寝楽起楽

ネタばれには配慮しない、感想/紹介ブログです。毎週1回更新 +α を目指したかった。

哀愁背負うマン:『若山牧水歌集』 伊藤一彦編 岩波文庫 2004年

・白鳥は哀しからずや空の青海のあをにも染まずただよふ

哀愁牧水。

 

 

若山牧水歌集 (岩波文庫)

若山牧水歌集 (岩波文庫)

 

 

○内容

23才~43才までの間に出した十五冊の歌集から1700首を選出。

 

○感想

 冒頭に挙げた「白鳥」しか知らずに若山牧水好きとか言ってるようじゃいかんと思い、読了。

 

 牧水はいついかなるときでも悲哀を持つ人である。

 

・われ歌をうたへりけふも故わかぬかなしみどもにうち追はれつつ

 

 そもそも創作の源泉がかなしみだし、

 

・おもひみよ青海なせるさびしさにつつまれゐつつ恋ひ燃ゆる身を

 

 人妻に恋をするという道を歩んでしまったせいで苦しむし、

 

・きさらぎや海にうかびてけむりふく寂しき島のうす霞みせり

 

 趣味である旅をしてもこういうところに目がいき、

 

・たぽたぽと樽に満ちたる酒は鳴るさびしき心うちつれて鳴る

 

 酒を飲むとかえって寂しさがまし、

 

・しのびかに遊女が飼へるすず虫を殺してひとりかへる朝明け

 

 女遊びをしてもなんか闇落ちしてるし、

 

・膝に泣けば我が子なりけりはなれて聞けば何にかあらむ赤児ひた泣く

 

 自分の子どもの泣き声に同調までしてしまう。

 

 ただ牧水がその辺の太宰治にあこがれるこじらせ文学男子と違うところは、女々しくはないというところ。

 

・みな人にそむきてひとりわれゆかむわが悲しみはひとにゆるさじ

・幾山河超えさり行かば寂しさの果てなむ国を今日も旅ゆく

 

 寂しさ、悲しさは絶対に消えないという確信から彼は出発している。

歌の比重がこれらに偏っているのは、牧水がそれらから逃げなかった証明としても読むことができると思う。

 

 また牧水の歌は輪郭が非常に明瞭でわかりやすいことが特徴。 これは、歌いたい対象が本人の中ではっきりしていることからくるのかもしれない。

 

・一心に釜に焚き入る猟師の児あたりをちこちに曼珠沙華折れし

 

 こうした風景を詠んだものにしても、取り扱う題材は如何にも叙情めいたものばかり。

ただ、並の人ならただその風景の一部を言葉にしただけで終わってしまうところ、牧水の歌は、その背後にある風景全体がぱっと脳裏に浮かんで来る。

 

・菜をあらふと村のをみな子ことごとく寄り来りてあらふ温泉(いでゆ)の縁に

・人の来ぬ夜半をよろこびわが浸る温泉あふれて音たつるかも

 

 前者は「ことごとく寄り来る」からかしましく雑談に興じながら手を動かす女性たちが、後者からは湯が溢れていく音はもちろん、湯につかり身体を伸ばしてしみじみと温まっている感じ、もうもうと上がる湯煙や、人によっては遠くに山を望み星がまたたき、虫の声が聞こえてくる露天までを想像するかもしれない。

 

 これはおそらくわかりやすさが一個極まっているために、読者それぞれが持っているイメージと瞬時に同化してしまうからだと思う。

そしてそれは、現代短歌が全体的に歩んでいこうとしている方向とはたぶん正反対の位置にある。

 

・人の来ぬ谷のはたなる野天湯のぬるきにひたるいつまでとなく

 

 今は人が来ない道かもしれないけれども、なんとなくこのぐらいの立ち位置でずっとこうした歌は残っていってほしいと思った。

 

図らずも温泉の歌が多くなってしまった。

 

以上。

 

公開ラブレター:『花は泡、そこにいたって会いたいよ』 初谷むい 書肆侃侃房 2018年

・ひらかれてひらきっぱなしの欠陥でもう誰といたってねこじゃらし 

遠いな~

 

 

花は泡、そこにいたって会いたいよ (新鋭短歌シリーズ37)

花は泡、そこにいたって会いたいよ (新鋭短歌シリーズ37)

 

 

〇内容

 新鋭短歌シリーズ27弾・初谷むい(1996年生まれ)の第一歌集

 

〇感想

 短歌界では発売以来結構騒がれてるっぽい歌集で、実際注目されるだけのものはあると思うんだけども、個人的には、

 

エスカレーター えすかと略しどこまでも えすか、あなたの夜を思うよ

ジュンク堂追いだされてもまあ地球重力あるし路ちゅーも出来る!

