寝楽起楽

最近は頑張って読書感想ブログにしてます。

                ネタバレには配慮しない感想ブログです。          

静かに脈を打つ:『校舎の静脈』 日和聡子 2015年 新潮社

  「おふくろ?」

 驚いた息子をなだめるようにして、母親はやさしく包み込むような声を掛けた。

――よう帰ってきましたね。

 声を発するものは、目の前に坐る猫であった。その声の懐かしさに、彼は取り返しのつかないことをしてしまったと気づいて、猛烈に悔いた。悔いても悔いても、もはやそれをどうすることもできなかった。科あれは寒さも忘れて、喉の奥からぐっとこみ上げてくる泪をこらえた。

「帰りました――。」

 額ずいて挨拶をし、無沙汰を詫びる息子を、母はあたたかいまなざしで見つめていた。

――お前を待っている間に、猫になってしもうたが。

 母は言った。責める調子でないのが、かえって彼の胸を抉った。

(「年男」 p86)

 

 何の因果も説明もなく、出だしからいきなり母が猫。

 

校舎の静脈

校舎の静脈

 

○あらすじ

兎にえさをやりたかった 「兎」

人魚と河童と龍の世間 「湖畔情景」

里帰り 「年男」

給食を運ぶエレベーターには男の子が乗っている 「校舎の静脈」

 

○考察・感想

御命天纏佐左目谷行』と比べると、ややテーマから遠回りさせられている感。テーマがなにかはわかんないけど。

 

「兎」は暗い、「湖畔情景」はユーモアあり、「年男」は静かで、この3つは『御名』にもあったような話。「校舎の静脈」のみちょっと毛色が違って、これが一番面白かった。

登場人物全員がちゃんと名前のある人間の世界で、それぞれの生活の一瞬一瞬に潜む、何かの静脈。多分これが、一番日和さんの日常実感に近いんでないかと思う。

中学校、という設定も相まって、なんかずーーっと何かの予感だけがあるような雰囲気。他の作品は軒並み、それが起こってしまったり、起こってしまった後を描いてたりする中で、危ういバランスを唯一保ってる。

 

○印象に残ったシーン

 

 南畑光子は、寒い廊下の端にいた玖川観喜子と湖原治世のもとへ駆け寄ると、いきなり二人を両腕で抱き寄せ、「ひらたけ!」といった。

 抱き寄せられたまま玖川観喜子が、「何それ。」と怪訝な顔で、南畑光子を見た。

 「寒いとき、これするといいんだよ。」

 南畑光子が言った。

 「え?だけえ、何が『ひらたけ!』なん。」

 重ねて訊かれて、南畑光子は二人から一旦腕をはなし、大きく首をひねった。

 「わからんかなあ。こうして、うじゃっとたくさん寄り集まって育ってる格好だあな、平茸が。こがあなふうにいっぱいひっつき合って、にょおきにょき、べらべらっと、びっしり木から生えとるところでしょうが。」

 それをきいて、湖原治世が疑問を呈した。

 「それなら、しめじ!じゃだめなん?」

 「ひらたけ!だよ、断然。」

 南畑光子はそう答えてから、ためしにもう一度、「ひらたけ!」を言った。

(「校舎の静脈」 p171-172)

 

 ずうっとそわそわするような話が続いてからのこれが来るから印象に残るのであって、多分ここだけ抜き出しても「は?」って言われるだけだとは思うんだけども、でも僕はここが一番好きなんです。なんかすげえほっとしたんですよねえー。

 

 以上。凄く久しぶりに記事書いたなーという気がしたけど最終更新から1週間ちょっとしか経ってなくて感覚の狂いを感じる。

 

 

穏やかな魑魅魍魎:『御命天纏佐左目谷行』 日和聡子 講談社 2014年

 影は、楡の木陰で、こちらを見ていた。

 冥い、黄色い目だった。はじめは見ぬふりをしようとした。しかし、無理だった。

 釘付けにされ、引き寄せられた。こちらから、近づいていった。声はかけなかった。木陰に入り、そばへ寄ると、影は黙って背を向け、幹をはなれた。日なたに出て、振り向かなかった。そのまま、去っていこうとした。招いているのだった。導かれた。

 〈影についていってはいけない〉

 わかっていた。それは誰でも知っているはずのことだった。

 (p107「行方」より

 

 本のタイトルは、「ごめいてんてんさずかりささめがやつゆき」です。

 

 

御命授天纏佐左目谷行

御命授天纏佐左目谷行

 

 

〇あらすじ

 猫の君子に拾われ、繭君を佐左目谷君へとお連れする命を受け、胡瓜や茄子が生きる世界へと旅たつ「 御命天纏佐左目谷行」

 影についていきました「行方」

 縁日、蝸牛に化かされる「かげろう草紙」

 

