わたしが大学に入ったのは一九六九年。卒業、ではなく、除籍になったのが一九七七年。その八年の間に、わたしは、数えるほどしか授業に出ませんでした(十回も行ってません)。
なので、ひょんなことから、大学で教えるようになったとき、というか、学生たちを前にして、なにかをやらなきゃやらなくなったとき、わたしは、思わず、こう叫んだのです。
「どうしよう、なにを教えていいかわからない!っていうか、「教える」って、どういうことだかわからない!」
(…)
わたしがやったことのなかでいちばんの傑作(?)は、一年生の授業で、とりあえず、一時間ほど黙っていたことでしょうか。
学生諸君は、びっくりしたようでした。いや、恐怖を感じた?でも、だれもなにもいわずに、静かに座っている。先に音をあげたのは、わたしの方です。
「ねえ、きみたち。ぼくは、こうやってただ黙っているんだけど、どうしてだか、訊かないの?」
すると、ひとりの子がいいました。
「なにか理由があるのかと思って。先生がなにかをおっしゃるのを待っていたんです」
とりあえず、なにかがはじまりました。
(本著p3,p7)
良い意味で遊んでいる本なんだけど、タイトルで損をしている気がしなくもない?
読んじゃいなよ!――明治学院大学国際学部高橋源一郎ゼミで岩波新書をよむ
- 作者: 高橋源一郎,鷲田清一,長谷部恭男,伊藤比呂美
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2016/11/30
- メディア: 新書
- この商品を含むブログ (9件) を見る
〇内容
鷲田清一『哲学の使い方』
長谷部恭男『憲法とは何か』
(全部岩波)
をそれぞれ数か月かけてじっくり読みこんだ後で著者さんお呼びして講義してもらった
〇 感想・考察
内田樹さんにめちゃめちゃはまってた時期に、大体一緒の界隈の人として覚えたのが平川克実さん、釈徹宗さん、安田登さん、橋本治さん、春日武彦さん、高橋源一郎さん、鷲田清一さん。
このあたりの人々に共通するのは一見人当りが良いということで、文章も気持ちよく読ませるものを出してくる。
特に内田さんは凄くて、一見何の関係もなさそうなところから結論に至るまでの道筋のつけ方なんかはその真偽を問うのを忘れさせるぐらいに華麗。
「聖書の人」とか「aikoの人」とかはてな界隈にもいらっしゃるけど、ああいう文章にあこがれる人は内田樹さんのも(政治的信条が合う合わないとかを別にすれば)気に入ると思う。話逸れた。
高橋源一郎さんについていえば、敵味方を区別しないというか、年老いてからなのかどうかはわからないけれども、素直な人だという印象が強い。
たとえば二人目に挙がっている長谷部さんは、特定秘密保護法案に賛成を示した数少ない憲法学者の一人として知られている。
高橋さんは、法案反対派のリストに名前を連ねていて、普通であればある程度の反感を持って長谷部さんのことを見そうなところ、「彼の文章はカッコいい」とか書いちゃう。
その鷹揚さ、懐の広さがなんとなく全体に行き通っていて、ゼミ生の人たちも安心して発言している感があった。
あと皆真面目で、ちゃんとそれぞれの先生の話を聞き、咀嚼し、発言しているのが当たり前であり当たり前に偉い。でもそれも、高橋さんがまず率先して面白がって話を聞いている態度があってこそだと思う。
それぞれの講義について感想を述べると、鷲田さんは話上手で安定した面白さ。
深さについて言うと、「深さ」って通常、垂直方向で潜っていくっていうイメージなんですね。その底に何があるかとか、根本・根源に何があるかって。そして「深み」に行くほどすごいことを言っているかのように感じます。
