寝楽起楽

ネタばれには配慮しない、感想/紹介ブログです。毎週1回更新 +α を目指したかった。

教養の積みかた:『霧のむこうに住みたい』 須賀敦子 河出文庫 2014年

 街中が美術館みたいなフィレンツェには、「持って帰りたい」ものが山ほどあるが、どうぞお選びください、と言われたら、まず、ボボリの庭園と、ついでにピッティ宮殿。絵画ではブランカッチ礼拝堂の、マザッチオの楽園追放と、サン・マルコ修道院のフラ・アンジェリコすべて。それから、このところ定宿にしている、「眺めのいい」都心のペンションのテラス。 もちろん、フィエゾレの丘を見晴らす眺めもいっしょに。夕焼けのなかで、丘にひとつひとつ明かりがついていく。そして、最後には、何世紀ものいじわるな知恵がいっぱいつまった、早口のフィレンツェ言葉と、あの冬、雪の朝、国立図書館の前を流れていた、北風のなかのアルノ川の風景。

(本著「フィレンツェ 急がないで、歩く、街」 p80-81)

 

 風景を持って帰るって発想がめちゃんこかわいらしい。

 

 

霧のむこうに住みたい (河出文庫)
 

 

○内容

 イタリア文学研究者須賀敦子さんのエッセイまとめた

 

○感想

 幼少期の思い出なんかも収録されてるが、兵庫・芦屋のお嬢さんとして育ったようで、その時のお嬢さん感覚を良い意味で持ち続けてる人だと思った。

 イタリアの風景なんて、大多数の読者にとって遠い景色。

「ヨーロッパだから、何となくおしゃれそう」ってぐらいの浅はかな淡いあこがれしか僕は持ってないんだけど、その程度でも引き込まれつつ読んでしまうのは、その「あこがれ」という部分を、彼女自身が生涯ずっと持ち続けることができてたからだと思う。 

 全然生まれも育ちも違うし、学も当然向こうの足元にも及ばないんだけど、それでもその気持ちだけは共有できてるんじゃないか、ていう錯覚を起こさせられる。

 そんでそう思わされてるうちに、いつの間にか遠かったはずのイタリアが、間近にまで近づいてきていることに気づくのだ。

文筆家としては、本当に稀有な才能の持ち主。

 

 

 持って帰りたい!?これを読んで、ばったり少女に出くわしたみたいに微笑まないひとがいるだろうか。須賀さんの文章にはめずらしい体言止めが続き、そこにいるのは、秘密の場所を教えてくれるのに、息を弾ませて幸福そうに、誇らしそうに、駆け出してしまった少女みたいだ。

江國香織「解説ー雨の日を紐解く」より)

 

 

 最初に引用した文章だけ見ると知識をひけらかすタイプみたいに思われちゃうかもしれないかもしれないけど全然そんなことはなく、何も嫌味がない文章を書くし、それらのことが何より好きだからやってる、てのが伝わってくる。

須賀さん自身が多分めっちゃ良い人なんだよなあ。

 

 僕の中でこの人と大体同じカテゴリーに居る、向田邦子さん幸田文さんとかも思い出すと、この戦前~戦後を生き抜いた女性随筆家の人々って、文章に凄いしっかりした芯みたいなもんがあるような気がする。いやー、すごいなあ。

 

以上。

大森靖子を聴いている(ただ良いわっていってるだけの記事です)

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ぶっちゃけこのLIVE映像とか、初見はドン引いた。

 

    ↓歌手概要

 

弾き語りを基本スタイルに活動する、新少女世代言葉の魔術師。音楽の中ならどこへだって行ける通行切符を唯一持つ、無双モードのただのハロヲタ。あとブログ。

(公式サイトから引用)

 

 一番最初に聴いたのは『みっくしゅじゅーちゅ』だった。

 

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 んで、こういうPOP系の人なんだな~ていう印象のまま、適当にツタヤで上の曲が入ってる『MUTEKI』っていうアルバムを借りた。

 