 

〇考察・感想

 たぶん「ごめい」は生まれる話。「行方」は死ぬ話。「かげろう」はどうにもならなさを描いた話、だと、思う。

 

 物語にちゃんとした理屈とか筋書を求める人にはまったくおすすめしないけど、雰囲気重視勢、変な話スキー、とかは多分気に入ると思います。自分は凄く好み。

 

 まず「ごめい」。繭君は「首がまわらない」、胡瓜氏はきゅきゅ、と咳払い、といったそれぞれがそれぞれの自分に合ったしぐさをする中で、主人公は終盤まで名前も名乗らないし、彼の外見はちっとも描写されてこない。

 

 温泉ののれんくぐったら竹藪で、竹藪を通り抜けたらのれんが前にあり、それをくぐったら温泉で、温泉から出たらまた竹藪で、みたいなあたりが一体どういう示唆なのかはまるでわからないけれども、まあとにかくいつの間にか繭君は蛾君へと羽化を果たし、佐左目谷君とも会っていたことが判明して、主人公も名前を自然と名乗れるようになっている。

 

 道は白く乾いて光っていた。まぶしかった。

 ここがどこであるのか、わからなかった。どっちへ歩いてゆけばよいのかも。

 しかし、ここがどこであってもかまわないと思った。どこらへんであるのでも。どこへ向かってゆくのでも。

 そう思ったとき、

 〈前へゆけ。〉

 と懐から澄んだ声がした。

 その声に従って、私は歩き出した。

(p104 「ごめい」の最後)

 

 彼?彼女?の前途が幸福だったら良いなあ。

 

 続いて「行方」。

 「あなたは今、なぜ自分はここにいるのか、と思いましたね。」

 吹きすさぶ潮風が、責めるように、諭すように、ときおりそうわめいてきかせるのだった。

 「まだわからないんですか。」

 答えられないでいると、突き放すような鋭い風を送ってきた。

 「それなら、よく考えてごらんなさい。」

 そして、あるときはこんなふうに続けるのだった。

 「じゃあ、なぜあなたは、あそこにいたんですか。ここへくる前。なぜ?それが言えますか?」

 やはり答えられないでいると、こう教えてもくれるのだった。

 「あのとき、なぜだかあそこにいたように、今あなたは、なぜでもここにいるんですよ。わかりますね?」

 (p133-134)

 

 こんな問答夢の中でもされたくない。

 影についてって、結果変なとこにいて、ここは冥界かもしれないと思い、自分がなんなのかもわからなくなって、ただ何かを待ちわびているような待ちわびていないような気持ちになり、影さえも去っていってしまう。

 一つ一つに何の説明もないんだけど、なんとなく物悲しい。

 

 「かげろう草紙」。

 一生懸命書いた草紙が全部売れた、と思ったら小判が草に変わったらそりゃ激怒するし、行った先でその草紙が食料かわりにむしゃむしゃされてたら泣くよなあ。

 

 自分にとって大事なもんが自分にとって無価値なものと等価で交換されて、しかも皆かぶってるからって理由だけで、自分も半ば乗り気半ば強制で仮面をつけてしまう。

 

 得体のしれない雰囲気の中、草を支払って大人気の輪投げ屋に入る主人公。

 

 「これが思い通りにいくのなら、草双紙も思う通りに書けるのか。」

 輪を手にしたまま、決められた線を超えないようにして立つ深谷弥の足は竦んで、ぶるぶると震えだす。

 ーーさあ、投げるの、投げないの?どうするの?

 女人の声が、幾重にも輪が広がっていくように聞こえて、背後に遠ざかった。

 深谷弥は振り向かず、湿る縄輪を一つ利き手にもった。

(217-218「かげろう」の最後)

彼は輪を投げてしまうのだろうなあ。

 

 

 全部読んだはずなのに全容が知れない。

 あと表紙の絵も惹かれるもんがある。

 

以上。 

 

存在狂い:『嘔吐』 ジャン=ポール・サルトル 鈴木道彦訳 人文書院 2010年

 存在はやわらかい、そして転がり、揺れ動く、私は家々のあいだを揺れ動く、私は在る、私は存在する、私は考える故に揺れる、私は在る、存在は転落だ、落ちた、落ちないだろう、落ちるだろう、指が開口部を掻く、存在は不完全である。男だ。このめかしこんだ男は存在する、男は自分が存在するのを感じている。いや、昼顔のように誇らしげで静かに通り過ぎて行くこの洒落男は、自分が存在していると感じていない。

