・鈴を産むひばりが逃げたとねえさんが云ふでもこれでいいよねと云ふ
(『鈴を産むひばり』)
・内海と外海のこゑ聴くときにうづまき管は姉妹と思ふ
(『うづまき管だより』
この辺は解釈とかいうより「考えるな、感じろ」の世界なんですかね。
〇内容
京都大学短歌会出身、光森祐樹さんの第一歌集と第二歌集。
1998年から2010年までの314首→『鈴を産むひばり』
2010年から2012年までの128首→『うづまき管だより』
〇好きな短歌10選
上5首が『鈴』、下5首が「うづまき管』
・それぞれの花火は尽きてそれぞれの線香花火を探し始める
確かに言われてみりゃ花火やるときってこんな感じだわ。
・花積めばはなのおもさにつと沈む小舟のゆくへは知らず思春期
灯籠流しを詠んでるのかな。「小舟のゆくへ」は調べてみると、自然に分解される材料を使うor翌日に主催者側がゴミとして回収、のどちらからしい。前者ならまだしも、思いを廃棄物とされてしまう後者はしゃーないけど物悲しい。
・手を添へてくれるあなたの目の前で世界をぼくは数へまちがふ
相手が優しくしてくれればしてくれるほど失敗したときに「ごめんなさい」て気持ちになる法則をうまくつかんでると思った。
・ドアに鍵強くさしこむこの深さ人ならば死に至るふかさか
鍵を差し込むときに思いのほかガリガリ大きな音が響いて背徳感覚えることあるんですけど、なるほどあれはこういうことなんですね。嫌いなやつの顔思い浮かべながらやれば現代版の新しい呪いにもなりうる。しないけど。
・やはらかないちにちでしたと綴られしメイルをつひにつひに捨てたり
メイルの送り主との関係性をどう想像するかでだいぶ見方変わる。
・てのひらをすり抜けさうな雪だからはめて間もない手袋をとる
でも手袋とると寒いからまたつけるまでが、自分的には一セットになるんですがどうでしょう。
・三月が斜めに裂けてしまふから四月も破るちからの限り
十二月までずっと同じことが言える歌。ちからの限り破る一年。
・助けたかった、と わたしの耳を伝ふ指がなみだのやうにぬくかつたから
「から」なんなんだろうという疑問が湧く。それはもう言葉にならないからこういう風に詠んだということ??
・黄葉の葉擦れやまざる耳鳴りはからだのなかに湧く音といふ
「気にしないことです、と医師はいふ」という前置き付き。納得いってるのかいってないのか、なんかどこかとぼけた雰囲気がある。
・あなたがやめた多くを続けてゐる僕が何ももたずに海にきました
この歌については、ちょっと他の歌も絡めて解釈してみます。
さっきの「メイル」のやつとか、あと
・隣人の目覚まし時計が鳴り止まず君の何かが思い出せない
などなど、『鈴』のほうでは「君」に代表される他者とはどっか決定的にすれちがってる感じがある。また
・嗚呼だからいますぐお店の狂はない時計を全部見せてください
・狂はない時計を嵌めてゐる人と二度逢ひ三度逢ひ明日も逢ふ
この連作の中には、人と合わせなければならない、すれ違ってはいけないという強迫観念めいたものが垣間見える。
一方『うづまき管』では、
・百年経ってゐますやうにと願いつつふたりして押す秋夜の扉
こんな風に、ちゃんと平常に出会える人を見つけられているイメージ。
「海」については、『うづまき管』の中に
・陽を沈め海があふれてゆく浜に見失ふ犬、かへりみち、他
・尾びれをつかみ海へとはなつもう人の耳鳴りになるんぢやないぞと
というように、すべてを沈めていく場所として観念されている。
それを踏まえて先ほどの
・あなたがやめた多くを続けてゐる僕が何ももたずに海にきました
これを改めてみてみると、「あなたがやめた多くを続けてゐる」という点ではすれ違いをしていたわけだけれども、それは年月を経たことで受け入ることができ、「海」の中に「思い出せなかった何か」や「捨てたメイル」を探しに来ましたよ、という歌かなあと。
でもこれだと「何ももたずに」の部分を全く見れてないですね。
続けてゐるものをあえて置いてくる、というのは、「かつてのあなた」と同化したともいえる?(「現在のあなた」でないのは、「僕」が続けていない多くを、「現在のあなた」は続けているはずだから)。
そうすることでより「かつてのあなた」の残滓を海から掬い出しやすくしている、とかかな。
『うづまき管だより』はkindleでしか販売されてなくて、『鈴を産むひばり』もkindleにあったのでそれで買いました。書店にはもう置いてないし。
例の「kindle unlimited」って「新鋭短歌シリーズ」とかが読み放題対象になってるんですね。月額980円なら書籍で買うよりかは圧倒的に安いが、どうしよう。
以上。