存在はやわらかい、そして転がり、揺れ動く、私は家々のあいだを揺れ動く、私は在る、私は存在する、私は考える故に揺れる、私は在る、存在は転落だ、落ちた、落ちないだろう、落ちるだろう、指が開口部を掻く、存在は不完全である。男だ。このめかしこんだ男は存在する、男は自分が存在するのを感じている。いや、昼顔のように誇らしげで静かに通り過ぎて行くこの洒落男は、自分が存在していると感じていない。
(本著p169より)
〇あらすじ
ある日突然に理由のないむかつき感を覚えるようになった男の日記。
〇考察・感想
この前読んだ
主役になりたい僕らのマニュアル:『人間・この劇的なるもの』 福田恆存 新潮文庫 1960年 - 寝楽起楽
の、クエスチョンにあたる本で、ありとあらゆることが人間の価値観の反映に過ぎないということに気が付いちゃった人を執拗に追ってる。
物の圧倒的な存在感に打ちのめされるようになっていく中盤からが良かった。
高校の現代文の授業で、人間が言語によって世界を分節してて、だから虹が何色かは母国語によって認識が異なる、みたいなことを教わって、もし頭の中の日本語をなにもかも取っ払ってみたら世界はどう見えるのかを考えてた時期があった。
つまり生まれたばっかの赤ちゃんの目線で世界を見る、ということで、誰しもがそんな時はあったはずなんだけど、残念ながらちっとも思い出せない。
なんもかんもが一つになって見えるか、あるいはありとあらゆるものが飛びこんで見えるかのどっちかかな、と漠然と夢想していたけれども、この主人公ロカンタンみたいに、
マロニエは執拗に私の目に迫ってきた。緑色の錆び病が、幹を半分くらいの高さまで冒している。黒く膨れた樹皮は、煮られた革のようだった。マスクレの噴水の小さな水音がそっと耳に忍び込み、そこに巣をつくって、ため息で耳を満たしていた。鼻孔には、緑の腐ったようなにおいが溢れた。(中略)もしも存在するのだったら、そこまで存在する必要があった。黴が生えるまで、膨れ上がるまで、猥褻と言えるまで存在するのだ。
(p213)
こんなんなったら嫌ですね。
小説的に注目したのは、ロカンタンが、物語のごく初期からものすごく細かくあらゆるものを観察してること。
歴史学者(?)としての職業病もあるのだろうが、偏執的ともいえるそうした性格が、描かれているような結果を導いていったのだろう。
調子からして絶対自殺するなと思って読み進めてったら凄く唐突に偉い前向きに終わったのでびっくりした。
しかし、自分の人生に意味を見出すというのは、こんなにも大変なことなのかあ。
以上。