「おふくろ?」
驚いた息子をなだめるようにして、母親はやさしく包み込むような声を掛けた。
――よう帰ってきましたね。
声を発するものは、目の前に坐る猫であった。その声の懐かしさに、彼は取り返しのつかないことをしてしまったと気づいて、猛烈に悔いた。悔いても悔いても、もはやそれをどうすることもできなかった。科あれは寒さも忘れて、喉の奥からぐっとこみ上げてくる泪をこらえた。
「帰りました――。」
額ずいて挨拶をし、無沙汰を詫びる息子を、母はあたたかいまなざしで見つめていた。
――お前を待っている間に、猫になってしもうたが。
母は言った。責める調子でないのが、かえって彼の胸を抉った。
(「年男」 p86)
何の因果も説明もなく、出だしからいきなり母が猫。
- 作者: 日和聡子
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2015/09/30
- メディア: 単行本
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○あらすじ
兎にえさをやりたかった 「兎」
人魚と河童と龍の世間 「湖畔情景」
里帰り 「年男」
給食を運ぶエレベーターには男の子が乗っている 「校舎の静脈」
○考察・感想
『御命天纏佐左目谷行』と比べると、ややテーマから遠回りさせられている感。テーマがなにかはわかんないけど。
「兎」は暗い、「湖畔情景」はユーモアあり、「年男」は静かで、この3つは『御名』にもあったような話。「校舎の静脈」のみちょっと毛色が違って、これが一番面白かった。
登場人物全員がちゃんと名前のある人間の世界で、それぞれの生活の一瞬一瞬に潜む、何かの静脈。多分これが、一番日和さんの日常実感に近いんでないかと思う。
中学校、という設定も相まって、なんかずーーっと何かの予感だけがあるような雰囲気。他の作品は軒並み、それが起こってしまったり、起こってしまった後を描いてたりする中で、危ういバランスを唯一保ってる。
○印象に残ったシーン
南畑光子は、寒い廊下の端にいた玖川観喜子と湖原治世のもとへ駆け寄ると、いきなり二人を両腕で抱き寄せ、「ひらたけ!」といった。
抱き寄せられたまま玖川観喜子が、「何それ。」と怪訝な顔で、南畑光子を見た。
「寒いとき、これするといいんだよ。」
南畑光子が言った。
「え?だけえ、何が『ひらたけ!』なん。」
重ねて訊かれて、南畑光子は二人から一旦腕をはなし、大きく首をひねった。
「わからんかなあ。こうして、うじゃっとたくさん寄り集まって育ってる格好だあな、平茸が。こがあなふうにいっぱいひっつき合って、にょおきにょき、べらべらっと、びっしり木から生えとるところでしょうが。」
それをきいて、湖原治世が疑問を呈した。
「それなら、しめじ!じゃだめなん?」
「ひらたけ!だよ、断然。」
南畑光子はそう答えてから、ためしにもう一度、「ひらたけ!」を言った。
(「校舎の静脈」 p171-172)
ずうっとそわそわするような話が続いてからのこれが来るから印象に残るのであって、多分ここだけ抜き出しても「は?」って言われるだけだとは思うんだけども、でも僕はここが一番好きなんです。なんかすげえほっとしたんですよねえー。
以上。凄く久しぶりに記事書いたなーという気がしたけど最終更新から1週間ちょっとしか経ってなくて感覚の狂いを感じる。