読書ー小説
人生は、最初のページをめくったら、次のページがあって、次々めくっていくうちに、やがて最後のページにたどり着く一冊の本のようなものだと思っていたが、人生は、本の中の物語とはまるで違っていた。文字が並び、ページに番号は振ってあっても、筋がない…
その人はかれ自身を遺失物収容所へ届け、棚の上にすわった。 時折、職員に所有者が連絡してこなかったかとたずねる。 年月がすぎてから、かれは彼自身をうけとった。みつけたのは、かれだったから。 (「うしなわれた人」 本著p63) 所有者が連絡してこなか…
感染者数が日に日に増していく今日この頃ですが、皆さんいかがお過ごしでしょーか。こちらは仕事はもう納めまして、のんべんだらりと日々を過ごしております。 今年は後代、 「コロナウイルスの出現により生活が激変した」 とか記録される年かもしれませんよ…
「なにやってるの」わたしはいった。 「 『ダイヤモンド・ナイツ』のパスワードがないかなと思って」トードは慌てて答えた。 「おまえ、ソリーのキャラのアイテムを全部自分のキャラに移すつもりだっただろう」デッカーが言った。「最低な奴だな。葬式に来て…
木の鎧戸にくりぬかれた菱形の穴から、形どおりの幅でやわらかい光の筋が素焼きタイルの床に落ちていた。部屋の空気じたいはきれいに澄んでいてむしろ涼しいくらいだったが、壊れてのばすことのできなくなったソファーベッドの背もたれに顔が密着するような…
火を燃やすのは楽しかった。 ものが火に食われ、黒ずんで、別の何かに変わってゆくのを見るのは格別の快感だった。真鍮の筒先を両のこぶしににぎりしめ、大いなる蛇が有毒のケロシンを世界に吐きかけているのを眺めていると、血流は頭の中で鳴り渡り、両手は…
このご先祖様の物語は、わが町の歴史上もっとも輝ける一頁だ。まるで夜空に華麗にひらめく一発の花火のようだ。だがあとには闇がのしかかる。まもなく最後の王朝が共和政体に倒され、皇帝が紫禁城から追放された。皇帝の誰より忠実な側近である最後の世代の…
四月九日 拝啓 お手紙ありがとう。研究室の皆さん、お元気のようでなにより。 君は相も変わらず不毛な大学生活を満喫しているとの由、まことに嬉しく思います。 その調子で、何の実りもない学生生活を満喫したまえ。希望を抱くから失望する。大学という不毛…
小中学生のころに読んだ、 雪が降るのを最初に深々と、と表現したのはどこのどいつだろう。 という、とある小説の出だしを私はずっと覚えている(ずっと恩田陸の『ネバーランド』だと思ってたんだけど、確認したら違った。あさのあつこの『バッテリー』とか…
ロボット工学の三原則 一、ロボットは人間に危害を加えてはならない。また何も手を下さずに人間が危害を受けるのを阻止してはならない。 二、ロボットは人間の命令に従わなくてはならない。ただし第一原則に反する命令はその限りではない。 三、ロボットは自…
ふとりかえった幸福 わたしは「幸福」のなかでも一番ふとった「お金持ちである幸福」です。わたしはきょうだいたちを代表して、あなたとあなたの御家族を、わたしたちの終わりのない饗宴にご招待しようと思ってまいりました。あなたはこの世で本当の、「ふと…
「おまえさんはわしにとって、本当に恵みだった。今まで見えなかったものが、今はわかるようになった。恵みを無視すると、それが災いになるということだ。わしは人生にこれ以上、何も望んでいない。しかし、おまえはわしに、今まで知らなかった富と世界を見…
夕方八時、ドアがまた開いて、あの小柄な娘がもう一度おっきいバスケットをふたつ腕にかかえて出てきます。娘は小さい家々のまわりにある、あちこちの野原に行きます。遠くに行く必要はありません。 野原ではすぐかがんで花をつみます。大きい花や小さい花、…
ポーチの上の3人は、木版画にきざまれた姿のようであった――りっぱな枕の王座にすわった老人、主人の膝に寝そべり、その足元にぬかずく小さな召使を、溺れゆく光の中でじっと見守っている黄色い愛玩動物、そして祈祷を捧げるかのように、ひときわ高くさし上げ…
――するともう一度どっと歓声が沸きあがり、とびきり興奮していたひとりの男が帽子を空中高く放りあげ(ぼくにわかった限りでは)こう叫んだのだった。「副総督閣下に万歳だ!」ひとり残らず歓声をあげたものの、それが副総督のためなのか、そうでないのかは…