(本著p169より)

 

 

嘔吐 新訳

嘔吐 新訳

 

 

 〇あらすじ

 ある日突然に理由のないむかつき感を覚えるようになった男の日記。

 

〇考察・感想

 この前読んだ

主役になりたい僕らのマニュアル:『人間・この劇的なるもの』 福田恆存 新潮文庫 1960年 - 寝楽起楽

の、クエスチョンにあたる本で、ありとあらゆることが人間の価値観の反映に過ぎないということに気が付いちゃった人を執拗に追ってる。

 

 物の圧倒的な存在感に打ちのめされるようになっていく中盤からが良かった。

 

 高校の現代文の授業で、人間が言語によって世界を分節してて、だから虹が何色かは母国語によって認識が異なる、みたいなことを教わって、もし頭の中の日本語をなにもかも取っ払ってみたら世界はどう見えるのかを考えてた時期があった。

 

 つまり生まれたばっかの赤ちゃんの目線で世界を見る、ということで、誰しもがそんな時はあったはずなんだけど、残念ながらちっとも思い出せない。

 

 なんもかんもが一つになって見えるか、あるいはありとあらゆるものが飛びこんで見えるかのどっちかかな、と漠然と夢想していたけれども、この主人公ロカンタンみたいに、

 マロニエは執拗に私の目に迫ってきた。緑色の錆び病が、幹を半分くらいの高さまで冒している。黒く膨れた樹皮は、煮られた革のようだった。マスクレの噴水の小さな水音がそっと耳に忍び込み、そこに巣をつくって、ため息で耳を満たしていた。鼻孔には、緑の腐ったようなにおいが溢れた。(中略)もしも存在するのだったら、そこまで存在する必要があった。黴が生えるまで、膨れ上がるまで、猥褻と言えるまで存在するのだ。

(p213)

  こんなんなったら嫌ですね。

 

 小説的に注目したのは、ロカンタンが、物語のごく初期からものすごく細かくあらゆるものを観察してること。

 

 歴史学者(?)としての職業病もあるのだろうが、偏執的ともいえるそうした性格が、描かれているような結果を導いていったのだろう。

 

 調子からして絶対自殺するなと思って読み進めてったら凄く唐突に偉い前向きに終わったのでびっくりした。

 しかし、自分の人生に意味を見出すというのは、こんなにも大変なことなのかあ。

 

以上。

ゆるやかに連帯する16編:『小川洋子の陶酔短編箱』 小川洋子編 2017年 河出文庫

 でも、文学の中で起こる偶然を、私はどうしても素通りできないのです。それに出会う時、いつでもささやかな喜びを感じ、いっそう文学を求める気持ちが強くなっています。たぶん本の世界には、私が思うよりもずっと広大で意味深いつながりが張り巡らされているのでしょう。その軌跡の一端を目にすることは、世界の秘密に触れるのと等しいのです。

(本著p8 文庫版によせて編者)

 

 こういうコンセプト。

 

小川洋子の陶酔短篇箱 (河出文庫)

小川洋子の陶酔短篇箱 (河出文庫)

 

 ○あらすじ

河童の恋の相談 川上弘美「河童玉」 

思いがけぬ婦人の躍動 葛西善蔵「遊動円木」 

オペの愛 泉鏡花「外科室」 

何もかも欲しい 梶井基次郎「愛撫」

幻想動物園 中井英夫「牧神の春」

新しさへの合わせ方 木山捷平「逢びき」

ハカナクナル 魚住陽子「雨の中で最初に濡れる」

死者からの取立て 井伏鱒二「鯉」

広がる足跡 武田泰淳「いりみだれた散歩」

行ってしまった多くのもの 色川武大「雀」

日常の色が変わるとき 平岡篤頼「犯された兎」

二年越しの追悼 小池真理子「流山寺」

観察された人達 庄野潤三「五人の男」

楽しく悲しい 武者小路実篤「空想」

カテゴリー不能 日和聡子「行方」

私の場所じゃなかった 岸本佐知子ラプンツェル未遂事件」

 

以上16編所収。

備忘録のためもあって書いてるはずなんだがこれじゃ内容わからんな・・・どうしてこうなった・・・。

 

○考察・感想

 気に入った奴については、それが入ってる本に当たってその本全体でまた紹介したいと思うので、今回は中身については触れられないです。すみません。

 

 ユーモアあって好き→「河童玉」「ラプンツェル未遂事件」「空想」

 驚きあって好き→「遊動円木」

 雰囲気あって好き→「外科室」「愛撫」「牧神の春」「雨の中で最初に濡れる」「鯉」「雀」

 訳わからんけどこれは凄いのではないか→「行方」

 

