寝楽起楽

ネタばれには配慮しない、感想/紹介ブログです。毎週1回更新 +α を目指したかった。

翻訳物の違和感について

翻訳小説には、どこか手を出しづらいものがある。

 

翻訳を読むくらいなら原文を読みたいな、と思ったりもするのだが、それが実行に移せるほどの語学力も時間も無いので、結局村上春樹などの訳で読むのだけれども、やっぱり、どこか物足りない。

 

翻訳と、国産物(という呼称が正しいかは分からないが)と原著には、僕の中では決定的な隔たりがある。

 

翻訳を読む時に、その内容に心が動くことはあれども、文体や、リズムや、ちょっとした言い回しといった、その作者の個性がもっとも活きてくる部分に感動することが殆どないのである。

 

それらは大抵訳者の手によってラッピングされてしまっていて、お行儀良くなっていてしまい、作者がそれを書いた時に其処に託した勢いがこそぎ落されている。

 

その分だけ、本の魅力というものは減じてしまうし、翻訳物を読んでいる時には、どこか上滑りしてしまうのも、そのせいだと思う。

 

たまに、訳者が原著を自分の中で消化しきって、生き生きと物語を描けている本がある。そういうものはとても面白く読めるのだけれど、そこにあるのはあくまでその訳者にとってのその本であり、その本そのものではないのである。当然のことだけど。

 

別に、だからどうという話でも無いのだけれども、何と無く悲しいなあ、と思ったので書いた。

 

何と無く文章がすかしている(ラッピング、のとことか特に)のは、さっきまで村上春樹訳を読んでいたせいであるので、おきになさらず。