一人学際という考え方を最近知った。
学際というのはそもそも、様々な学問から専門家を集めて、ある一つの問題に対して有機的・総合的に取り組むことで、一人学際とはそれを個人の中で完結させるものであるらしい。
難しく考えんでも、「あの時先生が言ってたあれって、もしかしてこれじゃない?」みたいな、昔のことがふと今に繋がってくるようなことは日常レベルで皆覚えがあると思う。
ただこれの難しいのは、その発見は自分の中での直感的な繋がりに過ぎず、言葉にしても他人からあんまり理解されない、ということが往々にしてあることだ。
僕は柔道を一生懸命練習してたら自然と数学が出来るようになった、という人の話を聞いたことがある。まじで意味わかんなかった。
他人に理解されないのは、「論理的」な文章になってないからだ、という指摘は非常によく聴かれる。
入試の現代文はそのすべてが客観的な視点から答えなければならない。
日本人としてある程度の同質性がこれまで保たれていた僕らは、グローバル化の波に飲まれている昨今にあって、まったく異質な他者と対話するために、論理力をより磨いていかなければならない、のかもしれない。
けど、ほんとにそれで良いのかと個人的には少し思ってしまう。
『学習の生態学』という非常に面白い本があって、その中で、ドレイファスの学習の五段階という概念が紹介されている。
簡単に説明すると、
(1)初心者→決まったことしか出来ない(将棋でいう、駒の動かし方を覚えた状態)
(2)中級者→場面場面での対応は可能(部分定跡(棒銀の受け方とか)は覚えた)
(3)上級者→全体を見れるようにはなった(全て定跡を意味は分からず丸暗記した)
(4)熟練者→全体を分析的に対処可能(定跡の意味を全部知ってるし、経験もある)
(5)達人→全部経験(全ての場面を無意識的的に対処できる)
この論の面白いのは、(5)のモデルは一番上なので、教えるのも上手いのかと思いきや、全部直感で処理しちゃうので、むしろ(4)の人のほうが指導は上手だとしているところ。
(5)の人に教えさそうとすると、「ここでこの機械を使う」と口では言いながら全然別のものを操作しはじめたり、参照するといったパラメータを実際には見向きもしなかったり、といったことが平気で起こるらしい。
(5)の人は先達から教わったやり方は全部覚えているんだけど、それを元にして自分の経験を積み重ねてきて、優先されるのは後者のほう、ということがそこから分かる。
スポーツ漫画とかの中に、「データは裏切らない」(メガネくいっ)みたいなキャラは必ず一人いる。
けど、彼等が何故そんなにデータにこだわるかというと、「データは裏切らない」「から好き」っていう、きわめて主観的な気持ちが入ってるからだと思う。
この文章は思いついたことを適当に書き散らかしている。
これこそ「一人学際」の民間実践だよな、とか考えたりもするが、そもそもが普通何も意識せずに人に文章を書かせるととっちらかったものになるのは当たり前の話で、人間は主観で物を考えるからだ。
榎本俊二の『ムーたち』で、「セカンド自分」「サード自分」という、「自分を客観視する自分を客観視する自分」を作り上げる話があるけれども、サードまでいっても自分から、主観から逃れることは出来ない。
僕はずっと塾でバイトしていて、生徒に現代文を教えたりする。
そん時は必ず、「論理的に、客観的に書かないと駄目だよ」って話をするわけだけど、言いながらでも何か変だよなといつも感じている。
論理教育を推し進めて、「筋道立ってればいい」がまかり通ってしまうと一番問題なのは、自分の論理が唯一の正解のように思ってしまうことだと思う。
そうすると、自分とは違う論理の人々は間違いであるから、正さないと、という過激派が産まれ、血で血を洗う論争が巻き起こることになる。
どんなに客観的に様々なデータを引っ張って説明しようとしても、先行するものたちのどれを信用するか、という部分が既にして主観であるわけである。
そのへんの、自分の論理をどれだけ自分で信じようとしないかが、いい学者かどうかの分かれ道なんて話あるけどこれは完全に蛇足ですね。
別に客観論理それ自体が駄目だと否定するわけではない。
完全な客観への志向を土台として今の時代が作られていることは疑いようがないと思う。
でも、なんつうか、せっかく「完全な客観」はちょっと難しいんじゃない?という流れがあるわけだから、もうちょっと主観を大事にする路線になっても良いんじゃなかろうか。主に学問界隈。
と、いう結論が既にして非常に主観的なのが、なんとも面白いよなぁとかぼんやり思ったりする。
もっと主観的で感情的でゆえに支離滅裂な文体で書いたら楽しかった気がするけど、書いてみたらこんなんなった。
今回は以上です。