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寝楽起楽

最近は頑張って読書感想ブログにしてます。

『新編 普通をだれも教えてくれない』 鷲田清一 2010年

読書

久々に読書日記。

 

別に、更新していない期間中本を読んでいないわけでは無かったのだが、

なんとなく書くのが面倒で放っておいているうちに、読んだけども記事にしていない本が溜まってきて、更に億劫になり・・・というスパイラルに陥りそうになったので、

とりあえず一冊分。

 

 

新編 普通をだれも教えてくれない (ちくま学芸文庫)

新編 普通をだれも教えてくれない (ちくま学芸文庫)

 

 

この本は、鷲田清一さんの評論、というかエッセイというか、を何十篇かまとめたものである。

 

色々ネタが詰まっているので、何でもかけそうだが、特に気になったものをいくつか紹介することとする。

 

調理の外部化の話。前にどこかで読んだ気がする。

人間が生きるうえでの、生々しさを得られる様な過程がどんどん日常から消え去っている。

ゆえに、身体実感としての生が感知されず、生きる意味に迷う人が増えている。

 

哲学というのは、市井の生活の中に多くは存在するものである、という話。

これは前々から僕が漠然と感じていたことでもあるので、わりかしうれしかった。

だから、結局、生きてりゃ自然と分かるんだから、哲学なんて真面目にやらんでもよろしいのである。

 

ただ、難しくややこしく書いてある分、本当に分かったときにしかその意味は読み解けないだろうから、時がたつごとになんとなく読み返して、自分の成長を感じる、という楽しみ方はあるかもしれん。

 

 

教育の話。

いつだって、結局「子供」は「大人」の考える理想的子供像よりもはるかに現実的である。

なぜなら子供は大人の真似をする生き物だからである。

だから、子供の問題は、とりもなおさず、教育を設定した大人の問題なのである。

 

 

最後に、一番共感したものから引用していく。

 

 この春、大学一年生の授業で、脱線ついでに、私語族ではない無語族といわれる学生たちとちょっとぎこちないおしゃべりを始めたら、どきっとする言葉にふれた。

 きみらは、高校のときは一日も早く受験生活を終えて、大学に入ったらこんなことしたい、あんなことしたいと思っていただろうけれど、入ってみてどうだった?こうといかけたのだけれど、やはり無語。(中略)自分が高校生のとき、大学に入ったら、なんて考えることなく、「ずっとこのままだったらいいと思ってた」というのである。

 

さらに引用。これは村上龍の『ラブ&ポップ』という小説かららしい。

アンネの日記』のドキュメンタリーを見て、「怖くて、でも感動して、泣いた」「自由に外を歩けるって大変なことなんだ、とかいろいろ考えて心がグシャグシャだった」のに、次の日、バイトの前に「JJ」読んでたら、「心が既にツルンとして」「何かが、済んだ」ような感じになっている。「やりたいことや欲しいものは、そう思ったそのときに始めたり手に入れようと努力しないと必ずいつの間にか自分から消えてなくなる」・・・。

 

この二つ、ああ、そうだよなあ、と深く個人的には頷いたのであるが、どうであろうか。

特に後者は自分の悩みの種でもあった。

余りにも、進歩とか、前進とか、未来に向かって努力する意思にかけすぎているのではないかと。

しかし、鷲田さんが肯定的な言葉(月は隈なきをのみ見るものかは。花は散り際がよし、というような、ご先祖様たちの感覚に近い、乙なものである)で書いてくださっているのに、それなりに救われたように思う。

 

しかし、ここで特筆すべきは、この『いまが消えてゆく」と題されたエッセイが書かれたのは、1997年ということである。

 

今から17年も前の、少年少女の空気に共感できる、というのは、平成がそれだけ薄っぺらく、変化をしないで進んできたことを意味する。

 

そして、その、「変わらない」「進歩をなるべくしない」というあり方は、まさしく、当時の子供達が望んだことであるのは、見た通りだ。

 

そして、子供の問題、というのはそのまま大人の問題でもある、とするならば、この空気はとりもなおさず時代の空気であった、と推測でき、つまりそれだけ、時代時代の雰囲気というのは、影響力を持つものなのである。

 

いつだって日本人を動かしているのは、この「場の空気」なのだ。

 

なんだか支離滅裂な感じになったが、書いているのが夜なので許してほしい。

他にも卓見が数多く書かれた良書なので、興味ある方は是非読むと良いと思う。