こんな 感
じ で 適
当 な
文章で私って 漢
字 を
作って み
た ら
な ん か
面 白 く
な ら ない
か という思いつき。
改めて自
がち 我
し に
定 つ
想 い
を て
私 私 思
に 考
風 し
な よ
ん う
こ と
くな する
とんなと
だけれども実際生活のうえでは私は対象ではなく背景として存在し、だから強調されていくのも私ではなく私以外の何かが基本になるんじゃねーか、それを文章で表現するとしたらこうなるだろう、という思考順序でこんな記事を書いている。と見せかけて実際には私以外を全部黒字にしたら何か面白くね?っていう思いつきから無理くりに理屈をこじつけてるだけで、上の円が歪んでんのも私の歪みをあらわしていると言うことも出来るがただめんどくさくて妥協したというのが本当のところであり、しかし実際のところこういう事例っていうのは皆言わんだけで結構よくあることなんじゃねーのという気もしている。
「我思う、ゆえに我あり」は、「我が思考している我を思うときその思考している我の存在を我は否定できない」ってことだが、たくさんのものがある中で唯一前景であり対象でもなるのが我という存在なのか。
世界広いんだからもう一個ぐらい同じカテゴリーのものがあってもよさそうなもんだけどな。
例えばかまぼこが私と常に共に同じ位置にあったら、もっと良い世の中になるとは言わんが、少なくともかまぼこについての深い思索は得られる。それがどうした。
あけましておめでとうございました。
以上。