 

 こういったあちらこちらで取り上げられている初谷さんの代表作だけみて、自分から遠すぎるのではないかという懸念があり、今まで手にとってはこなかった。

 

 が、食わず嫌いはいかんし、遠いなら遠いでその遠さそのものを楽しめばいいのではないかと思い直し、今回手に取った次第。

 

 考察に入りますと、

 

・ふるえれば夜の裂けめのような月 あなたが特別にしたんだぜんぶ

・手を繋ぐゆめのそのまま好きになる消えてしまうけれど好きになる

 

 これらの歌に見られるような、(特に恋愛における)一瞬一瞬の完全性、みたいなもんをうたってる奴。

 

例えば河野裕子さんの、

 

たとへば君 ガサッと落ち葉をすくふやうに私をさらつて行つてはくれぬか

 

 この歌と比べてみると、河野さんは最初からそうした完全性をあり得ないと認識したうえで、それへの羨望をちらとのぞかせているように見える。

 

しかし初谷さんの場合、そういう瞬間ありきで歌を詠んでいるようなところがある。

 

 短歌のことを好きになったのは、放っておけばあっという間に消えてしまうような瞬間のゆらぎが、ひとつの調べの中に湧き上がって、それがとてもうれしかったからです。すべてのものは変わるけれど、ほんとうのことはどうがんばっても正しくあなたに届かないけれど、キーボードをぱちぱちと叩いて、そこに浮かび上がる言葉にはなんだか救われたような気がしていました。

(あとがきより)

 

 こういう意識で、つまり最初から「保存してやろう」というような気持ちで歌を詠んでいるような人、にわか知識の範囲では今まで居そうでいて見かけなかった気がする。

 

・生きていてのんふぃくしょんじゃんのんふぃくしょんあたしたちのんふぃくしょんなんだ

・酩酊。酩酊。このこえはおのおのだいじにしてほしいことばをいまからつたえるこえです

・せおりい「どうせだったらこのまんまあわあわあわになっておしまい」

 

 そういう目で読んでみると、例えばこれらの歌も、ほんとにごく単純な一瞬の気づきだったり感情だったりを、思うがままに歌にしている結果という風に見える。

 

・カーテンがふくらむ二次性徴みたい あ 願えば春は永遠なのか

 

 だからといって、それらは思いついたものをそのまま形にしているわけではなく、これなんかは推敲をしないと作れない歌だと思うんだけど、しかし、時間を置いて作っていることが却って、その背後に作為性を感じさせてしまって面白くない、ともいえるかもしれない。

 

 そういう意味では冒頭であげた「ねこじゃらし」のやつとか、わけわからんけど、そういうまんまのほうが面白いのかも。

ただこういう歌、好きな歌一首あげてください、と言われたときに絶対にあげられないよな。好きな理由を説明できないし。

 

 

今回は本文中に歌をいくつかあげてるので、歌紹介コーナーは一首だけ。

 

・うろこ、ってぬぐってくれた 二人ともそれが涙とわからなかった

 「わからなかった」っていうのは絶対に欺瞞である(だって歌を詠んだ時点では「涙」っていってるし)が、嘘と知りながらそうしている、その努力が尊いと思う。

 

以上。

 

 

 

 

短歌ムック『ねむらない樹』読んだ 

 ある日、つぶやいた。短歌の雑誌をつくるほどの力はないけど、年二回のムックならどうだろう。一つには、『笹井宏之賞』の発表媒体が欲しい、ということ。もうひとつは、次々に短歌の世界に加わってくる若い歌人達の受け皿がほしいということ。そんな漠然とした思いに六人の編集委員が答えてくださった。

(編集後記から)

 

 若い参加者に好意的なの、ほんと良いことだよなー。

 

 

○内容

現代短歌(2001年以降のもの)100選/ニューウェーブ(1990年ぐらいから出てきたオノマトペとか短歌に入れこんだ人たち)のお話会/後他にも対談とか作品とか歌論とかエッセイとか色々

 

○感想

  書肆侃侃房ってとこが出版してるんですけど、まあまず初見でこれを読める人は居なかろう。しょしかんかんぼう、です。

これを覚えればそれだけで全人類を対象にした短歌偏差値ランキングで上位にいけるよ。やったね。

 

・ 書肆侃侃正しく読めばそれだけで上位になれる世界万歳

 

 

 