 そしたらそれが普通のアルバムとは違って、バンド構成じゃなくて弾き語りで代表曲が収録されてるバージョンだったんですよね。音が少ない分、歌詞がしっかり聴けて、それでまずやられてしまった。

 

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あのまちを歩く才能がなかったから

私 新宿がすき

汚れてもいいの

 

 一番上の動画でも歌ってて、この動画の最初でもある『新宿』って曲の一部。

 アイドルイベントにギター一本抱えて飛び込んでくる度胸も凄いし、そこでこんな華やかな世界の闇の塊みてえな曲歌うのも流石だし、終盤には客を飲み込んでってるのもすさまじい。

 

 ご本人も相当闇が深い方なんだけど、大森靖子さんは闇が深いまんま「かわいい」で世界を、というよりその歌を聴く一人ひとりを救おうとしている。

 

ガールズポップの表層の“かわいい”の捉われ方に対して、“いやいや違うから”っていうのがあって。わたしが思う“かわいい”っていうのは、手作りのものなんです。その人が作った手垢のあるもの。たとえば、自撮りと現実がめっちゃ違っても、自撮りが現実でもいいじゃんっていう感じですよね。それはどうやっても剥がせないものじゃないですか。自分が“これ”って思ってないものは、なくしちゃうし、どんどん剥がれていっちゃうけど。この曲の題材は女の子にしてるけど、それが女の子である必要はないんですよね。

――“かわいい”っていう言葉は、大森さんにとって“愛する”と近い意味な感じがします。

そうなんです、愛でたいっていうことですよね。

(大森靖子 “伝えたいこと”ではなく“個の肯定”、『クソカワPARTY』に綴った超歌手・大森靖子の生き様 | SPICE - エンタメ特化型情報メディア スパイス)

 

 

 痛いなコイツ、とかそういう批判も人気になっていけばいくほど山ほどもらったみたい(僕も最初LIVE映像で引いた一人だし)なんだけれども、靖子さんはマジで痛いくらいに本気で活動をしてるんだな、てことが映像から曲から、ビシバシと伝わってくる。その生き様が、なによりもかっこいい。

 

 後、元モーニング娘。道重さゆみさんの大ファン(なんせ『ミッドナイト異性清純交遊』という彼女にささげる曲を作ってしまうぐらい)とのことで、流れでさゆみさんの曲も聴いた。

 

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 びっくりするぐらいにさゆみさんがアイドルでびっくりなんだけど、この『ラララのピピピ』って曲も、アイドルさゆみが「普通の女の子」にあこがれる気持ちを歌うっつう、よくよく考えると非常に皮肉が効いた歌じゃないかと思う。

 アイドルで居続ける限り絶対かなわない(叶わなかった)夢をアイドルソングとして歌うという。

 

 アイドル界全然知らんけど、奥はとてつもなく深そう。

 

 

 後、本記事とは全然関係ないんですが、割と前に「一押しのもの」っていうカテゴリーをつくったっていう、謎の報告をしておきます。

一応紹介系のブログなんで、特にお勧めのものを名詞代わりに厳選してく予定だったんですが、全部で多分130件ぐらいある感想記事のうちもう40件とか入ってて全然「一押し」の本来の意味では使えてないタグになってます。大森靖子さんも入ります。

 

以上。

 

言語動物水族館内臓爆発:『小笠原鳥類詩集』 小笠原鳥類 現代詩文庫 2016年

 暗い人形のガラスの棚は、のように数年間放置され、コンクリートも生きた魚礁・魚醤、腐敗水族館、あえかなくさっていておかしい、やわらかくくる緑色の寒天ゼリーみずうみ、湖・完全水槽、紫色の湖・水槽全集緑色の怪物という。ブロッコリーが浮かぶ、海底から沼になっていて、中で、脚を持ち上げて廊下を私たちは歩く。持ち上げられる、置かれた肉食金属のテリーヌ。冷たい、ゼリー寄せ、冷えたオードブルである、やわらかい、ひっひの野菜も置かれた、食器の磁器が。液状粉末がにくい炉にひっひ、わたしはやわらかくくるという、皮膚付着も害はないが緑色の逃げた。

