寝楽起楽

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明けまして

 浅原ナオトさんの『彼女が好きなものはホモであって僕ではない』書籍化決定!

 

 

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 めでたいめでたいと一人で喜んでいたのですが、ふと自分のことでもないのにうれしいのは何故?という疑問が湧いたので、今回はそこから考えたことについて書きます。

 

 まず一歩踏みこむと、そこにあるのは「自分の好きなものが世の中からちゃんと評価される喜び」です。自分はどこかしら、俺が好きなら他の皆も当然好きになるだろ、と思いこんでる節があって、だから全人類が読書始めりゃいいのにといつも思ってます。

ただこれは自分が嫌いなものについては当てはまらないことのほうがむしろ多くて、自分の嫌いなものが他の人にとっては良いものであっても、好みは人それぞれだと納得出来てしまう。

だから逆も然りかというとそれはそんなことはなく、自分の好きな作品等が貶されてると結構悲しい。この違いは果たしてどこから来るんでしょうか?

「好きなもの」という言葉には、暗黙のうちに「自分が自身の世界の一部にしている/したいと思っているもの」という意味が含まれているような気がします。

「何が嫌いかより、何が好きかで自分を語れよ」というネットで一時期はやった漫画の台詞にあるように、「嫌い」というのも自分の世界を為す構成要素ではありますが、しかしその事実からは、私(我々?)は目を背けがちです。

誰だって「嫌いなもの」を自分の一部とは認めたくはなく、むしろ視界から消えてくれたほうがましだと思うでしょう。翻って「好きなもの」のほうは、むしろ積極的に摂取していきたいと思うはずで、私は実際こんな感じです。

 

 で、私は上で述べたように、全人類が当然私の好きなものは好きだろう、と考えています。これは私が、私の世界をある種普遍絶対のものとして見なしている証左です。

好きなものが世の中から評価されるとうれしいのは、その絶対性、私の正しさが一つ証明された喜びとリンクしているのではないでしょうか。また同時にそれらが貶されると悲しいのは、その絶対性が揺らぐからだと思います。

 <遠い隔絶した他者>みたいな表現を本読んでると見かけることがあるのですが、私はこの言葉を、<遠い>という言葉に文字通り引っ張られ、完全に私の世界からは外れたものと観念してしまいがちです。

 しかし本当は、<遠い他者>は距離的には非常に近い、私が私の世界だと見なしているものの中に居るのかもしれません。

 

 

 『彼女が好きなものはホモであって僕ではない』は、そんな<他者>との交流が一つ大きなテーマでもあります。

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 皆さんまずはこのweb版を読みましょう。次に書籍を買いましょう。そして今更ですが明けましておめでとうございます。

 

以上。