寝楽起楽

最近は頑張って読書感想ブログにしてます。

          読んだもの、見たもの、調べたこと、考えたことについて書くブログ          

主役になりたい僕らのマニュアル:『人間・この劇的なるもの』 福田恆存 新潮文庫 1960年

 自己が他人を、いや自分自身をも、明確に見るための演戯と、私はいった。が、見るというのは、たんなる認識でも観察でもなく、見たものを同時に味わうということにほかならぬ。すでに劇の進行について語ったように、意識は先走りしてはならぬのだ。役者は劇の幕切れまで自分のものにしていながら、その過程の瞬間瞬間については、その都度未知の世界に面していなければならぬ。先走りする意識は未来をも見通す。歴史を諦観し観照する。

(本著p34より)

 

 なんの根拠もなく、俺がこう思ってるから、というのみで「ほかならぬ」と断言する姿勢、良い。

 

人間・この劇的なるもの (新潮文庫)

人間・この劇的なるもの (新潮文庫)

 

 

 

 

〇内容要約

 自然本来のままに生きる、ということはありえない。人間は演戯する生き物だ。

また同時に人間は、自らの人生の中にドラマの1シーンのような、ある決定的な瞬間を求めたがる。しかし現実はドラマではなく、だからこそ倦む人がいる。

では果たして、人間は、どのように生きていけば良いのだろうか?

 

 

〇 考察・感想

 文章がきれい。んで薄いのでわりかし勢いでさくっと読める。

 

ただ福田さんは劇にずっと携わってきたらしく、なんでシャークスピアの劇を参照しながらの解説が途中挟まり、いかんせん全くの無知のためその辺の部分はいまいちついてけてないとこもある。

 

あらすじに書いたとおり、人間は物まねをする生き物である、という前提からこの本は書かれている。

なんかどっかで、生まれたての赤ちゃんっていうのはすごく痛みに鈍感?で、怪我をしてもケロリとしてるんだけど、周りの大人が騒ぎ立て「痛そ~」って顔しかめながら手当してくれるのを見て、これが騒ぐようなものだと気づいて泣くようになる、という話を聞いたことがある。

嘘かほんとかは知らんが、まあとにかくそういう基礎がある。

 

「個性のままに生きる」だとか、「自然に生きる」とかいう言説も、実際にはそれらの皮をかぶった演戯に過ぎない、という風に福田さんは書く。つまり人間は演戯から逃れ得ない。では、どのようにそれと付き合えばよいのか。

 

 自分が演戯している、ということについて、無自覚的でのみあってはならない。演戯というのは偶然の連続でしかない自分の人生の中に、ある筋書きにそった必然性を見出そうとするものだが、その効果を理解しないままでいれば、それは他者を自らの物語の中の脇役に貶め、場面を効果的に演出することを強要する。

 

 また同時に、演戯しているということについて自覚的であってもならない。自分が表現しようとしていることをどこまでも追い求めようとすれば、最終的には「作品が終わるように、かれは自己の人生を、みずからの意思のもとに閉じなければならない」。

そこから免れようとしても、自分の人生の意図を阻む最大のものは巨大な社会であり、個人がそれにかなうはずもない。

 

 てなった後、シェークスピアの劇のターンがずっとあって、ここで人生における終わり(=死)について説明してるんですけど、このへんよくわかんないんで省略します。

 

 人生の筋書き、劇の脚本というのはつまり、神的な存在が定めた「全体」という風に言い換えることができる。

 

 我々はその中における部分でしかないので、全体の目を持ちたい、という願望はあるにせよ、実際にそれを試みるべきではない。巨大な全体の中ではちっぽけな部分は消滅するより他ないから。

 

 しかし同時に部分であることを許諾してしまえば、そこに生まれるのは機械のように黙々と浪費される人生。

 

 よって必要なのは、自分が演戯していることに対して(演劇の中で役を演じる役者のように)自覚的であり/かつ無自覚であること、と同時に、あくまでも部分としての我々を出発点としながら、全体との合一を試みること。