 『ねむらない樹』というタイトルは、笹井宏之さんの

 

・ねむらないただ一本の樹となってあなたのワンピースに実を落とす

 

 から来ているらしい。けどこの短歌、自分にはいまいちしっくり来ないというか、難しい。

こうした、歌に籠めてる思いみたいなもんをぼやかしてる(わけでもないんだろうけど)みたいな、風景に仮託させてるようなものはこのムックにも一杯入ってて、それらがどうも読み解けない、核心に迫れない感がある。

 

・使えないまま遠のいてゆくきみの高笑い、もう止そう向日葵 井上法子

 

 そんで、こういうのってなんとなくよくわかんないままに通りすぎちゃうことがしやすい作品でもあると思う。

立ち止まってしっかり見ようとしても得心させるのに時間がかかる予感がするから。

歌集も歌雑誌もそうだけど、一つ一つを作品としてみようとするとほんとに恐ろしく時間が必要。

 

 そういう意味で、「実」を落としても、受け止められるかどうかは「あなた」次第というところがあり。

 

 短歌を志す人は、だれもが自分のなかに自分だけの「ねむらない樹」を抱えて生きているに違いない。その樹は、どんな権威や強風にも揺るがず、孤高の志を持つ一本の樹として、すっくと立っていてほしい。

(扉絵から)

 

  とエールが送られているけれども、詠む前から「孤高」でいることを覚悟していなければならず、また詠んでもその題材を「使えない」まま終わるかもしれない、というのは、非常にしんどい作業だなあ。

 

 なんかこの本そのものじゃないとこに話題がいってしまったので話を戻す。

 

 『歌壇』とか『短歌』とかと違って、「特集」と銘打ってあるものでも中ぐらいの分量で、1Pだけのエッセイとかが多い。後もちろん短歌掲載のページも。

若い人を中心に、たくさんの歌人に場を与えようとしている理念が見えてて、非常に良いと思う。

 

 ニューウェーブ(萩原裕幸/加藤治郎/西田政史/穂村弘)の講演は、まずそもそもニューウェーブ・ライトヴァースという括りすら知らなかったので、新しい知見が多かった。

 

 特に加藤さんの、

「パソコンが登場したら文章が動ける(コピペ)ようになって感覚が変わった」話と、

穂村さんの「あまりにも世界観ができすぎていると指摘したらその批評は現代では駄目っていわれた」話、

水原紫苑さんの「与謝野晶子俵万智の成果を男は搾取してない?」って問題提起が

面白かった。

 

 某書店で購入したら、在庫検索機で在庫あり:40冊ってなっててびっくり。相場はわかんないけど、これは短歌本にしては(失礼か?)まあまあ売る気の設定ではないか?

がんばれ。増刷されるようお祈りしてる。

 

 

 この後は歌集を紹介してるときの恒例(?)、短歌十選です。ここが一番書くの時間かかる。

 この本、一番最初に現代短歌100首選んだっていう特集が一番最初に組まれてるんだけど、そこからは選出しないことにしました。

100選からさらに十選するってなんだかわけわからない作業だし、好きなのが多いのでそこだけで10首埋まってしまうので。読みたい人は買って読んで。

 

 

・旧仮名はコミュニケーション不全だとマクドナルドで女子高生が 枡野浩一

 ツイッターとかでよく見かける、マクドナルドで座ってたら隣の女子高生が○○って言ってた、みたいな「本当だか嘘だかよくわからないけど、ちょっと嘘っぽいような話」を総称して「嘘松」って呼ぶ文化が今年の初めぐらいから一瞬流行したことをご存知ですかね。

 個人的にはこの言葉が作られてから以降、どんな話にでもとりあえず「嘘松乙」とかくさすような輩が出現するようになって嫌な文化だなーと思ってたんだけど、枡野さんがそれを普通に短歌に取り入れててびびった。ので選びました。

 しかもこの短歌の次で、他全部新仮名なのに旧仮名わざわざ使ってるし。さすが。

 

・「っすね」と言ったのをみた瞬間にこころに終わらない雪あそび 武田穂佳

 「雪が降る」だとすごく平凡な歌になっちゃうところ、「雪あそび」ってしたのが大きなポイントだと思った。

 「百年の恋も冷める」みたいな話ってすごくよく聞くけれども、「雪が遊んでる」状態ならまだぎりぎり取り返しがつきそう。「雪が降る」だとたぶんもう駄目。

 

