寝楽起楽

最近は頑張って読書感想ブログにしてます。

          読んだもの、見たもの、調べたこと、考えたことについて書くブログ          

日常のための哲学/その学習について

「左」「右」は辞書編集者泣かせの言葉である、というのは使い古されすぎた話である。

 

 

西を向いた時の北、辞書の奇数ページがある方、という二通りの説明がよく成され、苦心の跡が窺えるところであるが、私の父は哲学もこれと同じようなもんだ、と言った。

 

 

いわく、哲学はあまりにも皆が自明のものとして了解しすぎ、もはや言語化不可能なものを対象として扱っている、一般的に哲学書は難解な言い回しのパレードとして知られているけども、それはつまり、「右」よりもはるかに簡単なある物事を、どうにか言葉に直そうとしたその結果なのだと。

 

 

これは中々、へーって思った。

実際、哲学書の原著に当たってみると、使われている語彙の中に、他の学問ならば専門用語を作るところを、日常の語彙(顔とか)で代用していることが多いらしい。日常での、実践のための哲学。

 

 

哲学とかの大きな強みでもあり弱みでもあるところは、普通に生きている誰しもがふとした拍子に問いを設定しうることだ。

例えば、黄瀬戸の成立時期について全員が全員頭を悩ませている世界というのを想像するのは難しい。

だが生きてるってなんだろね〜とかそうしたことを皆が考えている世界を想像するのはめちゃくちゃ簡単で、なぜならそれは現実のそれとほとんど近しいからだと思う。

 

 

また同時に、哲学が日常だとするのならば、その問いは全てが設定者にとっては瑞々しく、切実なものになりうる。これはほんとにずるい。

 

 

例えば黄瀬戸について(度々例に出してごめん)、自分の全存在をかけて探求しようとする人はそうそういない。

だが哲学についてそうする人は割とたくさん見かける。何故ならそれがその人にとっての日常であり生きることであるからだ。というか、自覚的か無意識かの違いがあるだけで、我々は皆哲学的な世の中を生きている、とすら言えるかもしれない。

こういう、○○は全てを内包している!みたいな提言ってあんまり好きくないんだけど、実際そんな風なんだからまあ仕方ない。

 

 

欠点にもなりえてしまうのはどこかというと、全員が哲学できてしまうというのは同時に、専門性がなくなるということでもあるからだ。

 

 

永井均だか誰だかが、入学当初は自分だけの疑問を胸に抱えていたはずの大学生たちが、専門で学んでいくにつれ、表面的な用語理解で騙くらかして、むしろそれを遠ざけ手放していってしまうことを嘆き、哲学なんて学ぶな!と何かの本でキレていた覚えがある。

 

 

学ぶにつれて出来なくなる学問、というのは設定としてめちゃくちゃ面白い。

 

 

哲学の先生達は、自分の分野について「わかんない」と言うことに対し躊躇がない、という話もあるが、先に引いた学生の態度とはまた全然次元が異なるものだろう。

「わかんない」けど「わかる」、みたいな感じなんではないかと想像してるが、うーん、「わかんない」ね。

 

 

なんか適当に書いてたらいい感じ風にオチがついたので、ここで終わります。