寝楽起楽

ネタばれには配慮しない、感想/紹介ブログです。毎週1回更新 +α を目指したかった。

将棋 序中盤の反省の仕方について

▼1図

 

 貼り付けたのは、本日、将棋ウォーズの3分切れ負け戦で行われた将棋の対局である。相袖飛車という珍しい対局で、後手の私が65歩と突いたところだ。今回は、この局面の数手先の展開までを検討することで、序中盤の感想戦のプロセスを考えてみたい。

 さて冒頭の局面、私が65歩と突いたのは、飛車の横利きを通したことで、34歩と角道を空けやすくする意図だった。「飛車の横利きを通して角道開放」は私の中ではほぼセットと言ってよく、読みというよりは感覚で、ゼロ秒で指す手である(実際、AIでも最善だった)。

 対する相手の用意は、35銀と上がることだった。

▼2図

 この手には2つの意味がある。1つは、34歩と角道を開けた際に同銀と取ること。もう1つは、ここから26歩~25歩~26飛と回り、24歩からの棒銀突破を狙うことだ。

▼3図

 こうなってしまうとまずいため、2図時点で対策をする必要がある。結論から言うと、13角と上がれば、上にあげた棒銀を防ぐことができた。

▼4図

 仮に同じように26歩~25歩~24飛車とまわると、銀に飛車の紐がつかなくなるため、35角と銀を取れる。また、24の地点に角、飛車、歩の利きを用意することで、棒銀の攻めもしにくい。

 ここからが本記事の本題である。13角と上がる手なぞは、棒銀を防ぐための基本の手でもある。では、私はなぜそれを思いつかなかったのだろうか?......「飛車の横利きを通して角道開放」という先入観が、この13角と上がる手の見落としに繋がったとみるのはどうだろうか。

 そもそも、冒頭で書いた通り、袖飛車対袖飛車という局面は稀だ。3図の類似系は、居飛車を相手にするときに頻出するが、通常の居飛車では、34歩と角道を開放する手それ自体を阻む手段は少ない。そのため、34歩は容易に実現する。

▼5図

 

 そして、5図のような局面の場合、13角と上がる手は考えないことの方が多い。上がった瞬間15歩と突かれる手が怖いからである。

▼6図

 6図と4図で、1筋の条件の大きな違いは、「飛車の横利きが通っているか否か」だ。6図であれば、34歩の邪魔がないため、15歩には同歩同香14歩。

▼7図

 7図で同香には同飛車と取れて、端攻めは簡単に受かっている。

 

 実のところ、4図のように13角と上がる手自体は、対局時点でもぼんやりと考えてはいた。だが、「1筋にまで飛車が利いている」ということに認識が及んでおらず、角頭を攻められて駄目だと判断した記憶がある。私の中では、「飛車の横利き」は、34歩を突いた状態、すなわち3筋までにしか利いていなかったのである。

 13角自体は難しい手ではない。仮に、いきなり3図から対局を始めれば、1筋に飛車の横利きが通っていることは問題なく認識できるだろう。だが、連続した手の流れ、かつ短時間の対局では、これまでの対局の蓄積からくる、先入観のほうが優先されることはままあることだ。

 3図→4図の時点、「13角と上がればよかった」までで反省を終えるだけでも1つの学びにはなる。だが、真に反省すべきは、「なぜその手を指せなかったのか」であって、それを1つ1つ解消していくことが、上達の近道であるような気がする。今回の場合は、「6筋を突く手は、(3筋の歩を突くまでは)1筋まで横利きを通すために指す」と認識を改めることが、大きな反省点だった。

 

 

 ......ですよね? AI先生。

 

 

 「いや、65歩は、66歩と突き捨てるために指すんやで^^」

 

 

 

いや同歩でなんやね~~~~~~~ん

(おわり)

 

 

 

 

 

らしさ

日付変わって明日7/25、ちょっとした音楽の発表会があり、私はチェロでチャイコフスキーの『シャンソントリステ』を弾く。選曲に深い意味はなく(というか、「これ弾きたい」という曲がぱっと思いつくほどそもそも曲を知らず)、会に参加することになった際、たまたま練習していた曲がこれだったのだ。ビブラートが鍵となる、ゆったりとした聴かせる系の曲である。