(「腐敗水族館」、本書p11から

 

 どうしたらいいものか。

 

小笠原鳥類詩集 (現代詩文庫)

小笠原鳥類詩集 (現代詩文庫)

 

 

○内容

 言語の実験場的な現代詩の中でさえもやべえ(凄い)やつ扱いされてるっぽい人の詩集。

 

○感想

 まだ読み終わってないんですが、多分読みおえた後も感想は変わらず困惑するばかりだと思うのでもう記事書きます。

 

 そもそもこの詩集を全部ちゃんと読める人ってどのくらいいるのか。

ただ字面を追ってるだけだと、完全にキャパオーバーで何も入ってこなくなっちゃうし。

こんなに何読んでるのか分からない本ははじめてです。

 

 というわけで最初の数編は数回だけ、残りは目を通したり通してなかったりの状態なんですが、解説者さんたちが「天も地もない」とか、「主体が崩れ去っていく」とかいう感じはなんとなく分かる。

 

 冒頭で引用した一部分を読んで頂けたらわかると思うんですが、言葉のリズムそのものは非常によく流れる。声に出して読むと気持ちいいくらいに。その中であげられていくイメージは雑多かつ具体性に富みすぎるゆえによくわかんないんだけど、少なくとも何がしかの雰囲気は伝わってくる。

 

 そんでまた、そのイメージに対して「私たち」「わたし」は全く優位にはおらず、並列するものとして登場している。僕はまだ鳥類さんの詩の雰囲気を感じ取る、というところまでしか降りられてないけど、多分こっから進んでいくと詩の一部として・あるいは全部として自分がある、みたいな風になってく、ってことなんじゃねーかなという推測。

 

 難しいのは、書いてる小笠原鳥類さんは僕ではないということで、彼が興味を抱いているようには僕は動物や水族館や内臓に対して気持ちはない。

しかもそのイメージは頻繁に入れ替わる。

だもんで、全体的には、鳥類さんの宇宙を外から眺めつつ、時々手つっこんですぐ引っ込める、みたいな読み方しか今んところできてない。

 

 ただそれだとやはりもったいない気がする。

 

 ということで、例によって例のごとくネットを漁ってみると、鳥類さんの詩を使って読書会を開きました!っていうチャンレンジャーな方が居まして、果たしてそこでいったい何が話されたのか大変に気になるんだけれども、ちょっと一人読書会みたいなもんを勝手ながら今からこの記事でやりたいと思います。

ここまでで読むのやめてくれてもいいです。ありがとうございました。

 

 

敵が増大している(一般論です

自分にとって嫌なものは、自分の中で

ふくらむ(犬の卵(犬の卵(犬が

嫌いなので、それについて語ろうと

思っているのですが、犬が好きな人が

「残念ながら」多いので、個と普遍の

バランスがとれたところでしか、私で

ありながら他人でもあるというふわふわの

木星生物は生まれない(ああ。ああ

ふわふわの木星犬。大嫌いだ。犬の背びれ

 

 犬が好きな人がもう少し少ないと個と普遍のバランスが取れて「木星生物」が生まれてくれるんだけど、犬好きが多すぎるせいでバランスが崩れてて背びれをもった「木星犬」という敵の卵が自分の中でふくらみ、生まれ、それは個人的な問題であるようでいて、皆の敵も同じように増大している、らしい。

木星」に対して凄い思い入れがある、という人以外は、「私でもありながら他人でもある」という距離感に対して何となく「木星」を当てるとしっくり来るんじゃないか(来ないか?)

 

 

 繁殖期になると、石の平らな表面を

きれいに掃除し、その上に粘着卵を

その卵巣(毒がある(これは驚いた。

実は毒の塊だったのですか(読者にとって

できるだけふくらむやわらかい敵であるなら

その時に私は、私のままで増殖する

(乱暴に、犬を踏んだら泥だった)

 

 多分前半は木星犬の生態?みたいなこと?でも木星犬は「わたし」にとっての敵であったはずなのに、いつの間にか読者にとっての敵にすりかわっている。

「私のままで増殖する」のは、敵が自分の中でふくらむせいで、自分が拡張されていっているから?