 

で、この全体との合一ってとこで、また死が問題になって、生と死は表裏一体のものでーとかなんとかかんとかな話になって終わります。

 

死と生は元来一つであった。その全体の中にいるという自覚の中にこそ、部分としての我々の道がある。

 

 生はかならず死によってのみ正当化される。個人は、全体を、それが自己を滅ぼすものであるがゆえに認めなければならない。それが劇というものだ。そして、それが、人間の生きかたなのである。人間はつねにそういうふうに生きてきたし、今後もそういうふうに生き続けるであろう。

(本著p160)

 

大事なのは、「ひとつの必然を生きようとする激しい意思」であり、また同時に「ひとつの必然のうちで死のうとする激しい意思」でもあるわけですね。

 

 

 多分こんな話なのかな?と思いながら読んだんだけどどうなんでしょうね。

やはしなんとなくしか解ってないと、なんとなく知ったかぶった文章しか書けないなあ。

度し難いのは、二人の人が解説書いてるんだけど、佐伯彰一さんのほうは「あーなるほどなるほど」と思って読んで、坪内祐三さんのほうのは「は?そんな話じゃないでしょ。わかってねーなー」ってこきおろしてる自分が居ることですね。

まずその自分もよくわかってないじゃん、ていう。

 

 

死のうとしなきゃいけない、てとこで、「なれなれしいひとまつげもやすちゃん」という方のこれ↓を思い出しました。

mayugemoyasu - 死にたいのはなし

この人の文章もめちゃ良いのでお暇な人はぜひ。

 

 

 原典に当たるのが一番手っ取り早いと思うんで、ちょっとでも中身に興味持ったら読んでみてください。

なんか凄いことは書いてありそうな本だったんで、自分も多分またいつか読み返します。

 

〇印象に残ったとこ

私たちは労働は奉仕がいやなのである。約束や義務によって縛られたくないのである。秩序や規則が煩わしい。伝統や過去が気に食わない。家族や他人は自分の行動を掣肘する敵としか思われぬ。

(p88)

 

リズム感〇。声に出して読みたい日本語。

 

沈んだ意識の向こう:『水域(上)(下)』 漆原友紀 講談社 2011年

今回は漫画。

 

 

水域 上・下 全2巻セット(アフタヌーンKC)(コミック)

水域 上・下 全2巻セット(アフタヌーンKC)(コミック)

 

 

○あらすじ

 酷暑の夏、少女はマラソンの途中で意識を失い、その最中に村を幻視する。

現実とは異なり雨が降り続くそこに暮らすのは、老人と少年。彼らは一体何者か。村は一体どこなのか。

 

○考察・感想

 漆原さんは『蟲師』の人で、つまりはこの『水域』も読む前から神作品であることは明らかであり、めっちゃ安心して楽しんだ。実際良かった。

 

 意識が「落ちる」とか「沈む」とかいう表現があるように、水と心の深層というのは確かに相性が良くて、そこまでは発想としてはあるけど、じゃあその水の向こう側には何があるの?というところを考えた作品。発想花丸。

 

 少女千波があちら側に行ったのを皮切りにして、せきとめられていた村の記憶が関係者からあふれ出てくる。ダムに沈むのを防げなかった故郷、其処に今も埋もれる行方不明の少年、それら自体はとっても苦いもの。でも、水自体はたそこに悠然としてあるだけ、というような一種のつきぬけが終盤一気に示され(と僕は感じた)、そこに蟲師味を感じた。

 