 こんなもんかな。個人的には日和聡子さんが一番の掘り出し物。「行方」も入ってる『御命授天纏佐左目谷行』(ごめいてんてんさずかりささめがやついき)と『校舎の静脈』を読んだけどこれも良かった。記事書く時間あったら紹介します。

 

 短編を読むときの心構えって長編とはまた違うよなー。長編は頁数多い分それだけモチーフが丁寧に追われる傾向にあるので、やっぱりこっちとしても気持ちそうなる。

 

 短編は、この本では最短は3頁ぐらいかな?で、それだけで完成を目指す分構成がすごく切られてて、読者としてはまだ途中じゃねと思うようなところで突然放り出された結果、途方に暮れるようなことになったりする。場合によっては最初っから置いてかれたりな。

 

 そういうところも含め短編は味わい深いもんだと感じた。

 

○印象に残ったシーン

 唯見れば雪の寒紅梅、血潮は胸よりつと流れて、さと白衣を染むるとともに、婦人の顔は旧の如く、いと蒼白くなりけるが、果せるかな自若として、足の指をも動かざりき。

(中略)

 「痛みますか。」

 「否、貴下だから、貴下だから。」

 かく言懸けて伯爵夫人は、がつくりと仰向きつつ、凄冷極りなき最後の眼に、国手をじっと見守りて、

 「でも、貴下は、貴下は、私を知りますまい!」

 いふ時晩し、高峰が手にせる刀に片手を添へて、乳の下深く掻き切りぬ。医学士は真蒼になりて慄きつつ、

 「忘れません。」

 その声、その呼吸、その姿、その声、その呼吸、その姿。伯爵夫人はうれしげに、いとあどけなき微笑を含みて高峰の手より手をはなし、ばつたり、枕に伏すとぞ見えし、唇の色変りたり。

 その時の二人が状、あたかも二人の身辺には、天なく、地なく、社会なく、全く人なきが如くなりし。

(p50-51「外科室」より)

 

 麻酔なしで貴方に胸を裂いてもらうのでなければ嫌だ、といい、またその手術中に突然劇するその凄絶さ。

 「その声、その呼吸、その姿、その声、その呼吸、その姿」って、同じことを何回も繰り返してるこの表現に今気づいた。

以前『金色夜叉』読もうとして挫折したけど、今なら読めるようになってるかなあ。

 

 父親は、息子たちが頭を空にしている、というより、そんなふうなことを頭の中にいつも居座らせていることを非常に嫌がった。

 「ぼやぼやしている――」

 といった。けれども私たちはも、電車ごっこはやらない。頭の中の絵葉書はもう、父親だって蹴散らすことは出来ない。それで、

 「お前たちは、蛾だ――」

 といったりした。それから、

 「お前たちは、虫だ――」

 ともいった。そういうことをいわねばならない親というものは哀しかったと思う。

 (中略)

 父親が死んでしばらくして、弟がこういった。

 「おやじ、今、何してると思う」

 弟は、そっと打ち明けるように、私に言った。

 「おやじは、伊勢の方に居るよ」

 「ーーどうしてわかる」

 「おやじの小机の上に、鉛筆があって、それに、伊勢市、と金文字が入っているんだ」

 「おやじは誰かの家に居るのか」

 「ああ。小机に坐って、たくさんの紙に絵や字を書いているのさ。まわりは田んぼで、雀がいっぱい来ている」

 「それで、何か話したか」

 「雀の戸籍を作ってる、俺が訊いたときはそういってたな。一枚ずつ、雀の絵が描いてあって、毎日、どれが何をしているか、書きこんでるんだ。舌をちょっと出して、一生懸命書いてたよ。俺達の後生よりいくらかよさそうだな」

 「ああ、いくらかな」

 と、私は言った。

(p192,199-200「雀」より)

 

  多分これ、すげえおっさんになった後の会話、というとこが良い。

  親的には全く役には立たないとされていた、息子達の空想の中で、その死は悼まれている。

 

 兄 僕はきっと自分の道をわき目もふらずに進んで見ますよ。僕にも成算の希望があるのですから、それに向かって。

 妹 いらっしゃい/\、ほんとにいらっしゃい、妾、お兄さんのような人の妹に生まれたのが嬉しくってよ。

 兄(涙ぐむ)余り嬉しいので涙が出ました。

 妹(涙ぐむ)妾も。

 兄 貴方がいなかったらどんなに淋しいでしょう。

       *

 彼はこう書いて来て元気にはなったが涙ぐんだ。彼にはこう云う妹も恋人もないのである。

(p104-105 「空想」より)

 

 他のどの話よりもこれが一番泣ける。