本名見田宗介。若くして東大の助教授になった後のメキシコ留学で「近代の後の時代」について深い知見を得た。この本はその最初期の若く荒い構想を世に表明したもので、
文化人類学者カスタネダの、呪術師ドン・ファンとのエピソードに多く紙数を割きつつ、これを中心に比較社会学の観点から近代合理主義を自明のものとする空気に疑問を投げかける。
たまたま視覚とか聴覚のような、客観的に測定しうる感覚の量的な退廃のみは、たとえば十五分後には機音がわれわれにも聞こえてくるとか、いくつもの丘のむこうを事実走行したトラックの記録とかいう、固陋な近代理性にとっても否応のないデータを通して、われわれの感覚の欠落部分を外的に立証してみせてくれる。
けれどもそれは、雨あられと降る文明の土砂のかなたに圧殺され、近代理性の流れるようなハイウェイの舗装の下に窒息する多くの感性と理性の次元の、小さな露頭にすぎないかもしれないのである。(p.16-17)
この序盤の文章でもうやられてしまい、後は流れるようにずーっと読み進めてしまった。
読みどころはやはし不可思議(に僕らからは見えてしまう)ドンファンの言葉の数々。
「死は人間みたいなものじゃない。むしろひとつの存在だ。」「わしは人といるとくつろぐ、だからわしにとっては、死は人だ。わしは自分を神秘に捧げる。だから死はうつろな目だ。それを通してみることが出来る。」「戦士が自分の死を見る味方は個人の問題だ。それはなんにでもなる奪取―鳥にも、光にも、人間にも、潅木にも、小石にも、霧にも、道の存在にも。」
カスタネダはすっかり混乱してしまう。(p.61)
この文章自体にわくわくするし、どう説明してくれるのかも凄く楽しみで、ページをめくる手を止められなかった。
合理主義は必然的に「成果」を求め、それは究極的に全ての人類を「死」という結果に帰結することになる、というところから、生きている今に対するいとおしさ、かけがえのなさに人は拠るべきである、という筆者の論調そのもの(こんな一言で収まるようなもんでもないので、具体的に知りたい人は本読んでください)は全く一般的でも、論理的なものではない。しかしそれも考えてみれば、合理主義とは別の立場から書かれている本が、合理主義者からみて理論立ってないのは当然のことなのかもしれない。
確かにここには近代の諸問題に対する一つの解答が示されているように思わせる、何かが書かれているように思う。「人生って(=現代って)なんかつまんねーなー」と最近思っている人が読むと良いかも知れない。