 表紙だけ見るとなんだか『ぼくらの』とかあっち系の雰囲気で、ちょっと嫌な話なんじゃないの?と敬遠されちゃうかもだけど、実際は全然そんなことないですよ。

もうすぐ夏だし。もう暑いし。空想の雨に打たれてしんみりしませんか。

い つ も の:『女のいない男たち』 村上春樹 文春文庫 2014年

 女のいない男たちになるのはとても簡単なことだ。一人の女性を深く愛し、それから彼女がどこかに去ってしまえばいいのだ。ほとんどの場合(ご存じのように)、彼女を連れて行ってしまうのは奸智に長けた水夫たちだ。彼らは言葉巧みに女たちを誘い、マルセイユだか象牙海岸だかに手早く連れ去る。それに対して僕らにはほとんどなすすべはない。あるいは水夫たちと関わりなく、彼女たちは自分の命を絶つかもしれない。それについても、僕らにはほとんどなすすべはない。水夫たちにさえなすすべはない。

(本著p294より)

 

 女性とジャズとカフェはまじ伝統工芸。

 

女のいない男たち (文春文庫 む 5-14)

女のいない男たち (文春文庫 む 5-14)

 

 

 ○あらすじ

女性運転手と契約した「ドライブ・マイ・カー」

東京生まれの関西弁、関西生まれの東京弁「イエスタデイ」

52歳の本気の恋「独立器官」

ピロートークシェエラザード

狂ってしまった何か「木野」

今はもう居ない彼女ら「女のいない男たち」

以上6編所収。

 

○考察・感想

 長編の息抜きとして書いている短編たちですらこういう話になるから村上さんはすげーよなー。執念を感じる。

 

 そんなかでも、どろっとしたものがあったという点で、「独立器官」と「木野」はわりと好き。まあでも全体として傑作という風ではなく、 村上入門、もしくはファン向けの作品という気がする。

 

 今回6つ読んでみて、彼の書く主人公ってものの見事におんなじ顔してそうだなと思った。それぞれの主人公を入れ替えてみたとしても、最終的には同じような結末に向かうんじゃなかろうか。

つまり彼が書きたいのはそこではないんですよね。何かって言われてしまうと困るけど。一言で説明できないから小説を書くんだ、という風にどっかで村上さん言ってたんで、読めばなんとなく伝わるんじゃないすかねぇ。無理に追う必要もないけど。

 

 『女のいない男たち』であって、『女の出来ない男たち』ではないんだよなあ。後者を書いてくれたら発売当日に買うんだけどなあ。何が出てくるのか予想もつかん。

 

○印象に残ったシーン

 初夏の風を受け、柳の枝は柔らかく揺れ続けていた。木野の内奥にある暗い小さな一室で、誰かの暖かい手が彼の手に向けて伸ばされ、重ねられようとしていた。木野は深く目を閉じたまま、その肌の温もりを思い、柔らかな厚みを思った。それは彼が長いあいだ忘れていたものだった。ずいぶん長いあいだ彼から隔てられていたものだった。そう、おれは傷ついている、それもとても深く。木野は自らに向かってそう言った。そして涙を流した。その暗く静かな部屋の中で。

 そのあいだも雨は間断なく、冷ややかに世界を濡らしていた。

(本著p275-276) 

 

 

 わけわからん、みたいな評価もされることは多いけど、なんとなくこういう印象みたいなものはある程度共有できません?多分これも彼のテーマの一個なんだと思うんだよなあ。

 

以上。

種を明かす:『イリュージョニスト』 シルヴァン•ショメ監督 2011年

www.youtube.com

 

「ぼくのおじさん」で有名なジャック・タチの脚本がアニメ化。

 

 

 


 

〇あらすじ

 手品師の男が田舎で少女に芸見せたらそのまま都会までついてきちゃってどうしよう

 

〇考察・感想

 考えたい問題としては2点あって、一つ目は「なんで手品師は少女の許から姿を消したのか?」です。

 

 少女はずっと手品師の芸を魔法だと信じてるんですね。んで、言葉が通じないから、ほんとは手品だよってことも言えずに、手品師は少女の無邪気に求めるがままにたくさんのものを魔法で(ほんとは購入して)与えていく。

 

