思い返してみるに、僕が畏れ敬する相手は自分をしっかり持っている人が多かった。
僕は自分をさらすということがどうにも苦手である(とかいいながらこんなの書いてるのは矛盾だけれども、書くのは何故かおっけー)。
母の述懐するところによれば、僕は生まれてきた時、こんな怖い場所からは消えてなくなりたい、というような顔をしていたらしい。
気がついたら居なくなっていそうで、目が離せなかったというから中々大変だったろうと思う。
恐らくその一番最初の、「この世界は怖いところだ」という印象が刷り込まれているせいで、世間に対しバリアをあらかじめ張ってしまう癖がある。自分を出すにはその壁を一枚一枚剥がさなければいけないのだが、どうにも難儀だ。
内田樹先生にはまったのも、あの人の「中心にある自己なんて存在しない」という論が目から鱗であり、これを体得することができれば諸々が解決するかも、と思ったのがきっかけだった気がする(哲学とか思想とかは自分にとってどれだけ切実であるかで向き不向きが決まると最近感じる)。先生の本を買ったりブログをさかのぼって詠みまくったりしたのも、彼の思考方法を身につけられないかと思ったからだ。
高校の時に出来るだけ、我なんてないと思い込もうとひっそりと頑張ってたのだけれども、残念ながら僕は不器用であるので、昔から染み付いたものを取っ払うことが出来なかった。
少なくとも僕にとって、身体実感は思想よりも上だった。
だとするならば、タイトルどおりまず自分が居る、というところから始めるしかない。とようやく諦めがついた。
最近はこんなことをずっと考えていたという話です。では。