影は、楡の木陰で、こちらを見ていた。
冥い、黄色い目だった。はじめは見ぬふりをしようとした。しかし、無理だった。
釘付けにされ、引き寄せられた。こちらから、近づいていった。声はかけなかった。木陰に入り、そばへ寄ると、影は黙って背を向け、幹をはなれた。日なたに出て、振り向かなかった。そのまま、去っていこうとした。招いているのだった。導かれた。
〈影についていってはいけない〉
わかっていた。それは誰でも知っているはずのことだった。
(p107「行方」より
本のタイトルは、「ごめいてんてんさずかりささめがやつゆき」です。
〇あらすじ
猫の君子に拾われ、繭君を佐左目谷君へとお連れする命を受け、胡瓜や茄子が生きる世界へと旅たつ「 御命天纏佐左目谷行」
影についていきました「行方」
縁日、蝸牛に化かされる「かげろう草紙」
〇考察・感想
たぶん「ごめい」は生まれる話。「行方」は死ぬ話。「かげろう」はどうにもならなさを描いた話、だと、思う。
物語にちゃんとした理屈とか筋書を求める人にはまったくおすすめしないけど、雰囲気重視勢、変な話スキー、とかは多分気に入ると思います。自分は凄く好み。
まず「ごめい」。繭君は「首がまわらない」、胡瓜氏はきゅきゅ、と咳払い、といったそれぞれがそれぞれの自分に合ったしぐさをする中で、主人公は終盤まで名前も名乗らないし、彼の外見はちっとも描写されてこない。
温泉ののれんくぐったら竹藪で、竹藪を通り抜けたらのれんが前にあり、それをくぐったら温泉で、温泉から出たらまた竹藪で、みたいなあたりが一体どういう示唆なのかはまるでわからないけれども、まあとにかくいつの間にか繭君は蛾君へと羽化を果たし、佐左目谷君とも会っていたことが判明して、主人公も名前を自然と名乗れるようになっている。
道は白く乾いて光っていた。まぶしかった。
ここがどこであるのか、わからなかった。どっちへ歩いてゆけばよいのかも。
しかし、ここがどこであってもかまわないと思った。どこらへんであるのでも。どこへ向かってゆくのでも。
そう思ったとき、
〈前へゆけ。〉
と懐から澄んだ声がした。
その声に従って、私は歩き出した。
(p104 「ごめい」の最後)
彼?彼女?の前途が幸福だったら良いなあ。
続いて「行方」。
「あなたは今、なぜ自分はここにいるのか、と思いましたね。」
吹きすさぶ潮風が、責めるように、諭すように、ときおりそうわめいてきかせるのだった。
「まだわからないんですか。」
答えられないでいると、突き放すような鋭い風を送ってきた。
「それなら、よく考えてごらんなさい。」
そして、あるときはこんなふうに続けるのだった。
「じゃあ、なぜあなたは、あそこにいたんですか。ここへくる前。なぜ?それが言えますか?」
やはり答えられないでいると、こう教えてもくれるのだった。
「あのとき、なぜだかあそこにいたように、今あなたは、なぜでもここにいるんですよ。わかりますね?」
(p133-134)
こんな問答夢の中でもされたくない。
影についてって、結果変なとこにいて、ここは冥界かもしれないと思い、自分がなんなのかもわからなくなって、ただ何かを待ちわびているような待ちわびていないような気持ちになり、影さえも去っていってしまう。
一つ一つに何の説明もないんだけど、なんとなく物悲しい。
「かげろう草紙」。
一生懸命書いた草紙が全部売れた、と思ったら小判が草に変わったらそりゃ激怒するし、行った先でその草紙が食料かわりにむしゃむしゃされてたら泣くよなあ。
自分にとって大事なもんが自分にとって無価値なものと等価で交換されて、しかも皆かぶってるからって理由だけで、自分も半ば乗り気半ば強制で仮面をつけてしまう。
得体のしれない雰囲気の中、草を支払って大人気の輪投げ屋に入る主人公。
「これが思い通りにいくのなら、草双紙も思う通りに書けるのか。」
輪を手にしたまま、決められた線を超えないようにして立つ深谷弥の足は竦んで、ぶるぶると震えだす。
ーーさあ、投げるの、投げないの?どうするの?
女人の声が、幾重にも輪が広がっていくように聞こえて、背後に遠ざかった。
深谷弥は振り向かず、湿る縄輪を一つ利き手にもった。
(217-218「かげろう」の最後)
彼は輪を投げてしまうのだろうなあ。
全部読んだはずなのに全容が知れない。
あと表紙の絵も惹かれるもんがある。
以上。