・でたらめをうたう孫と死んだ弟がいつしょにとびこんでくる私の腕 小宮良太郎

 思わず二人分の腕を広げた老人の姿を幻視する。小宮さんの弟はまだ若いうちに亡くなってしまっているらしいんだけれども、孫ができる歳になってもその存在を忘れておらず、そしてまた腕には一人分の感触しかないことに、改めて喪失を悟っているような寂しさもある。「でたらめをうたう」の溢れるエネルギー感もよい。

 

・おいおい星の性別なんか知るかよ地獄は必ず必ず燃えるごみ 瀬戸夏子

 これはもうなんか批評の言葉とか無くさせるような作品だと思った。

「燃えるごみ」が一番生々しい言葉として、しかも新鮮な文脈の中で使われているのが新しい。

 

・海と靴 それで十分足りている叙情に付け足せるなら何を 石井僚一

 「海と靴」という出だしだけで、そこに描かれていない靴にひいては寄せる波とか、あるいは青い空とか、雲とか、なんかそういう諸々を同時に思い起こすわけだけれども、さらにそれに何か新しいものを付け足してやりたいと思った、という非常に欲張りな短歌。

 

・「てつどうは私の一部なのです」と言うかのような青空と雲 大滝和子

 てつどう、青空、雲、が並んだ写真を見ると、普通は自然とどこまでも伸びていく線路の向こうとかに意識をもってっちゃうけど、そこに一緒に並べられている空と雲の、どっしり泰然としている様に着目しているという観点が面白い。

 

・ただいまの地震によって乱丁や落丁の恐れがございます 木下龍也

 本来はつながっちゃいけない二つのものをつなげている感。

 地震が起こっても、「乱丁や落丁」という自分の仕事のことだけをアナウンス、しかもそれすらも「ございます」という馬鹿丁寧な言葉によって薄ら寒く響くという、分客によって言葉の感触が著しく異なるという好例であり、怖い短歌。

 

・行き先の違うあなたを見送って場面転換するような雨 原田彩加

 

 発想としてはわりとありふれたものだと思うんだけど、下の句をどう想像するかによって解釈の余地が意外と広いのかなというところが面白くて選んだ。雨の瞬間に場面転換しているのであれば「私」と「あなた」は二人いないとストーリーが成立しないよね、ってことだし、雨が降ってきて、傘を開いて、私が歩み去るところまでをイメージするならあなたと居た余韻に浸ってます、てことだし、あるいは場面転換したら雨が降ってます、てことかもしれないし。

 

・ゴルフ打ちっぱなしの網に絡まってなかなか沈んでゆかない夕日 岡野大嗣

 これは着眼点賞。いやー。こんな視点ほしい。

 

・はじめからあなたに決めていました、と点滴のチューブをつたう声 笹井宏之

 老夫婦の情景を歌ったものかと最初は思って(だとしてもすごくきれいな情景だと思う)、でも笹井さんご自身が15のころから心臓を悪くされて26才で亡くなられてることを考えると、自分のことを歌ってるのかなあ。

 

 

 vol2、楽しみにしてます。

 以上。

 

『絶滅寸前季語辞典』『絶滅希求季語辞典』 夏井いつき ちくま文庫

 

 読んでも役に立たないことにかけては、右に出るものはないかもしれない。が、もともと俳句なんぞは役に立つはずもないものであって、むしろ役に立たないものとしての誇りを胸に、堂々と詠まれ続けていくのが俳句だとも思っている。

(『寸前』、まえがきから) 

 

 

  潔い心意気。

 

 

絶滅寸前季語辞典 (ちくま文庫)

絶滅寸前季語辞典 (ちくま文庫)

 

 

 

絶滅危急季語辞典 (ちくま文庫)

絶滅危急季語辞典 (ちくま文庫)

 

 

○内容

 俳人ですら「は?なんだこの季語?」ってなるような見たことのないものや、日本の文化として消滅しそうな季語などを中心に、例句紹介したり自分で詠んだり俳句募集したりした

 

○感想

 2語目で「例句ない場合自分で詠まんといけないの?」と絶望し、わずか4語目にして「もうこんな季語絶滅しても良くない?」とのたまう、筆者の味の良い性格。

 

 「季語を蘇らせよう」と意気込んでいるわけでもなく、難しいことは一切なしで進んでいくため、私のような季語無知もとても気軽に読み進めていける。

 

 興が乗ってるときの筆の進みようがまた素晴らしい。

特に「磯遊」「傀儡師」のような季語を切欠にして筆者が古い記憶を呼び覚ますシーンなどは格別で、そうした記憶と結びついている俳句にはやっぱり良いと思えるもんが多い。

 