 その結果、少女は垢ぬけた一人の都会の女の子になります。ヒールを履いてつまずくことも、都会の子に気後れして道を譲ることももうありません。んで、最終的には、一人の都会の男と恋に落ちることになります。

 

 手品師にとってそれは非常にショックなことだった。女の子が幸せそーに男と歩いているのを見た彼は、自分の商売の種である手品を捨て、相棒のうさぎを野に放し、一人去っていきます。置手紙として残した、「魔法使いは存在しない!」の殴り書きからは、彼の思いのたけが感じられてなんとも切ない。

 

 ただこの、去っていく動機がちょっと視聴時には不明瞭に思えました。父と娘ぐらいに年齢が離れているし、少女に恋をしていた、という話ととるのは描写的には無理があります。

 

 で、いろいろ考えて、手品師的には、少女を自分の種のある手品で、こんな都会にまで連れてきてしまった責任感があったのだろうと。金を捻出するために、洗車のバイトにまで手を出そうとする尽くしっぷりだし。

 

 それが都会の男が出てきて、彼が面倒を見ずとも少女が生きていけそうな目途がついた。もう魔法をかけ続けなくともよくなった、だから彼は魔法の元である手品を捨て、あえて少女に手紙で種を明かすことで(英語を少女が読めるのかはわからないですが)、一人の女性としての独り立ちをさせるわけですな。

 

だから女の子の視点でずっと見ていけば、これはサクセスストーリーになります。ただ映画自体が手品師に寄り添って描かれているせいで、視聴者的には彼が報われなさ過ぎてめちゃつらい。かわいそすぎる。もうちょっとなんとかならなかったのか、というところで二つ目の話につながります。

 

 物語中、一貫して示唆されるのは、手品師をはじめとする大道芸人たちが凋落していくことです。ロックバンドは千客万来な一方で、手品師の講演には閑古鳥が鳴きます。同じホテルに住んでいた腹話術師は、物語終盤では酒におぼれた物乞いになり、商売道具であり、一緒にご飯を食べるほど仲良しだった人形は質屋に出されます。それも、最終的には無料で。

 

 物語の出だしは、映画『イリュージョニスト』が映画中で開演するところから始まります。では終わりがどうかというと、街の明かりが一つ一つ、少女との思い出の場所を順々にたどりながら消えていき、最終的に手品師が講演していた劇場にたどり着きます。

 

最後に残った明かりは劇場の看板。それも消える、と思ったときに、一番はじっこの光がふわっと浮き上がる。多分ホタルか何かだったんでしょうが、見ている側には、それが飛び立つまでそうとはわからなかった。つまり、一種の手品をそこで見せられているわけです。

 

 考えてみると、映画というのは、初めから種が分かっている手品のようなものということもできます。2時間程度で終わる作り話、そうと了解した上で、私たちは映画を楽しみます。

もし全部が全部本当のことだと思ってしまう人がいたら、映画なんてとてもじゃないけど見てらんないでしょう。

 

劇場というのは、現代では映画を見る場所でもあります。つまりタチさん、ひいてはショメは、我々自身がこの手品師である、と言いたかったのではないかと。

もし少女のように、無邪気に物語だけをねだるような存在に甘んじ続ければ、私たちは去ってしまうぞ、そんな警告だと自分は読み取りました。

 

 まあ監督インタビューで、「視聴者がいろいろなことを想像できるように、物語にはあえて余白を残した」と言っている通り、様々な解釈の余地があると思います。

 映画の表現自体もすごく面白いです。定点カメラが頻繁に使用されるんですが、その分僕ら視聴者の視線はそこにいる登場人物の動きに集中することをしっかり把握していて、一人ひとりの動きがめちゃくちゃ丁寧。

 

 見て損はない映画だと思うんで、よろしければぜひ一度どうぞ。以上。

 

 

