寝楽起楽

最近は頑張って読書感想ブログにしてます。

                ネタバレには配慮しない感想ブログです。

よっぱらないながら今日考えたことについて書く 私と社会

 ライフ・ヒストリーというものについて授業で学んでいる。

 

 これがどういうものか説明すると、一般的にいう歴史というものは客観性というものをまず暗黙のうちに前提としているところがある。

 

 授業では被爆者の方々の例が出るので、この記事でもそれを参考にすると、例えば「広島に原爆がおちた」を客観的な事実だ。

 だがそれを体験した人々の体験・感情というものには、それを知っているだけでは全く迫れていない。

 そうした歴史のあり方に対するカウンターとして、社会学の界隈の人たちが提唱しているのがこのライフ・ヒストリーというもので、具体的には主にインタビューを通して、それぞれの人々の固有の記憶に迫っていこうぜ、という方法である。

 

 歴史学でもこれについての反省はあってしかるべきだとは思うんだけど、あんまり主流にはなってない。『ラディカル・オーラル・ヒストリー』っちゅう本があって、これがアボリジニの人々の持つ主観的な歴史を、われわれの抱いている客観的な歴史像にいかに接合させられるかを模索しててちょ~~~~おもろいんだけど、残念ながら筆者の方が若くして(30代で)亡くなられており、この人が生きてればもっとこの道が切り開かれてたのに、とか思わんでもない。

 

 

↑今まで読んだ本(ゆうて全然冊数ないんだけど)の中で ベストなんちゃらに入れてもいいくらいなんだけど、めんどくてまだ記事にしてない。怠惰。

 

 話それた。とにかくそのライフ・ヒストリーの授業の中で、この前取り上げられたのが『ヒロシマモナムール/24時間の情事』っていう映画である。

 

 この映画は、フランス人女性とヒロシマ人男性が恋仲になって、二人がベッドで睦みあってるシーンを流しつつ、女性が「私はヒロシマに来た。あれも見た、これも見た、私はヒロシマについてこんなにもいろんなことを知っている」って言い続けるのに対し、男性のほうが「いや、君はまだヒロシマについて何も知らない」って言い返し続ける。

んで、その合間に、お前ら視聴者はあれもこれも知らんだろう、と言わんばかりにヒロシマの資料映像が挿入されまくるっていうエグエグ映画で、これを見せられて、個人的には非常にもやもやするもんがあった。

 

 「お前はまだ何も知らない」という提起は、同時に「お前はこれについて知らなければならない」という前提も含んでいると思う。なんだけど、その必要性という部分についてどうしても引っかかりを覚える。

 

 ライフ・ヒストリーという手法についても同じことが言えて、これを採用するという自体、他人の経験・記憶に迫らなければならない、という合意が為されてしまっているんじゃないか?という気がする。

 だが、それは、本当にそうなの?その必要性を駆動しているものって、いったいなんなの?みたいなことを考えて、んで、今日兄とサシで飲んだんだけど、その話もしてみて、こうじゃね?ってなったことを今から書く。

 

 まず、他人それぞれに固有の体験があるということは、とりもなおさず、自分にもそれぞれ固有のもんがあるっつうことである。

 その「私」としての立場から、人それぞれの固有について考える、ということをするのであれば、まず必要なのは、「私」の固有について考えることである。

 

 ヒロシマについて考える人がいる、というのは、それはその人がヒロシマを考えることをその人の価値観で持って選択した、ということであって、普遍的な「必要性」あるいは「価値観」みたいなものというのは、本当はそこには存在はしていない。

 

 僕はずっと塾講師のバイトをしてんだけど、生徒には偏差値が高いから就職に有利だからどこどこを目指します、ていう子と、あの大学の雰囲気が好きだからあの大学にいくために勉強する、とか、この教科は好きだからこの教科を勉強してる、ていう子の二種類居る。

 

 何となく漠然と前者カテゴリーは社会的な観念の子、後者カテゴリーは個人的な観念の子、ていう風に思ってたんだけど、前者の子達だって、いろんな価値観がある中で「偏差値が高いほうが有利」っていう価値観を選択して受け入れてる、ていう意味では非常に個人的なもんである。

(「社会的な観念の子」と「個人的な観念の子」を分けるものとして、僕が最近思ったのが「愛着」っていうキーワードで、これがモチベーションを駆動する何がしかを考えるうえで重要になるのではないかという気がしてるんだけど、違う話になりそうなのでいったんおく)

