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最近は頑張って読書感想ブログにしてます。

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種を明かす:『イリュージョニスト』 シルヴァン•ショメ監督 2011年

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「ぼくのおじさん」で有名なジャック・タチの脚本がアニメ化。

 

 

 


 

〇あらすじ

 手品師の男が田舎で少女に芸見せたらそのまま都会までついてきちゃってどうしよう

 

〇考察・感想

 考えたい問題としては2点あって、一つ目は「なんで手品師は少女の許から姿を消したのか?」です。

 

 少女はずっと手品師の芸を魔法だと信じてるんですね。んで、言葉が通じないから、ほんとは手品だよってことも言えずに、手品師は少女の無邪気に求めるがままにたくさんのものを魔法で(ほんとは購入して)与えていく。

 

 その結果、少女は垢ぬけた一人の都会の女の子になります。ヒールを履いてつまずくことも、都会の子に気後れして道を譲ることももうありません。んで、最終的には、一人の都会の男と恋に落ちることになります。

 

 手品師にとってそれは非常にショックなことだった。女の子が幸せそーに男と歩いているのを見た彼は、自分の商売の種である手品を捨て、相棒のうさぎを野に放し、一人去っていきます。置手紙として残した、「魔法使いは存在しない!」の殴り書きからは、彼の思いのたけが感じられてなんとも切ない。

 

 ただこの、去っていく動機がちょっと視聴時には不明瞭に思えました。父と娘ぐらいに年齢が離れているし、少女に恋をしていた、という話ととるのは描写的には無理があります。

 

 で、いろいろ考えて、手品師的には、少女を自分の種のある手品で、こんな都会にまで連れてきてしまった責任感があったのだろうと。金を捻出するために、洗車のバイトにまで手を出そうとする尽くしっぷりだし。

 

 それが都会の男が出てきて、彼が面倒を見ずとも少女が生きていけそうな目途がついた。もう魔法をかけ続けなくともよくなった、だから彼は魔法の元である手品を捨て、あえて少女に手紙で種を明かすことで(英語を少女が読めるのかはわからないですが)、一人の女性としての独り立ちをさせるわけですな。

 

だから女の子の視点でずっと見ていけば、これはサクセスストーリーになります。ただ映画自体が手品師に寄り添って描かれているせいで、視聴者的には彼が報われなさ過ぎてめちゃつらい。かわいそすぎる。もうちょっとなんとかならなかったのか、というところで二つ目の話につながります。

 

 物語中、一貫して示唆されるのは、手品師をはじめとする大道芸人たちが凋落していくことです。ロックバンドは千客万来な一方で、手品師の講演には閑古鳥が鳴きます。同じホテルに住んでいた腹話術師は、物語終盤では酒におぼれた物乞いになり、商売道具であり、一緒にご飯を食べるほど仲良しだった人形は質屋に出されます。それも、最終的には無料で。

 

 物語の出だしは、映画『イリュージョニスト』が映画中で開演するところから始まります。では終わりがどうかというと、街の明かりが一つ一つ、少女との思い出の場所を順々にたどりながら消えていき、最終的に手品師が講演していた劇場にたどり着きます。

 

最後に残った明かりは劇場の看板。それも消える、と思ったときに、一番はじっこの光がふわっと浮き上がる。多分ホタルか何かだったんでしょうが、見ている側には、それが飛び立つまでそうとはわからなかった。つまり、一種の手品をそこで見せられているわけです。

 

 考えてみると、映画というのは、初めから種が分かっている手品のようなものということもできます。2時間程度で終わる作り話、そうと了解した上で、私たちは映画を楽しみます。

もし全部が全部本当のことだと思ってしまう人がいたら、映画なんてとてもじゃないけど見てらんないでしょう。

 

劇場というのは、現代では映画を見る場所でもあります。つまりタチさん、ひいてはショメは、我々自身がこの手品師である、と言いたかったのではないかと。

もし少女のように、無邪気に物語だけをねだるような存在に甘んじ続ければ、私たちは去ってしまうぞ、そんな警告だと自分は読み取りました。

 

 まあ監督インタビューで、「視聴者がいろいろなことを想像できるように、物語にはあえて余白を残した」と言っている通り、様々な解釈の余地があると思います。

 映画の表現自体もすごく面白いです。定点カメラが頻繁に使用されるんですが、その分僕ら視聴者の視線はそこにいる登場人物の動きに集中することをしっかり把握していて、一人ひとりの動きがめちゃくちゃ丁寧。

 

 見て損はない映画だと思うんで、よろしければぜひ一度どうぞ。以上。