寝楽起楽

最近は頑張って読書感想ブログにしてます。

                ネタバレには配慮しない感想ブログです。          

女性のためのファンタジー?:『ゲド戦記4 帰還』 アーシュラ・ル=グウィン 清水真砂子訳 2006年

「つまり、男は皮をかぶってるんじゃないかと。かたい殻を被ったクルミみたいに。」コケは言いながら、ぬれた、長い、曲がった指でクルミをつまみあげるしぐさをした。「まったくこの殻は固くて、丈夫で、中は男がいっぱい。すごい男の肉がびっしり。どこをとっても、男、男。でも、それだけ。あるのはそれだけ。中身は男だけ、ほかにはなんにもない」

(中略)「じゃあ、女は?」

「そりゃ、おかみさん、女はまるっきりちがいますわな。女というものがどこで始まって、どこで終わるか、それがわかってる者がどこにいます?いいですかね、おかみさん、このわしも根を持っている。その根はこの島より深く、大地が持ちあげられたときよりもっと昔にさかのぼり、ついには闇の世界に帰っていく」

(本著p85-86)

 

 

帰還 ゲド戦記 (岩波少年文庫)

帰還 ゲド戦記 (岩波少年文庫)

 

さーわかんないぞー。

 

〇あらすじ

 力を全く失ったゲドがおばさんになったテナー(『壊れた腕環』で助けた女の子』)の元に帰っていく

 

 

〇考察・感想

 『さいはての島へ』から18年の歳月を置かれて書かれた本作は、それまでとはかなり味が異なり、一転してテナーの目線からのいわゆるフェミニズム、なのか?が濃厚。

 

 前3部作は「ゲドかっけぇ、アースシー楽しそう」なんていうぐらいな気持ちで読み進めていくことが可能。なだけに、あのゲドがただの傷ついたおっさんになり、あのテナーがおばさんになり、というのは衝撃的で、実際賛否両論あるみたい。

 

 とりあえずテナーがすげーいろんなもの(ゲドにも権力者にも自分にも)に対して切れてて、それは作者の現実に対する意見が反映されているんだろうが、それ以上の理解が僕には追い付かなかいです。

 

 映画『ゆれる』を前に見たとき、自分は次男なのでオダギリジョーに感情移入しまくり、反面長男の香川照之の心情がさっぱり理解できないことがあって、僕の立ち位置をはっきりと自覚したことがあった。

 

 今作も、「理解できない」という形で、強制的に自分の場所を意識させられた。

ただ「フェミニズム文学なんだね」でただ片づけてしまうのは折角の読書をドブに捨てる行為なので、もうちょいじっくり本作について今後考えていきたいと感じます。

 

 本作品に対する多分男性の意見として、「ゲド戦記アースシーという舞台でやる必要性を感じない」というようなものをみたが、むしろ逆に「あえて作者が他作品ではなくゲド戦記でこれを書いた意図は何なのか?」ということを考えたほうが身になるかと。

 

 

 今回作品については全然何もいえないので、せめてものあがきとして。ベクデル・テストというものを皆さん知っているだろうか?

 

 創作物において、どれほどのジェンダーバイアスがかかっているかどうかを判定するためのテストのことで、その判断基準の中心は以下のたったの3つ。

 

1.少なくとも2名、女性が出てくる。
2.互いに会話をする。
3.話題は男性以外のものである。

 

  これ満たす作品、どれだけあります?なんやかんや言われても、確かに男性偏重の世の中ではあるのかも。

 

   ちなみにこのテストは、カクヨムで活動されている浅原ナオトさんの紹介で知りました。

 

   ナオトさんの代表作であるこれ↓は、自分にとって性にまつわる問題を考えるきっかけです。

 

kakuyomu.jp

 

  これは女性じゃなくBLの話ですが。

 

   web小説ってほんとにこれ無料で良いんですか?て思うようなもんがごろごろあるんですよね。web小説タグを作ってその辺も紹介していきたいなあ。

 

 

  

 

 

 

〇印象に残ったシーン

 ゲドの師匠、オジオンが死ぬところ。

 テナーは宵闇のなかに死者としばらくすわっていた。牧場のむこうにカンテラの灯がホタルのように光っていた。テナーはテルーの持ってきてくれた毛布をオジオンと自分の両方の上にひろげていたが、オジオンの手を握る彼女の手はまるで石ころでも握っているように、だんだん冷たくなっていった。テナーはもう一度オジオンの手に額を押しあてると、立ち上がった。からだが言うことをきかず、目眩もして、自分のからだではないようだった。やがてテナーは人を迎えにおりていった。カンテラの灯が誰のであろうと、ここまで案内しなければならなかった。

 その晩、村人たちはオジオンの傍らで通夜をした。もうオジオンは村人を追い返しはしなかった。

(p40-41)

  死んでしまっても居なくなるわけではない、というのを最後の一文が端的に表しているようで、ちょっとハッとした。