山のヌシは微笑む:『蟲師 特別編 鈴の雫』 監督:長濵博史 原作:漆原友紀 2015年

およそ遠しとされしもの

下等で奇怪

見慣れた動物達とはまるで違うと思しき物達

それら異形の一群を、人は古くから畏れを含み

いつしか総じて「蟲」と呼んだ

 

記念すべき(?)100記事目らしいです。

 

 

 

 

 

○あらすじ

 山のヌシとなってしまった少女が、人と山のハザマでゆれ、最後に

www.youtube.com

 

○考察・感想

 『蟲師』という作品は、人とは違う、理屈抜きでただ在るモノたち(=蟲)という存在の居る世界を、凄く丁寧に描き出す。だから凄く好きだと思ってきたわけだが、この『筆の雫』は、その「人とは違うモノたち」という自分の認識を、頭からぶんなぐってくれた。

 

 中盤で、主人公であるギンコが、山のヌシの少女カヤに対し、お前さんが山のヌシであってくれてよかった、と語るシーンがある。

山のヌシを人が成せた時代は遥か昔のことであり、もう人は山と一つにはなれないと思っていた、と。

 

 しかし結局、カヤが人の側に触れてしまったがために、山の統治は安定しなくなる。

人からヌシはもはや生まれない、人は山の理から外れていくのだ、と囁く、知性を持った蟲たち(?)に対し、ギンコは「人が山から外れていくことはない。人も山の一部なのだから」と応答する。これにとても虚をつかれた。

 

 

 人間も自然の一部なんだよ、なんて言葉は非常によくある話で、そういった類の本や主張を見聞きする度、それに同意するような立場に自分はこれまで立っていたと思っている。

 

 そんな自分が、この作品の蟲たちのことは、「人とは全く違う理の中でいるモノ」としてしか見ていなかった、ギンコの言葉は、それを気づかせてくれたのだ。

 

 ゆえに多分これまで、僕の目に蟲が写ることも、ましてやヌシになることもなかったのだろう。

他者としてある蟲たちを、どのようにして隣人として引き寄せるかを、今後の課題にしたいと思う。

 

 

もののけ姫とかが好きな人なら『蟲師』は多分絶対好きなので、是非見てみてほしいし、漫画も買ってほしいし、ついでに「ふでの海」の淡幽さんに心奪われればいいと思う。

 

やーしかし100記事か。飽きっぽい自分にしてはよくやったもんだ。文字数にしたら全然ないだろうけど。

 

以上。

古き良き異世界的昭和:『コクリコ坂から』 宮崎吾朗監督 2011年

結構良かった(すごく良くはない)。

 

 

コクリコ坂から [DVD]

コクリコ坂から [DVD]

 

 

○あらすじ

 横浜(?)の港街に住む少女が少年に恋する

 

○考察・感想

 1964年、東京オリンピックの年が舞台ということで、まだまだ古くさーい雰囲気の町並みが強調されるシーンが随所に見られるが、これがとっても良かった。

 

50年も前にもなるともう完全に異世界だなぁという感じ。無論アニメだから事実と異なる部分もあろうが。ベッタリと油のついたような背景の凄さはジブリの特権という気がする。

 

 

 ストーリーは、まあ別に普通に見れるんだけど、もうちょっと見せ方なんかあったんじゃないかなあ。

 

メルが布団の中で泣いて、そこで話は終わるんかな?と思いきや、カルチェラタンっつう明治から建ってる、学校の由緒ある建物の取り壊し反対運動の話が続いて、ああこの話でいくんかーと思ったら突然恋がまた全面に出てきて、全体としてせわしない。

 

一個一個の見せ方についても同じ。ナウシカとかラピュタとか、凄い名作だと自分は思ってるジブリ作品って、余韻を残したシーン移動が上手い印象がある。

 

もしかしたらポニョぐらいからのジブリの傾向かも知れないんだけど、ばっさばっさと場面を切り替えられちゃうことが特に序盤に多くて、もっとゆっくり見させて欲しい気持ちになった。

 

 あと、絵描きさん?ウィキペディアみたらアニメオリジナルのキャラみたいなんだけど、結局あの人の役割ってなんだったの?というのが疑問。

 あの絵だけ?だとそんなにインパクト与えることに成功してないし、なんかとりあえずこういうキャラが欲しいから出しとけ、みたいな感じはちょっと嫌い。

 

 

 でも全体としては上手くまとめられてる作品だと思います。『ゲド戦記』も一応こないだみたんだけど、あれはいいとこ原作の名前で売名した三流映画、ぐらいなもんなんで、吾朗さん凄い頑張ったのでは?

