寝楽起楽

最近は頑張って読書感想ブログにしてます。

                ネタバレには配慮しない感想ブログです。          

私というものと羞恥について

最初に書いた記事を読み返す。

僕は自分の書いたものを後で読むのが嫌いである。

なぜかといえば、9割近い確率で赤面したくなるような事が書かれてるからだ。

物を書くという行為そのものは好きで、よく暇な時に裏紙につらつらとその時の気分の赴くまま綴ったりするのだが(の割に文章下手だね、とか言わないでね。気にしてるんです)、好きすぎてどうも暴走するらしく、いらないことを書いたり、変なことを大真面目に主張したりしていることが多い。

だから部屋を掃除したとき、そう言った類のものが出てきたら、中身はみずにそっと封印するか捨てるかしている。

ただ、怖いものみたさというか、昔の自分がどういうことを考えていたのかが知りたくて、つい読んでしまうこともある。
大抵は後悔することになるのだけれども。

しかし、この、昔の文章を読んだときの羞恥はどうして起こるのか?

普通に考えれば、書いた当人が読んでいるわけだから、そこにズレが生じるはずはないのに。

ここで勘定に入れなければならないのは時間というファクターである。

昔の自分と過去の自分は違う。それは経験的にそうである。
私という存在は、時間と共に変化する。
それはそういうものだから仕方が無い。
しかし、今の自分の元となるのは昔の自分である。
過去に書いた文章を読んだ時、自分の中のある一部分がざわつく感じがするのはおそらくそのためである。

不気味の谷現象」という用語がある。
あるロボットを見たときに、そのロボットが人間とかけはなれているほど、その中に人は人間と類似した部分を見出し親近感を抱く。
しかし、その類似度がある一定のラインを超えた瞬間、今度は人間との相違点ばかりが目に付き、嫌悪感を抱くようになるという現象である。
うろ覚えだけど。

羞恥を感じる時は、これと逆のことが起こっているのではないかと思う。

すなわち、今の自分と余りにもかけ離れているのにも関わらず、これも確かに自分である、というその葛藤(?)が、羞恥をうみだすのではないだろうか。

つまり、恥ずかしさを覚えるというのは、それだけ成長したという証であるから、布団にねっころがり足をバタバタさせたりする必要はなく、喜べばいいのである。

で、冒頭に戻るが、残念なことにこの一週間で僕はあんまり成長しなかったらしい。                                               

ちょっとテンションおかしいぞこいつとは思ったけど。


いつかあの身悶える様な感情とともに、この記事を読める日が来るのを楽しみに待つ。