみ海へとはなつもう人の耳鳴りになるんぢやないぞと

 というように、すべてを沈めていく場所として観念されている。

 

それを踏まえて先ほどの

 

・あなたがやめた多くを続けてゐる僕が何ももたずに海にきました

 これを改めてみてみると、「あなたがやめた多くを続けてゐる」という点ではすれ違いをしていたわけだけれども、それは年月を経たことで受け入ることができ、「海」の中に「思い出せなかった何か」や「捨てたメイル」を探しに来ましたよ、という歌かなあと。

 

  でもこれだと「何ももたずに」の部分を全く見れてないですね。

続けてゐるものをあえて置いてくる、というのは、「かつてのあなた」と同化したともいえる?(「現在のあなた」でないのは、「僕」が続けていない多くを、「現在のあなた」は続けているはずだから)。

そうすることでより「かつてのあなた」の残滓を海から掬い出しやすくしている、とかかな。

 

 『うづまき管だより』はkindleでしか販売されてなくて、『鈴を産むひばり』もkindleにあったのでそれで買いました。書店にはもう置いてないし。

例の「kindle unlimited」って「新鋭短歌シリーズ」とかが読み放題対象になってるんですね。月額980円なら書籍で買うよりかは圧倒的に安いが、どうしよう。

 

以上。