「無」とかを語りだしたりする時です。根底にあるそういう幻想をつぶしていきたい。基礎のさらに基礎へと遡っていく「究極の基礎づけ」という哲学の理念を僕がずっと批判しつづけてきたのもそういう思いがあってのことです。深い、ていうより、むしろ底がないことを大切にしたい。そこには底抜けになっていることの大切さがあると思う。僕はその深さのイメージを垂直から水平に変えたいと思っています。それは、深い森の中にあるような、最終的には理解が届かない他者たちの存在の深さとでも言うべきものです。
(p106)
一部の人が掘り下げていくんではなく、哲学は万人に開かれているものだよ、ていう話だと多分思うんだけど、こんな語り口でそれを表現できる人はなかなかいない。
長谷部さんの講義は全く門外漢の世界なので勉強になった。
憲法学者によっても色々タイプがあって、長谷部さんの興味対象は(こんな本に登場するぐらいなので)その中でもだいぶ変わってるぽいけど、一個憲法について視点を持てただけで凄い収穫。
憲法は何のために必要かというと、民法とか刑法とか、皆さんが日常で触れるはずの、日常生活をささえているはずのいろいろな法令があります。で、普通はそれで充分なんです。そういう法令さえあれば。憲法なんてよく分からないものがなくても。特に憲法の中でも、基本権条項ですよね。国民の権利及び義務に関する条項とか。何のために必要なのかというと、そういう通常の法令通りに裁判所に来た紛争を解決していると、良識に反する結論になってしまう時とか、どう考えてもこれはおかしいという結果になってしまうという時に、初めて出番が来るのが憲法です。
何のために出番があるかというと、良識に戻れというためです。
(本著p187)
「良識ってなんぞや」と思った人は本を買おう。
伊藤さんはもう存在そのものが強烈すぎる。
文章からでさえこちらの自我をふっとばしてくるようなエネルギーがあるので、実際に講義を受けた人はなおさらすごかっただろう。
とにかく目指すのは、変人だと思いますね。どれだけ変人になれるか、どれだけ人と違えるか。実際にそれは楽かっていったら、楽じゃないのね。やっぱり日本人って本当に枠があるから楽なの。枠の外に住もうと思うと、それなりに自分で自分の何か、自分ってものを信じなくちゃいけないし、自分が信じられないし、そこでゆがむんですけど。まあ五〇になってごらんなさい。苦労して五〇になってみたら、私はね、そうやって生きたほうが自分らしいっていうふうにね、生きていられると思うんですよ。五〇になったら七〇はすぐですからね。七〇になったら八〇はすぐだし。
(本著p298)
これの前に、若いころは滅茶滅茶にぶっ壊れる寸前に居たのだろうと察せられる語りを聞いているおかげで、なおさらここは胸に響くもんがある。 兎に角まず五〇。なるほどなあ。
ほんとは引用をするときって、引用した文が「従」でその他が「主」になってなきゃいけないという決まりがあるんだけど、それぞれがとても太刀打ちできない人なので、「主」にはちょっとなれそうもない。なるほどとしかいえねーんだもん。突っこみが出来ん。
かといって引用文を削るのも主義に反するというか、自分が本を選ぶ時の基準って9割9分は語り口にあって。
裏表紙にあらすじとかが載ってる本ってあるけれども、内容を知るには確かに便利なんだけど、一方でストーリーをそれで勝手に見越してしまって結局買わないってこと、あるあるネタで通じると思う。
だから大体は冒頭を読んでみて面白そうだと思ったら買う、もしくは自分の好きな誰それさんが紹介してたから信じて買う、てのが最近の手の出し方で、後者には狙ってはなれないとしても、前者を皆さんに見せるきっかけぐらいにはなりうるんではないかというのが引用文をブログに書き始めたきっかけなんすね。
四人それぞれタイプも違うけど、引用した文の中のどっかに面白さを感じてくれたんであれば、読んでみて損はないということだけはとりあえずお伝えしておきたい。
とかいってたら一応分量的には主になれたかな。これで終わります。
以上。