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母国語に潜む嘘:『ことばと国家』 田中克彦著 岩波新書 1981年

 私はここに報じられたゲンダーヌさんの行動はもちろんのこと、また、それを支持して、ひろく世に知らせるために記事にした、この文章の書き手にも共感する。(…)それだけに、「ゲンダーヌさんの母国語」にはめまいを感じるほどの当惑をおぼえたのである。

 ゲンダーヌさんは北川源太郎という日本名の持ち主であるから、たぶん日本国籍の人であろう。だとすれば、ゲンダーヌさんの母国は日本で、その母国のことばは日本語であるから、オロッコ語のことを母国語といってしまってはまずいのである。ゲンダーヌさんのことばは、この「母国語」とはするどく対立するところの非母国語、非国語であるからこそ、ここにその訴えを報じる意義があったのではなかったか。(…)すなわち、ことばはすべて国語であると考える日本人の考え方に根深く宿っているこの盲点こそは、この記事がまさに指摘してきた、「日本を単一民族国家としてきた日本人の意識」をありのままに示しているのである。

(p43)

 

 1981年に書かれたこの本の時代から三十年余りを経て、我々はどれだけ成長できただろうか?

 

ことばと国家 (岩波新書)

ことばと国家 (岩波新書)

 

 

〇内容要約

 「俗語は文語のくずれ」なのではなく、俗語こそが文語の大本となるものであり、また文法に依拠した書きことばはすべて、その性質上不自然なものである。「国語」という概念もまた、ことばそのものの本質からは外れたものであるが、しかし近代はもはや政治の概念をなくしては、言語について語ることは出来ない。筆者はこの前提に立ったうえで、「俗語」を称揚し、その発展を促す。

 

〇感想・考察

 私の実感では、「日本は単一民族国家ではない」という言説は、ある程度は世の中に浸透できているように思う。しかし一方で、「ことば」というものについては、十分に理解が進められているとはいいがたい。

 

我々が普段一般的に耳にするのは「東京弁」とでもいうべきものに過ぎない、というところまでは知っているかもしれない。では「俗語」と「国語」の違いは?「方言」と「標準語」の違いは?と聞かれていくと、答えに窮する人も多いのではないだろうか。

 

 本書はそうした疑問を解消し、「国語」というものは政治の中で生み出されてきたものにすぎないという事実を、ヨーロッパの歴史から辿りつつ明らかにしてみせる。

またそれは同時に、私たちが立脚しているこの「日本語」という言語の影を暴き、さらにはことばそのもののあり方についての議論にも繋がっていく。

 

 私が本著を読みながら思い出したのは、「Lang-8」というサイトでのある経験であった。

 

 これは様々な外国人たちと、お互いがお互いの学びたい言語で文章を書き、添削をしあうことで言語習得を目指すことを目的としたサイトである。

 元々は英語学習のために登録したものであったが、何分無精のため当の目的は忘れ、むしろ興味深かったのは外国人の日本語を添削することであった。

 

 ある時私が出会った文章は、旅行先で出会った日本人の友人に対しお礼を言うためにかかれたものだった。何気なく読んだそれは、ひらがなばかりでしかも脱字も多く、到底「正しい」日本語とは言えないものだったが、衝撃を受けたのは、その中に唐突に、「薫風のみぎり」という単語が差しこまれていたことである。

 

 5月最終週の時候の挨拶に使われるものであるらしかったが、寡聞にしてこの単語を知らず、そしてまたこれが入っていることによって、私は全体の文章に不思議なおかしみが生まれているような思いに襲われた。以来私は添削するのを辞めた。「文章を正しくすること」に対し、疑念が湧いたからである。

 

 例えば私は今、「である」調、かつあえて単語を選びながら文章を書いているが、別にこれが突然砕けた口調になっちゃったって本来は全然かまわないはずなんですよね

(以下、これでいきます)。

 

 私のブログは口調が安定しないことが安定した特徴ともいえるんですが、これは意識的にそうしているというわけではなく、自分の感覚的に気持ちいいか、気持ちよくないかが大きな一つの基準になってます。まあでもさすがにここまで唐突に切り替えてるのは初めてかもしんない。

 

 論文とかレポートとか、なんでもいいんだけど、それなりの場にだす文章は、それなりの格式が求められる、ということは暗黙の了解としてあって、いつの間にか絶対の規制のようにして機能しているような錯覚に陥り、あれらに乗っている文章が「国語」であるかのように思ってしまう、そういうことはあると思います。

 

 でも広い目で見渡してみると、実はその中で遊んでる人って一杯いるんですよね。それに私はこうしてブログを書いているなかで、別にこれが「国語」ではないとも思ってない。だって日本語で書いてるし。

 

 「正しさ」という観点でみたとき、ネットの中で受ける文体みたいなものも多分存在はしていて、多かれ少なかれそこに寄っていってしまうようなことはあると思います。

 

 でも別にネットだし、自由に書いていいんだし。もっとぶっ壊れたような文章がもっと一杯あっても全然構わない。ブログだからといって長文を書く必要もないし、ツイッターで字数ギリギリまで吐き出すことをためらう必要もない。

 

 ことばとは国境を越えた自由なものである。というような思想を私は本著から受け取ったし、それはとても大事にしていきたい感覚だと思ってます。でも、こんな単純はな話でも多分ないような気がするので、詳細は本著を読んでください。

 

以上。