ある日、知人がこの曲を指してふとこう言った。「とてもチャイコフスキーらしい曲ですね!」 しかしクラシックの教養がない私には、チャイコフスキー「らしさ」というものがとんと見当がつかない。ということで先日のレッスンの冒頭、チェロの先生に聞いてみたのだが、「交響曲のソロみたいに聴かせるメロディーだからですかねぇ…」と自信なさげ。この先生、チェロはもちろん大変上手で、現役でオケにも参加しているのだが、知識面はどうも苦手なようなのだ。……知らないのに弾ける、知らなくてもプロでいられるというのは、それはそれですごい才能である。

そんなこんなでレッスンを開始し、『シャンソントリステ』を一度先生の前で通して弾くと、「雰囲気は出てますね」というお言葉をいただいた。「らしさ」がわからぬまま練習していた結果たどり着いた「雰囲気」。先生、それはチャイコフスキーに近づいているのでしょうか、それとも遠のいているのでしょうか。

今日も一度通してから寝る。脳内で先生は首をかしげている。謎は深まるばかりだが、こうしている間にも発表会の日は刻一刻と近づいている。

早起きというエンタメ

 年明けから意識して、夜早めに寝て朝早く起きる生活を心がけるようになった。当初の勝率はいいとこ3、4割というところだったが、4月ごろから段々と安定しだして、今では8割9割の確率で早起きできるようになっている。

 第一義には生活改善が目的だったが、やってみて気づいたのは、早起きそれ自体が楽しく、生活の中のエンタメになっているということである。「早く起きるために早く寝るぞ!」と床に入る瞬間から楽しい。朝起きて寝ぼけ眼で将棋を指す時間も格別だ。カフェに行って本を読むのもよい。いつもは満員の電車に悠々乗るのは快適である。だんだん暑くなり難しくなってきたが、小一時間ゆったり散歩してから出社したっていい。

 どうも私は、生活が改善していく喜びよりも、早起きの楽しさそのもののほうを強く感じているようである。もう一つ抽象度を上げると、早起きをすることで生まれる余白、余裕そのものの楽しさ、また「早く寝る」という余裕を作る行為に楽しさを見いだしていると言えるかもしれない。「効率性」「充実度」「自由度」など生活において重視する項目は人それぞれで、私は基本的には怠けていたいタイプだと自認していたが、意外なところにも楽しみを見いだせる性質であったらしい。それがわかっただけでも、早起きをする意義はあった。

 おしむらくはただ早起きするようになっただけで、部屋の清潔度などその他一般的な「生活の丁寧度」を図る各項目は、年明けから一切の向上が見られないことである。だが、この「余裕」という楽しみを、他の行為にも適用していけば、生活改善も遠からず行えるはずだ...たぶん。

 

擦り合わせと決断について(覚書)

