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寝楽起楽

最近は頑張って読書感想ブログにしてます。

勉強しない子をいかに机に向かわせるか

  自分の知っていることは全て常識であり、自分の見ているものは全て他人も見ていると思っている人を、一般に馬鹿と呼ぶ。そして僕も立派に馬鹿の一員である。

  塾のバイトを始めて一番衝撃だったのは、当然こちらが出来るだろうと思ったことをできない生徒が結構多いということだった。
それが僕よりも(僕よりも!)コミュ力に劣るとかなら話は分かりやすいのだけれど、往々にして彼ら彼女らは会話してみるとすげー賢かったのである。

  これは別に考えてみると何のことはなくて、僕は此処までの人生を勉強がまあまあ乃至かなり出来る人たちが周りにいる世界に生きており、世の多くの人はそうではない、という話に帰結する。

  人が勉強をしなければならないと思う時、その大体の原因は自分の帰属している集団から著しく知識•知力が乖離していることに気づいたからである。
自分は無知である、ということを自覚していない人は永遠に学ぶことはできない。

   そのうえで自分の所属場所をどこに置き、どこまで広げていくかによって学びの上限とでもいうべきものが決まる。
「よくつるんでる奴ら」の間か、「クラスの上位集団」の間か、「全国の同学年」、はたまた「昔同じ年齢だった人達」まで。
その中で平均にいれば、少なくともその人はその人にとっての標準の位置にいる、という安心感を得ることが出来、特別な向上心がない限りは其処に居着いてしまうのである。

  世の大人たちは往々にして子どもに対し、若いうちに勉強しといた方がいいよ、と語り聞かせるが、それに子どもが必ずと言っていいほど耳を傾けないのは、帰属している集団が違うからである(ここ若いうちに〜の枕にはしばしば今になって後悔してるんだけど、などの言葉が入るが、それは「かつて同年代だった人」も勉強していなかったという机に向かわない免罪符を与えることになってしまうので、オススメできない。未来において、過去勉強しなかった自分を後悔している自分を想像できないがゆえに子どもは子どもなのである。ブーメラン)。


  だからまず生徒や子どもに勉強をさせるには、君は真に帰属するべき場所におらず、それゆえに多くの知るべきことを知らず、そしてそれは致命的なことなんだよ、と伝えてあげることが大事だと思う。

 
そしてその言葉はその子が知らないことを知っており、そのお陰でその子の見ることができない世界を見ている人から告げられるべきだ。もしそうでないにしても、そういうフリは出来なければならない。そうして始めてその子は自分の視界の欠乏に気づけるのだ。
学びへの欲望を駆動させること、それだけが指導者の仕事である。話す度に無知を自覚させられ、遥かに高い視座から同じステージに来られるように手を差し伸べてくる人こそが真の教師ではなかろうか。