 

 

 

消える魔法の行方:『ゲド戦記3 さいはての島へ』アーシュラ•K.ル=グウィン 清水真砂子訳 岩波少年文庫 2009年

 エンラッドでは誰もがアレンの父に一目置いており、アレンはその父の息子であった。人々は彼をエンラッドの王アレンと見、支配者の息子アレンと見て、これまで誰一ひとり、アレンをアレンとのみ見てくれる人間はいなかった。彼は自分が今、大賢人の目を畏れているのだとは思いたくなかった。が、まともに大賢人の目を見ることはどうしてもできなかった。その目を見ていると、自分のまわりで世界はぐんぐん大きくなり、エンラッドなどたいしたものではないと思われてくるばかりか、自分自身も取るに足らない存在に思われてくる。大剣人の目から見たら、自分は、暗雲たれこめる海原に転々と島が浮かぶ、そんな広漠たる風景のほんの小さな人影にしか過ぎないのだ。

(本著p20より)

 

 

ゲドが爺さんになっててびっくらこいた。

 

 

さいはての島へ―ゲド戦記〈3〉 (岩波少年文庫)

さいはての島へ―ゲド戦記〈3〉 (岩波少年文庫)

 

 

 

 

○あらすじ

魔法の効力が段々と失われてきて解決のためにゲドが伝説の王の末裔の少年アレン君と旅を始めて闇の王と対決して何もかも解決してわーい。

 

○考察•感想

影との戦い』はゲド自身が己から生じた闇から逃げ、そして受け入れるという話。

こわれた腕環』は闇の国に囚われていた少女をゲドが救い出す(という言葉が適切かはわからんが)話。

そしてこの『さいはての島へ』は、世界が闇に飲まれつつある中で、恐怖を克服しているがゆえに正気でいられるゲドが、その危機に立ち向かうというもの。 

おもしれーなーと思うのは、この旅にはアレンが必要なのを、ゲドが確信していること。

ゲドは闇に魅入られない。がゆえに、闇の王の所在を一人で探し当てることは絶対にできない。

それが成し得たのは、アレンという不安定な存在があってこそなんですね。

成長しちゃったからこそやれないことがある、ていうのが入っているのは、ファンタジーの中では珍しいんじゃないかな?

 

 いわゆるゲド旧三部作を読み終わった感想としては、テーマとしては『影との戦い』、世界観は『こわれた腕環』、物語としては『さいはての島へ』が一番好きですね。多分一番今回のが、普通の王道ファンタジーっぽく読めるんではないかと思います。

 

○印象に残ったシーン

「レバンネン。」彼はもう一度その名をくり返した。「レバンネン。そう、そなたはレバンネンだ。よいか、この世に安全などというものはないし、完全な終わりというものもない・ことばを聞くには静寂がいる。星を見るには闇がいる。踊りというものはいつもがらんどうの穴の上で、底知れぬ恐ろしい割れ目の上で踊られるものさ」

 アレンは両手でハイタカの手を固く握りしめると、深々と頭を下げ、額を彼の手に押し付けた。

 「私はあなたの期待を裏切りました。」彼は言った。「また同じことをするでしょう、あなたに対しても、自分自身に対しても、わたしには十分な力がないのです!」

「いや、そなたはちゃんとした力を持っておる。」魔法使いの声は優しかった。

(本著p228)

 

 道に迷う若者と、それを導く老人、良い。