 昨日、「そこそこ意味がある」と題した記事を書いた。雑にまとめると「擦り合わせって大事っすよね」という結論になったのだが、あらためて見直すと、匿名間(ネット間)の言論のみに議論がとどまっているきらいがある。次は、現実における擦り合わせ、から議論を始めてみたい。
 擦り合わせとは、利害や意見の対立が生じた際に必要となる営みだ。そして、匿名間におけるそれと非匿名間のそれの大きな違いは、決断しなければならない、というプレッシャーの有無にあると言えないだろうか。というか、「じゃあ、あとは私がやっておきます」と名乗りをあげた瞬間、そもそもそれは匿名の議論ではなくなる。また、ネットは、擦り合わせにあたっての制限時間も存在しない。現実においての擦り合わせとは、対立がある中で決断のXデーは決まっており、十全な話し合い時間はないままに、決断せざるを得ない場面の方が多いだろう。
 ここで便宜的に、決断を取る主体を「上位者」、取らない主体を「下位者」と呼ぶ。上位者は、一般には部下↔︎上司における上司、子↔︎親における親などが担うが、実際には「上司の提案を受けて部下が決断する」といった事態も想定しうる。
 上位者の役割は決断することだ。短期的な利益、長期的な視野、特定の集団/人との関係性、より上位者からの命令、自分だけのこだわりなど、決断にあたってなにを根拠とするのかも、上位者に委ねられる。そして、上位者は、下位者を無視できる特権が与えられる。「上司の提案を無視して好き勝手する」という振る舞いすら、(短期的には)可能だ。
 だがそんな振る舞いをされると、下位者は困る。下位者にとって理想的なのは、「何も言わずとも、常にその下位者の属している組織、下位者のこだわり、今後、その他もろもろについて便宜を図ってくれる上位者」なわけだが、そんなスパダリ(スーパーダーリン)は世には存在しない。下位者→上位者へのコミュニケーションは、「下位者である私が、決断に際して無視されないようにする」ためになされる。普段の擦り合わせが充分なされておらず、かつ無視され続けていると感じている下位者ほど、上位者が無視できないほどのインパクトを出すために、そのコミュニケーションは性急に、かつ、暴力的になされ、「その上位者を引きずり降ろしてくれる、別の上位者を祭り上げる」「自分が上位者として名乗りで、打ち倒す」といった、破壊的な革命に繋がったりもする(と思われる)。
 いい上位者の条件は、まず、多数の決断をしてきた、という実績そのものである。決断を多数できたのは、それだけ長きにわたり、下位者に引きずり降ろされない決断をし続けることができた証明になるだからだ。体育会系/部活動で鍛えられ、勝ってきた人が、別の場で重用されることがあるのも似た理由に思う。一定のルールの中とはいえ、瞬間瞬間で変動する場において、勝つ決断をより多くしてきたのは大きな強みだ。また、年功序列で昇進させる組織が多いのは、単に、年齢を重ねている=決断する機会が多かった、とみなしやすいからだろう。
 いい上位者の第二の条件として、「より多様な基準において決断をしてきた」も加えたい。基準が多様であるのは、より多数の下位者と擦り合わせたをしてきた証左になる。上位者としての期間がどれほど長くとも、それがたった一つの基準にしか帰せられないのであれば、その基準が崩れたとき(別の基準をもつ下位者が台頭してきたとき)、その人/組織は脆い。
 以上を踏まえたうえで、このような上位者を備えるための戦略は二通り考えられる。一つには、第一、第二の条件をどちらも備えた上位者を、人工的に育てること。もう一つは、一人の上位者にすべてを負わせるのをあきらめ、異なる価値基準で判断する上位者を、組織の中で並列して抱え込むこと。これは、単に「多様性を大事にしよう」ということでも「決断できる人を作ろう」ということでもない。
 また同時に、「いい下位者となるための要件」も導き出せないだろうか。先にも述べた通り、上位者は、下位者を無視できる特権をもつ。取り急ぎ、下位者が取れる戦略は、①「私を無視しないとこんなにうまみがある」と誘うか、②「私を無視するとこんなに破滅的なことが起こる」と脅すかと仮定する。前者は、そのコミュニケーションが円滑に、ツーカーに回るようになればなるほど、一つの基準でしか判断できない、脆い上位者を作り上げることになる。後者は、いったんは脅しにより上位者を止められるとしても、脅すことによってできる対立が、長期的な視野で見たときに、深い禍根を残す。上位者⇔下位者の、緊張感のあるバランスを保持し続けることが、そこでは大事になってくる...。上位者が下位者と比べ「偉い」わけではなく、役割が違うだけで、上位者/下位者も、たやすく変動する。ただ、上位者になりやすい/なりにくい条件は厳然として存在はするだろう。
 以上を踏まえ、私がその場その場で行動する場面においては、「私のここでの役割は上位者か下位者か」「上位者になりたいか/なるべきか」「いい擦り合わせができているか」等々を、総合的に確認し、時に決断する、ということになるだろうか。いろんな条件を無視した話になっている気がするが、ひとまずの仮説として。