人間だけではなくて、言語にもからだがある、と言う時、わたしは一番、興奮を覚える。日本語にも、たとえば、文章のからだ、「文体」という言葉がある。文章はある意味を伝達するだけではなく、からだがあり、からだには、体温や姿勢や病気や癖や個性がある。
(本著p197)
すごくすごく面白かった。
◯内容要約
母語の外にでた状態一般を指す、エクソフォニーという言葉を手始めに、ドイツ語と日本語の両方で著作を行う筆者が、エッセイ形式で言葉についての洞察を行う。
◯感想・考察
ここまでのお話を、しかも意識的にではなくあくまでも自然に感じている状態として書けてしまう多和田さんにはもう平伏すしかない。
言われてみれば!が大量にありすぎて、ちょっと追っつかない感があった。
前も書いた気もするけど、高校ん時に現文の授業で、日本語で何でも名付けた世界に居る以上、自分らはその檻に閉じこめられてるし、それは他言語をやったところで結局変わらない、というようなことを教わり、ちょっぴり絶望した思い出があり、今でもちょくちょくその事を思い返したりする。
檻という言葉を聞くと、自分はジメジメとした地下で、蠟燭の灯りが影を肥大化してみせて、苔がタイルの隙間からそこかしこにのぞいてたりして、水の垂れる音がどこからともなく聞こえて来る、みたいな牢獄然としたイメージ(これは恐らく、クロノ・トリガーのマールを誘拐した罪で投獄されるあの場所を大分引きずってる)を持つ。
なんだけど多和田さんは、確かに檻は檻として存在するんだけど、その隙間から入ってくる清涼な風を一身に感じられるような非常に通りの良い檻を持ってらっしゃるっぽくて、かつ其処から檻の外に対して、きちんと中で響かせた言葉を投げかけてる、その在りようが素晴らしいと思った。
日本語で書いている人は、日本語しかできないという消極的な理由ではなく、その言葉を選んで書いてるんだということをもっと自覚しないといけない、て部分と、書き言葉であっても其処にはちゃんと特有のなまりが出て来る、て話が面白い。
読書記録とか日記みたいなもんは挑戦挫折を繰り返してきたが、結構前はその直前まで読んでたものに露骨に文が引きずられたりしてた記憶がある。
それを踏まえて考えてみると、最近はまあまあ安定してるような気もしなくはないがしかし、「これが俺の訛りだッッ」と思って前の文を読んだりすると、もうちょっとどうにかならんものかなあと思ったりもする。
でもまあ、訛りってそういうもんかもしれん。
以上。