読んでみっか!という気分になり、11月版の「短歌研究と」「歌壇」をパラパラめくってみたところ、なんとなく短歌がどういう性質のものなのか分かった気になれた。
ということで、短歌と詩と小説のそれぞれの特徴を整理してみようというのが今回の記事です。
◯短歌
最近は少しゆるくなっているものの、短歌はその全てが三十一文字の制限、定型を意識して作られると言って過言ではないと思う。
形式が定まっていると方向性も似通うのか、あるいは文字数の少なさが原因なのかはわからないが、わかりやすいテーマ(恋愛とか)が選ばれる傾向が強い。
そのため短歌は、その日常経験の「わかりみの深さ・軽妙さ」といったところで勝負している、というのが大きな特徴として挙げられるのではなかろうか。
逆に言うとこれは、深い読み込みをしない限りは全部同じに感じてしまう、ということでもあり、個人的に短歌系の本を読んだ時に驚いたのは、一句一句全てにちゃんとコメントが付けられていることだった。
また上に付随する要素として、個人的経験が詠まれることが多いために、作者の顔が非常に見えやすく、かっこつけた言い方をすれば、自我を離れることが難しい、ということも挙げられるのではなかろうか。
◯詩
てことで今度は詩のお話。
ゆーて詩は全く詳しくなく、教科書に載ってた奴(おれは カマキリだぜ、だのいるかいるかいないかいないか、だのわたしがからだを揺すっても鈴の音はしない、だの、懐かしい)+αぐらいの知識しかないので、まず谷川俊太郎×DECO*27対談 「詩はいつでも歌に憧れてる」 - インタビュー : CINRA.NET
この記事に頼った。谷川さんの言うことならきっと間違いはなかろう。それ違くね?ともし読んで思われてもそれは僕のせいではなく谷川さんのせいです。
要約すると、
・小説は論理、詩は曖昧でOK
・詩は何しても良い
・自分の名前が消えて、詩だけが伝わっていくことが理想
というようなことを言ってる。まあ確かに、こうでなくちゃ詩じゃねえ!みたいな人って詩界だとあんま想像つかない。
自我、という観点で言えば、そっから離れることも詩は割に容易そう、というのも中々面白そうなとこではある。
ただ自分が唯一歌集も持ってる吉野弘さんという方の詩は、寧ろ土に根ざした俺、みたいなとこが出てて、「わたし」から離れた詩っていうもんのサンプルが手元にないため、書けることがない。
◯小説
んで小説。
小説で一個面白いよなあと思ってるのは、作者が自分が何書くかを分からず、その分からないとこを出発点として書いてることが非常に多いこと。
短歌と詩はそれそのものはわからなくとも、少なくともこれと決まった部分が存在はする、というところは伝えやすい形式だと思う。一方で小説は文を繋げているうちにそこがぼやけやすく、しかもそれを決めてなくても書けちゃう。更にはそれが決まんないまま終わってる小説まである。
谷川さんは小説は論理、とおっしゃってるけれども、それは作り方の話であって、テーマについてはむしろ小説のほうが詩よりも掴み所がないことが多いんではないか。まーでも詩を知らねえからなあ。なんともかんとも。
あとまあ他二つでも触れたので自我については、村上春樹が言い出しっぺなのかな、自分とは別の何か(うなぎ)と相談しながら書いてる、ていうのが結構よく小説では言われてて、完全に離れられはしないけど、ちょっとは離れないとしんどい、というのが小説の立ち位置という理解をしている。
無論、一口に短歌詩小説いうてもその中での振れ幅は膨大にあるので、全部についてこれは当てはまらんと思うが、何となく僕が好きな範囲としては、これが割りに当てはまるかなということで、私論として取り敢えず収めておく。
以上。