 実を言うと、私が子供のころ、我が家には毎年「傀儡師」が来ていた。もっとも、そんな呼び名ではなくて、「えべっさんのおっちゃん」とか「人形廻しのおちゃん」とかと呼ばれていた。いつも、真っ黒なでっかい木箱を背負ってくるテカテカしたおでこを持った禿のおっちゃんだった。

 えべっさんのおっちゃんが近くに来たらすぐに分かる。唄を歌いながら歩いてくるからだ。広い土間のある上がり框に腰掛け、おっちゃんは最初の振る舞い酒をさも美味しそうにきゅーんと飲む。祖父は、玄関の間にどしりと坐り、私と妹は祖父の両側にちょこんと座る。広い土間には近所の人達が集まっている。

(『寸前』、p341)

 

 また絶滅してると思われていた風習が、読者からの投稿で地方ではしっかり息づいているのが判明するということも頻発する。(「毒消し売」とか)都会でホタルを探せ!とか、そんなドキュメンタリー観てる気分にもなれる。

 

 同じく俳人の堀本祐樹さんが、別の本で年々季語は減少傾向にある、という風に仰られていた。

 確かに本書を読むと、風習・季節感に裏打ちされている季語が圧倒的に多く、エアコン・パソコン全盛の時代にあってはもはや実感のないようなものばかりで、廃れていくばかり、というのは非常に納得できたところ。

 

 この本を面白く読めたのも、全く知らないようなことばかり出てくるから、ということもある。

 がんがん消えてく言葉を思うとやや寂しい気もするが、まあしゃーないわな。エアコン涼しいしな。現に今涼しくパソコン叩いてるし。

 

 

 こっからは折角夏なので、本書に出ていた夏の俳句から良いと思ったものを紹介していきます。

 

・あつぱつぱ正義が勝つたりする映画 大塚めろ

 あっぱっぱ=夏服(三夏/人事)。語感の雰囲気を上手く言い表していると思う。

 

・浮いて来いだけが浮かんでゐる盥 夏井いつき

 浮いて来い=入浴や行水のときの、子供の玩具(三夏/人事)。盥に浮かばせるものなんてそれこそ人形ぐらいしかないはずなのに、「だけ」と使っているところが良く効いている。取り残されたような不穏な雰囲気を見ることも出来るし、夏の名残のような物寂しさとも取れる。

 

・穀象の壊れかけては歩き出す 大塚桃ライス

 穀象=コクゾウムシ(三夏/人事)。実家が米農家の人とかに聞くとまだまだバリバリ現役らしいけど、私は一回も見たことない。にも関わらずその歩き方を想像させうるぐらいの力を持った俳句(思わず検索してしまったが、人によっては閲覧注意の動画が多かった)。

 

・晒井の喧噪を聞く二階かな 夏井いつき

 晒井(さらしい)=井戸の水をくみ上げて、中のゴミを掃除する共同作業(初夏/人事)。古き良き共同体の雰囲気。

 

・ごんごんと芒種の水を飲み干せり 夏井いつき

 芒種(ぼうしゅ)=二十四節季の一つで、稲や麦の種をまく時期(仲夏/時候)。

「ごんごん」と「ぼうしゅ」とが上手く噛み合い、飲み干すという動作に自然とつながれてるように思える。

 

・鮎もどきたれも心配してくれぬ 杉山久子

 鮎もどき=あゆに似てるナマズ科の淡水魚(三夏/動物)。これが正式名称。可哀想。

 

・母とゐてセルは胸よりほころびぬ 阿南さくら

 セル=毛織物でつくった初夏用の単衣(初夏/人事)。ファッション系の季語も消えていきやすいジャンルの一つだろう。

 

・毒流しして一服という時間 夏井いつき

 毒ながし=毒汁を流して浮いてきた魚を取ること(三夏/人事)。漁師のふてぶてしさが垣間見えるような一句。

 

・足跡のなきを首途に夏の霜 上島鬼貫

 夏の霜=月の光が街に当たって白くなるのを霜にたとえたもの(三夏/天文)。かどでっていうのがいまいちよくわからんか?でも綺麗な句。

 

・くれなゐを籠めてすゞしや花氷 日野草城

 花氷(はなごおり)=氷の中に草とか金魚(!)とか入れたもの(晩夏/人事)。いかにして夏を気持ちよく過ごすか、苦心してたんだなあということがよく伝わる。

 

 

 前半五句は『寸前』から、後半五句は『希求』から取りました。

 

 気づけば7月は一回も更新しないまま8月にはいってしまってましたが、まあこういうこともありますわな。

 

以上。