その頃の日常風景の記憶は、薄墨で描いた水墨画のように輪郭がぼやけているが、今でも瞼に焼き付いているのは、西国街道を旅していた遊行者や旅芸人の姿である。
西国三十三箇所めぐりの「巡礼」をはじめ、「虚無僧」「六部」「山伏」などの旅姿をよく見かけた。肩に掛けた小さな箱で人形を遣う「夷舞わし」、小猿を連れた「猿まわし」もやってきた。ドサ回りの芝居の一座やサーカスなどの旅芸人もこの道を通ってきた。
初春には「万歳」「大黒舞」などの祝福芸人がやってきた。「太神楽」の一行も、賑やかな音曲を奏でながら街道筋をやってきた。
(本書p20-21)
楽しそう。
〇内容
①ほかいびとと呼ばれる、正月に祝辞を述べる代わりに物をもらっていた乞食の存在から端を発した人々が、お遠路をめぐる修験者と混交し、更に芸能とも親和性を持つようになる
②しかし正月などの特別なハレの日以外や賤民として差別され、江戸期においては改革のたびに身分制を脅かすものとして弾圧され、明治期にも近代化を推し進める流れで廃業させられていく
③残存していた者たちも第二次世界大戦を契機に消滅し、わずかにテキヤや落語などとして今に残った
という流れを、1927年生まれの筆者が自分が見聞きした思い出を交えつつ記述する
〇感想
以前紹介した夏井いつきさんの本の中で傀儡師という芸能について触れられており、旅芸人についてなんとなく興味を持ったので読んでみた。
200pちょっとの短い分量の中で簡明に旅芸人についてまとめられており、適当に手に取った割に入門書として最適でよかった。
川端康成の『伊豆の踊子』が旅芸人と大学生(当時は高等)の身分差をよく知ることが出来るとか、今まで点だけで見てきていたことが繋がる感覚もあり、多分読むタイミングがぴったりだったんだと思う。
予祝芸をしていた人たちが平時にはマージナルな人々として疎まれてたとかって根幹には、倫理だけでは推し量れない感情があったんだろう。
実際、現代に特別な時にだけ現れては芸をして去っていく人々が居たとしたら、「なんか怖えな」と直感的には思うだろうし。
一方で、ガマの膏売り(真剣で自分の腕を切った後に、薬で血を止めてみせ効能を示すことその薬を売り歩いた人々)の「機関銃のようなシャベクリ」に往来の人々が足を止めて聞き入った様子や、まだ若くリズムに乗れない膏売りに野次を飛ばしどやされた記憶など、昭和初期にはまだ残っていた旅芸人の居た人情の匂いがする風景も本書で活写されており、味わい深いものがある。
検索をかけると伝統芸能として今に伝わったガマの油売りの口上や実演を見ることができるけれども、筆者はこれについて「上手いけれども、売らなければいけないという切迫感が無い」という趣旨のことを述べている。
いくら保存をしようとしても、変容してしまうことがある示唆と思う。それは受け入れるしかない。
平成生まれの自分はこうした人々の経験値は非常に少なく、わずかに小さい頃イオンモールなどで猿回しを見たおぼろげな記憶しかない。
試しにネットで検索すると、今でも(細々と、かもしれないが)旅芸人の人々は「一座」に形を変えながら、きちんと活動しているようで安心する。
後前見つけたこれとかも思い出した。
なんかの機会になんか見にいってみるか。
以上。