犬を踏んだら泥だったのは、泥を犬と間違えるくらいに自分にとっての敵の範囲が広がっちゃった?

 

あら?コップの中にあったはずの粘液は?

マウスブリーダーの一種で、こまかい

砂を口に含んできて、卵の上にかける

のです(犬のしろひれたびら。しろひれ

 

 理解不能で変な笑いが出てくる。

 マウスブリーダーていうのは、調べたところ親の口の中で卵を保護する魚たちのことをいうらしい。

身体の中の敵、からの連想なのか。コップは飲むものなんで、何の粘液か知らんけど飲んだの?

 

書かれているものについてだけ語る

ということによって永遠に閉ざされる

だけか?という問いがあって、例えば

犬なのだ、これは。と言っても何が

放出され?粘液に包まれ、その外に

しみ出るものと、しみ出ないものが

あるか(いくつかの穴によって外と

つながり(卵(産卵によって循環との

結合が(増殖による複製は、だが理想

だろうか、それも(問いは続くだろう

 

 突然どうした、という気もするけれども。

 外/内、開く/閉じる、で二項対立的なものがぼんやりある、、ぷらす「犬の」卵として最初は悪いイメージとして用いられてたのが、今度は循環、ていう新しい二項対立ともまた異なる属性が付与された卵があるように見える。

(が連続するのはふくらむイメージが分かって好き。

 

「聞いてください、わたしたちは

あなたたちにとっては敵です。わたしたちの

銃はあなたたちを骨にするでしょう」

人間の首は犬の体につなげられ、とか

そんな映画もあった(問いは続くだろう

敵意以外に、神がいるかについてなどの。

 

 最初の台詞は犬がいってんのか人間がいってんのかわからんが、聞いてください、て言ってきてるから、少なくとも両者の中で対話は可能なもんとしてみなされてる。

この詩に限らんのだけれど、こういうイメージ同士の交感(交換)性みたいなとこは鳥類さんの特徴のように思う。

 

ここにあるものはいつでも、開かれる

ための問い、同時に、閉ざされている

問い?それ以上でも、以下でも

「私は、私のままで増殖していく」

 

 開く/閉じるという二項もここでは対立ではなく並列で書かれる。

 開くと同時に閉じる、というのも確かに鳥類さんの詩っぽくて、すげえたくさんのイメージがあるようでいて、実はおなじところをぐるぐる回されてるような気もするんだよな。

 

粘液とともに現れます。魚ではないの

ですが、鋭い。すでに宇宙船の中は、

大混乱の、お祭り(踊り(敵が増大している

食い破るでしょう、内側から、あなたを

どのような敵か?(敵が増大している

「伝えたい、できるだけリアルなままで」

食い破るでしょうか、内側から、(敵が

増大している(敵が増大していますか

 

 詩はここまで。

 宇宙船は多分最初の木星生物、木星犬が乗ってるところだと思うんだけれども、普遍が増大しているせいでお祭り状態?

同時に内側からの敵も増大しているが、敵が大きくなり、私も大きくなり、敵が内側から食い破って出てくることで、今度は敵と私、という区別もなくなる。から、最後は投げかけで終わってる?ってことでいいのか?

 

 この「犬」っていうのは一番最初に鳥類さんが書いたっぽいやつで、だから割と意識的に書かれてて、恐らく初心者向け。解釈っぽいことできたし。

 

 ただこうやって一つだけ抽出して取り上げるのは意味なくて、これは詩集全体の雰囲気を楽しむものという気もしている。

でもそれを上手く伝える言葉が思いつかねえんだよなあ。

鳥類さんを一個のビデオテープだとした時に、あまりにも重ねて録画してるせいで一個一個の原型を留めてないその映像を、倍速したり一時停止したりしながら見せられてる感じ?

