むかしわたしは鬼たちの住む場所に暮らしていた。わたしも鬼のひとりだった。わたしは今年寄りでそのころは若かったけれど、じつはそんなにすごくまえの話ではなく、単にわたしにはめていた枷を時が手にとってねじっただけのこと。いまわたしはインディアナに生きているーーこの家でわたしがすごす日々を生きるといえるなら。これなら足が不自由でろくにうごけなくてもおなじこと。よたよたと地をあゆむ生き物。ある晴ればれと明るい朝私はケンタッキーにいた。何もかもおぼえている。わたしはもうすでにこのジゴクの輪に自分の旗を立てた。この住人たちはなにひとつ忘れない。
(p19より)
二度読み推奨作品。
○あらすじ
「パラダイス」と呼ばれた場所に嫁いだ ジネストラ、その夫ライナス、奴隷ジニアとクリオニーの4人が害し害されながら地獄を行く
○考察・感想
上の引用を読んでもらえば分かるとおり、全てが語りで構成され、時系列も前後するので本書は非常に読み解きにくい。白状すると自分は途中で挫折し、あとがきで関係性を把握しなおしてから読んだ。けどそれだとやっぱり衝撃は薄くなってしまうので、出来るだけネタバレなしで読むのがお勧め。
「つらかった」とか、「苦しかった」とか、一人称なのに心情をほとんど(一切?)出てこないのが凄く特徴的だと思った。ゆえに大部分の頁が割かれているジネストラの心情が分かりづらく、それを探り探りしているうちに泥沼にはまらされていく感じ。
わたしはいままで影にいたのだしいまも影にいて影のなかでなさけない歩みを進めている。だからもしわたしが、ケンタッキーのあの場所でのわたしの夫ライナス・ランカスターの家に来たばかりの日々をいまふり返るとそこにうつくしい、そこなわれていない場所の光がわたしたちみなを照らすのが見えるなどと言ったりしたら、あなたにはわかるしわたしにもいえる、そんなのは起きたのとはちがったことをねがいはしても起きたことは変えられはしない頭がくり出すごまかしでしかないと。
(本著p28)
ルーシャス・ウィルソンは言い返さなかった。わたしの足首にあるあざのことをかれは知っていたし、痛みがおさまってくるたびにわたしがそれを叩いていることも知っていた。ここへ来てまもないころ、ある晴れた土曜日にわたしがそうやってたたいているところにかれはたまたま入ってきたのだ。わたしがたたいて、血が靴下にしみこむのをかれは立ってながめていた。それがベッドシーツを汚すのをかれは見た。床にしみこむのを。トンネルをとおって垂れていくのを。ケンタッキーの下のほうに向かうのを。ミミズたちに話しかけるのを。
「なにをしているんだ、スー?」と彼はそのときたずねた。
「旅をしているんです、ミスタ・ルーシャス・ウィルソン」とわたしはそのときこたえた。
「わかった」とかれはそのとき言った。
不気味 というのはまちがっていなかった。(本著p40)
このへんもわかってから読むとああ・・・なるほど・・・と思うが、最初は訳分からんかった。
訳者あとがきで、白人男性が黒人女性を語り手に起用することは、人種差別に敏感なアメリカではきわめて稀って書いててびっくり。でも考えてみりゃ日本で在日の人を日本人作家が主人公にして書いたらなんか言われたりする気はするなあ。
ただ本著は別に奴隷制に対する批判、とかそういう類のもんでもなくて、あくまで自分の中に浮かんだアイデアを生々しく肉付けしました、というもんだと思う。その現実の問題に対するスタンスは『この世界の片隅に』と近い。あれは事実考証による再現の方向性だから、作品の毛色は違うけど。
置き去りにしてきたと思ったすべてのものが、明日と呼べるんじゃないかといまだに思っていたもののまんなかにテントを張って「こっちだぞぉ」とわめく、そんな日がいつか来る。
それで、わたしもここにいる。
(p160)
一番の聞かせどころで来たフレーズ。ジネストラの感覚としてはもう、「いつ」も「どこ」もなくて、だから語りもああなるし足首に傷をつけるし。アルコフィブラスと父の足は、やがてやってくる。そんな日が来なければジネストラも幸せになれるだろうに。
以上。