木の鎧戸にくりぬかれた菱形の穴から、形どおりの幅でやわらかい光の筋が素焼きタイルの床に落ちていた。部屋の空気じたいはきれいに澄んでいてむしろ涼しいくらいだったが、壊れてのばすことのできなくなったソファーベッドの背もたれに顔が密着するような窮屈な恰好で寝ていたせいなのか、それとも奇妙に現実感のある夢のせいなのか身体中が火照り、喉が渇き、そして夢と同じように右の奥歯がうずいた。テーブルのうえの置時計は、もう九時半を回っている。ヤンが出ていったことに、私はまったく気づかなかった。ゆっくり起きだして洗面所に行き、壁に作りつけられた両開きの棚からいつのものだかわからないアスピリンを探し出して水道水を注いだコップに投げ入れると、細かい空気の泡が音を立てて勢いよくわきあがり、その大半がぶつぶつと宙に消えたのを見届けてから舌にかすかな刺激のある即席の水薬を飲み干した。
(本著p11-12)
解説の人(今回は川上弘美さん)と注目した文が一致すると嬉しい現象。
〇あらすじ
・フランスに「停泊」中の旧友ヤンとの久方ぶりの交流:「熊の敷石」
・死んじゃった友人の大きくなった妹とその子供と砂の城を作る:「砂売りが通る」
・「城侵入しようぜ」「おk」:「城址にて」
以上3編。
〇感想・考察
些細なことを特別凄いように見せて書く作家は多くいるけれども、些細なことをそのなんでもなさのまんま料理してくる人は中々居ないと思うけれども、堀江さんはその一人という感じ。
一回目はぽけーっと読んでたら急に話が終わって、え?あ?へ?は?となった。読み手にも技量を要求してくるのはいかにも芥川賞感ある(※個人のイメージです)。明治大学の教授でもあるとのことだが、堀江さんの仕掛けてきた試験に私は不合格だったな、これ。
つー訳でちょっと頑張って考えてみると、「熊の敷石」のメインテーマは言葉のキャッチボール、ではなく言葉の円盤投げなのであろう。
円盤投げにも競うという要素はあれども、基本的にはどこまで飛距離を伸ばせるかというのは個々人の問題である。投げる、ということのみに固執している「私」は、つまりヤンのことは見ているようで見ていない。
例えばヤンはユダヤの話にこだわっているが、「私」はそれに対しいまいちピンときておらず、そしてそれはそのまま私たち読者にも共有されてしまう。
作中のラ・フォンテーヌの熊の敷石の寓話は、熊が老人にまとわりつく蠅に対し敷石をぶん投げたことで老人を殺してしまう話だ。転じて、余計なおせっかいのことをフランスではそういうらしい。
「私」とヤンにそのまま当てはめると、熊=私、ヤン=老人となりそうなものだが、しかし、実際にはヤンが旅立った後、その友人が出してきたケーキによって激痛を覚えるのは「私」のほうである。
ヤンは間違いなく「私」とちゃんとコミュニケーションは取れていないという思いを抱えていたのだろう。しかし、ドッジボール程度には彼の言葉は届いていることがここから察することが出来る。
つまり結局のところ、どこまでいっても「熊の敷石」は私の一人相撲の話であり、それを余計なおせっかい気味にヤンが教えてあげた、というところで終わっている。そういう意味ではむしろ物語が始まる(主人公が変わっていく)のはここからであり、「熊の敷石」が物足りないと思う人が一定数居るのはそのあたりが原因かと思われる。
そういう意味でいうと、「砂売りが通る」「城址にて」のほうが面白い、という感想はとても理解できるところだった。よくわかんないけどわかる、ぐらいには適当読みでもいけるので。
以上。