 

 

いずれレベルが上がったら再ちゃれしたい。

 

以上。

 

日本を変えない書物たち:『こんな本があった!江戸珍奇本の世界』 塩村 耕著 家の光協会 2007年 

(占い書『尚占影響』について)

 相談人は、生活に困って娘を女郎に売った父親だ。その娘に恋人ができた。ところが、相手は財布の軽い色男。別れよと命じても聞かぬどころか、別の店に住み替えをしたいという。それで得たカネを男に貢ぐというのだろう。そこで「松井センセ、いったいどないしたら、ええんでっしゃろか?」と来た。私ならば、占う前に横着な親のほうを叱りつけたい。松井先生は、こんな質問にも丁寧に答えているので、感心する。

(p36から)

 

 売った後も親子の関係が残っていることが意外。

 

 

こんな本があった!江戸珍奇本の世界

こんな本があった!江戸珍奇本の世界

 

 

○内容

 愛知にある、岩瀬文庫という古典籍コレクションの目録を作る仕事に従事した筆者が、目を通した1万2千タイトルのうち面白かった56冊を図版つきで紹介。

 

○感想

 今週月曜まで開催してた「世界を変えた書物展」の日本版がないものかと思って探して読了。

 

 珍奇と銘打たれているけれども、内容がぶっ飛んだものを選んでいるというわけではなく、資料としての貴重さなども選抜の対象になっているみたい。

 

 ややタイトル詐欺であることは否めないけれども、自らを小人に変えて庭園を旅するSF的書物『礫渓猿馬記』、12才の神童が書いた漢詩集(中には「月下独酌」なんつうマセたものまである)『桃仙詩稿』、決闘の立ち会い方などを事例ごとにまとめた武士教本『八盃豆腐』などなど、読んでみたいと思わせられる本が多く紹介されていた。

 

 何がしかを紹介する系の本って、ほんとに表面的な情報開示だけに終始してしまって何が面白いんだかさっぱりわからんようなものが多かったりする。

 そうした類は大抵、読者対象を専門家に限定しちゃってたり、伝えようとする意思がそもそも薄かったり、紹介するものを当人がちゃんと読み込んでなかったりするもんである。

 今書いてるこの記事もそうなりつつある気がする。ブーメランを投げてしまった。

 

 ただ本著の場合はそれは心配無用。

まず、一冊一冊すべて塩村さん自身が目を通し、自分で自信をもって選んでいる資料群である。

さらに、初学者にもわかりやすいように、本の中の具体的なエピソードなどを中心に紹介しつつ、それに軽やかに突っ込みを入れていくというスタイルで記述が成されている。

かつ、もっと学んでみたいと思った人たちに対しては、くずし字の学び方なども教えてくれているという親切設計。

 

 旅行で食べたものを丁寧に記述したり、悪いことをしたら鬼が来る、と教える教育本があったり、あるいは女遊びに狂って身を持ち崩す男が書く吉原マニュアルがあったり。いつの時代も人は変わらないという文言は、しばしば言われることである。

 

 先日紹介した旅芸人の本に見えるように、風景というものは決して戻ってはこず、そこで生きていた情感という部分についても、想像で補うほかにできることはない。

 

 ただそこに繋がる可能性のありうる回路として、ここまで豊富な面白い資料が存在するという事実にはなんとはなしに勇気づけられた。

 またそれは同時にそこで生きていた人々に、思いを馳せる契機にもなった。

 

 ある日のこと、いつものように山と書物を積み上げた広い調査部屋で、独りで仕事をすすめていた夕暮れ時、この部屋にあるすべての書物が、今ここにあるのは、ことごとく死者の営為によるということに、ふと気がついた。それらの本の著者はもとより、本を印刷した人、写した人、製本した人、紙を漉いた人、あるいはかつて所蔵した人、売買した人、集めた人、ここに運んできた人、整理した人など、一人の例外もなく今はこの世に居ない。考えてみれば当たり前の話で、この感覚がうまく伝わるかどうか心元ないのだけれども……。そしてそのとき、自分も、彼ら古人たちと一本の糸でつながったような、不思議に安らいだ気持ちを覚えた。

(p24)

 

 これと同じかはわからないけれども、おそらくは近いような感情を覚えられた時点で、私にとっては本著は良著となった。

 

以上。