違いますよ日本人ですよ、と道子は 仕方なく答えた。ああトヨタか、と言って最初の男が艶めかしく笑った。わたしはトヨタなんかじゃない、と思ったとたんからだが小さな自動車になってしまったような気がした。 何しろあいつは頭が”トラビ”だから、とかつて…
板東早矢香でスガ私ガ見エマスカ?食堂でハ、アりガとうございマした。 「ま」「は」の下の方とか「す」の中ほどのくるんとなったところ、「え」や「あ」のぐねぐね感が苦手だったんだろう、と私は思った。 鏡を見ながら、眉描きペンシルで自分の顔に字を描…
部屋の中に明りがさした。ボヘミアンネクタイがマッチを擦ったのだ。それから火をランプに映した。ボヘミアンネクタイの上半身が障子に映った。鳥打帽を脱いだ手巾を取った。それは間違いもなく僕の妹の横顔だった。 ……いや決して美人ではなかった。ただ月光…
あなたは両腕で私を包み込んで、言ってくれた、明るいわよ、明るいわよ、明るいわよ、明るいわよ、と。そしてあなたは私を抱きしめて、言ってくれた、今夜はもうずっと、朝が来る直前まで明るいのよ、朝になったらギャラリーが開く前にここを出なくちゃね、…
この本は要するに、いわゆる「英文学」の名作短編を集めたアンソロジーである。当翻訳者が個人的に長年敬意を抱き、何度か読み直してきた作品が並んでいるというだけでなく、これまで刊行された多くの英文学傑作短編集などにも繰り返し選ばれてきた名作中の…
娘の方は父親を名前で呼びつけにするけれども、逆に父親の方は自分の娘を「お宋」とその名で呼んだことがない。用事のある時は決まって「オーイ」と呼ぶ。返事がなくてもやっぱりまた「オーイ」と呼ぶ。お宋が家に居ないのにいつまでも「オーイ」「オーイ」…
一日中巨大なダンプカーが都市から出るゴミを運んで来ては捨てていく、とある丘の上に幾つものゴミ山がそびえていた。ある冬の晩のこと、そのゴミ山から少し離れたところに松明のあかりをたよりに八軒の一夜建てが築かれた。翌朝、一夜建ての屋根にその年は…
むかしわたしは鬼たちの住む場所に暮らしていた。わたしも鬼のひとりだった。わたしは今年寄りでそのころは若かったけれど、じつはそんなにすごくまえの話ではなく、単にわたしにはめていた枷を時が手にとってねじっただけのこと。いまわたしはインディアナ…
僕が九歳で世界が想像しうるあらゆるたぐいの壮麗さに満ちていて、人生がいまだ楽しい神秘な夢だった古きよき時代のある日、僕以外のみんなから頭がおかしいと思われていたいとこのムーラッドが午前四時にわが家にやってきて、僕の部屋をこんこん叩いて僕を…
スコップと丸めたビニル袋を手に持って、あみ子は勝手口の戸を開けた。ここ何日かは深夜に雨が降ることが多かった。雨が降った翌日は、足の裏を地面から引きはがすようにしてあるかなければならないほどぬかるみがひどかった表の庭に通じる道も、昨日丸一日…
まったく、いやになるくらい、ありふれた名前だ。メアリ・スミスだなんて。ほんとにがっかり、とメアリは思った。なんの取り得もなくて、十歳で、ひとりぼっちで、どんより曇った秋の日に寝室の窓から外を眺めたりして、そのうえ名前はメアリ・スミスだなん…
とどきますか、とどきません。光かがやく手に入らないものばかり見つめているせいで、すでに手に入れたものたちは足元に転がるたくさんの屍になってライトさえ当たらず、私に踏まれてかかとの形にへこんでいるのです。とどきそうにない遠くのお星さまに受か…
「おふくろ?」 驚いた息子をなだめるようにして、母親はやさしく包み込むような声を掛けた。 ――よう帰ってきましたね。 声を発するものは、目の前に坐る猫であった。その声の懐かしさに、彼は取り返しのつかないことをしてしまったと気づいて、猛烈に悔いた…
影は、楡の木陰で、こちらを見ていた。 冥い、黄色い目だった。はじめは見ぬふりをしようとした。しかし、無理だった。 釘付けにされ、引き寄せられた。こちらから、近づいていった。声はかけなかった。木陰に入り、そばへ寄ると、影は黙って背を向け、幹を…
存在はやわらかい、そして転がり、揺れ動く、私は家々のあいだを揺れ動く、私は在る、私は存在する、私は考える故に揺れる、私は在る、存在は転落だ、落ちた、落ちないだろう、落ちるだろう、指が開口部を掻く、存在は不完全である。男だ。このめかしこんだ…