寝楽起楽

ネタばれには配慮しない、感想/紹介ブログです。毎週1回更新 +α を目指したかった。

遠さ:『隣のアボリジニ 小さな町に暮らす先住民』/上橋菜穂子

獣の奏者エリン』『鹿の王』『守り人』シリーズなど、壮大なファンタジーを描く小説家上橋菜穂子の、民族学研究者としての側面を出した1冊。

とはいっても本書は研究書ではなく、その語り口は子どもでもわかるほどに平易で、しかし大人が読んでも深く楽しめる。こういう文章を書ける時点で、まずもって稀有な書き手さんだと思う。

本書の主題はオーストリア先住民族アボリジニだ。その中でも著者が研究のテーマとしたのは、「昔ながらの伝統的な暮らしを保った」人々ではなく、入植者とともに暮らし、街に溶け込むことを選んだ、タイトルの表現を借りれば「隣の」アボリジニたちである。外見からはまったく区別がつかず、普段の暮らしぶりもさほど特別にも思われない彼ら、しかし調査を進める中で、著者は「白人」と「アボリジニ」の狭間にいる人々ならではの暮らしや言葉に出くわしていく。

 

 英語を話し、ホテルのパブで騒ぎ、トラックを運転し、白人とほとんど変わらぬ暮らしを営み、両親や祖父母にとっては母語であったはずの言葉さえ失い……それでも、自らを「アボリジニ」であると考え、白人たちからもそう見られている、人々。

 生活の形は白人と同じでありながら、定職もなく、貧しく、どことなく白人と異なる「生活の匂い」を発散している、この人々。
(本書p49)

 

母さんが倒れたとき、その老人が、母さんを支えたの。そして、ベッドに運んで、母さんの額に掌を当てたのよ。その時は、まだ母さんでさえ、自分が妊娠しているとは知らなかったのに、彼は「彼女は、赤ん坊を産むだろう」って言ったのよ、そして、母さんの額から掌を放したの。……そうしたら、彼の掌から、まるで車のウィンド・スクリーンが粉々に割れたようなガラスの破片がいっぱい出てきたのよ。母さんは、行ってはいけない所へ行って、触れてはいけない物に触れちゃったの。
(本書p203)

 

また「著者自身が院生だったときの、オーストラリアでの滞在経験を追走する形で書く」という構成の中で、当時の衝撃をみずみずしく描いているのもよい。「フィールドワークの結果当初描いていた研究テーマが粉々になる」「わけはわからないが、とにかくおもしろい話/できごとに出会う」などの文化人類学あるあるがきちんと描写され、フィールドワークの入門書、として読んでいくこともできる。一方で、教授としての立場から、それらに平易でわかりやすい意味づけをしていくことも忘れない。旅行記、海外の文化への興味、文化人類学への関心などがある人には間違いなくおすすめできる1冊だ。

 

■ごく個人的な深掘り

 

最後に、タイトルの『隣のアボリジニ』についてひとこと、この『隣の』をどこまで私が受け入れられるか、をずっと考えている。

『隣の』が意味するところについて、本書でちゃんと明示される箇所はない(なかったと思う)が、

 

・オーストラリアの中で、白人の隣にいる人たち

・著者の心の中で、隣にいる人たち

・この本を読んだ読者にとって「隣」

 

という3つの意味を内包したものだろう。さて、では、このアボリジニの人たちを、私は「隣」に置けただろうか……? という疑問について、私は明瞭に答えを出せていない。

引っかかっている要因は、たとえば「この本で描かれている人たちは30年前の人々であって、時間にラグがある」「私たち日本人が、アボリジニを『隣』にいる意識を持つことの難しさ」など一般化して説明することも可能だ。が、一番は、ごく私の個人的な、「大学で、近い界隈の人達をテーマにしたにも関わらず、ついぞ自分の『隣』にその人達を置けなかった」という負い目があるのだと思う。隣に置く「べき」論でそれらしく理屈をつけることは今なら可能だが、そもそも、隣には置くべきだから置くのではなく、気づいたら居る、居てほしくないのに居る、以前から居たことに後から気づく、そういうものであって、理屈は後からついてくるべきだと思う。

……と「べき論」で語ってしまう時点で、たぶん私は本来的に、このへんのことを了解できていない。では、どうやったら、理屈ではなく、「隣」に居ることに気づいたりするものなのか? ということは本書で描かれているので、気になった人は読んでみてもらえれば。

 

 

 

ではまた。