 

 個人的な選択を左右するものの中に、社会というものがかかわってくる。

ヒロシマ人男性が言う「お前はヒロシマを何も知らない」、講師が生徒に言う「この問題わかんないじゃだめだよ」、的なものは似通ってて、両方ともそれは社会からの要請の言葉として機能する。

 

 社会っていうものは巨大すぎて、あんましよくわかんない部分はあるんだけど、社会がそれらの必要性を迫ってくるのは、そうしたものを固有として持ちえている人々を内包しておくことが社会にとって恐らく良いことだからである。

 

 となると、ある社会の要請に対する自分の選択の近似値が、そのまま自分の属する社会、ということに成り得るのかもしれない。 

 ただこれを考えたときにしんどいのは、自分の選択というのは流動的であり、それがゆえに、自分の属する社会も流動的であることだ。

 

 社会のどの要請にこたえていくか、何に愛着を持つか、何に帰属意識を持つか、は時と場合によって異なる。

 例えば『ヒロシマモナムール』を見たときに、それに対しての反発も僕は抱いたけれど、同時に確かに俺は何もヒロシマについて知らん、とも思う。そう思うときの僕は、一瞬だけだが、自分にとってのヒロシマを固有とした、ヒロシマ社会に身を置いた自分になっている。

 

 みたいなことを考えたときに、ふと思い出したのが高校生ぐらいん時に角田光代さんだか誰だかが書いた短編だ。こういうときに誰のどの作品かをさらっと出せないあたりが、自分の読書家としての程度の低さを表している。

 

 それは水商売をしている女性が主人公なんだけど、その人は保健所?とか、飼い主が居なくなっちゃったペット、とかの保護活動団体に入ってて、昼間は駅前で、新しい家族探しのビラを配ったりとかしている。

 

 そうした活動というのは大概胡散臭く思われるもので、大体の人はスルーする。僕もしてる。んで、中には「飯を満足に食えない子どもだって居るのに、犬なんざを保護しようとする余裕なんて今の社会にはねえだろぼけが」みたいな嫌味を言われたりする。

 

 なんだけど、その女性は黙々とその活動を続ける。彼女自身も、はっきりとその理由はわからない。なんだけど、私はこれをやることを選んでしまったんだ、みたいな述懐をするシーンが確かあった。うろおぼえ~。

 私と社会、ということについて、自分の中のロールモデルになってるのはこれかもしれない。

 

 平和希求運動とか、たくさんの人が潜在的には忌避感を抱いているように思う、皆はそうじゃなくても自分はわりとそうなんだけど、のは、それ自体がこちらに対してしてくる要請があまりにも強すぎ、大きすぎるところにある。

 それ自体は良いことだと思うんだけど、それらは「私」をさしはさむ余地を与えてくれてない気がすんだよな。『ヒロシマモナムール』は多分そういう映画だ。

 

 だからといって極端に走り、社会の要請全部を跳ね除けて、自分の「愛着」だけでもって生活していくのには相当な覚悟がいって、なぜなら近似する社会がない場合そいつはただの狂人と化すからである。

 

 ただ面白いのは、その「愛着」を突き詰めていくことで、その人を中心としたその愛着コミュニティを生じさせることができたりすることで、大学教授とか、小説家漫画家とかはそうした側面はあるだろうし、ネットの登場によって一昔前の狂人たちも大分そうした社会を作りやすくなってるんじゃなかろーか。

 

 ただその場合必要なのは、自分の「愛着」を「他人」に対し翻訳し説明できるだけの力があるかどうかで、それが出来ない人は多分今でも狂人としてどこかに居るんだと思う。強く生きててほしい。

 

 後もいっこ興味深いのは、何よりも僕自身がこの疑問について、自分の中だけで考えるだけに終始せず、兄に対しても投げかけてみるっていう行動をとったことで、自分の中での理解がより深まった、ていう自覚があることだわな。

まあ当然のことではあるんだが、社会に所属してみることっていうのは、同志を増やせたその社会にとってだけじゃなく私にとってもメリットになりうる、という。無論デメリットになる場合も多々あろうが。

 

 これここまで読んでくれる人いるんですかね。酔い醒めてきたからもっかい何か飲もうかな。

 個人的に今回の記事で一番気に入ってるのは、タイトルが「よっぱらないながら」って誤字ってるところです。最後までありがとうございました。

 

 以上。