寝楽起楽

ネタばれには配慮しない、感想/紹介ブログです。毎週1回更新 +α を目指したかった。

『だれでもない庭 エンデが遺した物語集』 ミヒャエル・エンデ 岩波現代文庫 2015年  

 その人はかれ自身を遺失物収容所へ届け、棚の上にすわった。

 時折、職員に所有者が連絡してこなかったかとたずねる。

 年月がすぎてから、かれは彼自身をうけとった。みつけたのは、かれだったから。

(「うしなわれた人」 本著p63)

 

 所有者が連絡してこなかったら自分のものになる仕組み、海外にもあるのかな?

 

 

 

●あらすじ

はてしない物語』や『モモ』で知られるエンデの未発表の物語集。先の2作の間をつなぐ、「だれでもない庭」なども所収。

 

●感想

「ほかの人も似たこと言ってそうだけど、この人が言うなら特別な意味を帯びる」

 

私にとってミヒャエル・エンデはその位置にいる作家なので、今回は全肯定書評、つうかファンレター? です。

エンデ、ファンタジーの住民的なイメージで勝手に固定してたんですが、本書を読んで「現実を(現実に意味をつける、人間の内的世界を)豊かにする」という目的意識を念頭にファンタジーを書いてた人なんだな、と認識あらため反省しました。

冒頭の編者前書き(ロマン・ホッケさん。エンデの編集者だったらしい。羨ましい)からとても面白かった。

 

 エンデにとり、奇妙なメルヒェンの登場人物やファンタジックなできごとが、主要な関心事ではなかった。(…)つまり、ファンタジーとは、そのものが創造力であり、ファンタジックなアイデアやイメージ世界の源泉であるだけではない、ということだ。それはなによりも、個々のイメージ(絵)や考えに新しい意味が配られる場所なのだ。そこでは、新しいつながりや、そればかりか――いつもわたしがおどろいい

 世界にその意味や意義を与えること。これこそがミヒャエル・エンデにとり、ファンタジーが最も根源的にもっている能力だった。

 

(まえがき2-3より)

 

あとがきに「エンデは物語に象徴的な意味が付与されるまでは納得せず書き直した」旨も書かれてて、めっちゃかっこいい。

 

じつはエンデの本、『果てしない物語』以外読んでないんですが、たしか小学低学年のときのその読書はほんとうに私にとって特別な経験として残ってます。

だから特にそのエッセンスの片鱗がみえた「だれでもない庭」は興味深かった。様々な色で作られる砂漠、一夜にして広がる森、意思をもって形を変える家。最後に読んだの10数年前なのに、「あったあった!」と思えるのも楽しかったです。

 

ただ、エンデ著作を一冊も読んだことのない人にとってはあまりおすすめできないかもしれません。1つ1つちゃんと面白いんですが、未完の小説も多く収められていて、それ自体を楽しもうとすると肩透かしを食らいます。エンデその人に興味がある人向け。

今月の雑誌「MOE」がエンデ特集で、この本を読む層ならそっちもチェックするといいかも。クリアファイルもついてきます。

 

 

この記事を書く上で調べてて、エンデのご逝去が1995年8月と知りました。私は95年5月生まれなので、3カ月は被ることができてたのもなんとはなしに嬉しい。

時空を超えて過去のものを鑑賞できるのが(本に限らず)「作品」の良さではありますが、完全に過去の人が作ったものと、少しでも同じ時を生きられた人とだと、親しみに違いが出る気がします。

宇宙のビッグバンが138億年前だそうですが、その長い歴史の中で同じ時間に居た、居るというのは凄いことですよね。まあエンデさんは私のこと当然知らんでしょうが(笑)。

逆に、たとえば自分が80、90とかの爺さんになった時にえらい良いアーティストを発見してしまったらどうしようか、と最近考えたりしてます。

それこそ3カ月しか彼/彼女のことと被れないかもしれないですし。その後彼/彼女が生み出す作品、あるいは生み出さないことを知る由もなく居なくなるのは怖えなと。その年齢になってみないとわからないでしょうが。

 

今年度中に『モモ」は最低現読みたいな。後『はてしない物語』もあらためて読みたいんですが、自分の中で神格化しすぎてて、なんでもない時に読むのをもはやためらってしまうんですよね。まあいずれ。

 

次取り上げたい本もすでに決まってはいるので、そんなに遠くないうちに更新できるかと思います。

ではまた。