寝楽起楽

ネタばれには配慮しない、感想/紹介ブログです。毎週1回更新 +α を目指したかった。

私と私たち

「私たちは」という主語には「特定の物事について暗に合意を取ることで、集団を形成する」機能と、「その集団に入らないものの排除」という2つの機能が含まれている、気がする。たとえば、「いま私たちは、私たちという言葉に含まれる2つの意味を確認した」と書いて次に進めば、この文にまだ納得できていない人を振るい落とす役割を果たすだろう。ただ、私がここで書きたいのは、その排除の側面ではなく、合意の側面についてである。

 

たとえば「我々日本人がやるべきことは●●である」と言われ、その趣旨に私が賛同できたとする。しかし、そこで「私が賛同できたと思ったこと」と「この発話主体が考えたこと」は、おそらく同じではない。私が●●に賛同できたということは、「我々日本人」の中に私が包摂されたことを意味する。しかし、「我々日本人」を代表する個人としてその集団を個々に切り分けていったとき、それぞれの●●の受け止め方はおそらく異なる。

 

一つ補足として、私がここで言いたいのは「一つの旗の元に集まった集団の中でも、●●と考えている人もいれば、対立する▲▲と考えている人もいる」ことではない。私の主張は、「同じ●●という言葉を、一言一句違わずに全員が賛同できている集団が居たとして、しかし個々の内的経験の中では、●●の受け止め方は異なっている」ということだ。

 

「発した言葉がちゃんと伝わる」という経験は、私にとってたぶんうれしいものだ。そのとき、その場に形成されているのは、一つの「私たち」という集団とみなしてよい気がする。しかし、そこで合意形成がなされたのはおそらく「その言葉の趣旨」にすぎず、「私の内的経験までも含めたそれ」ではない。「私たち」という同じ集団の中に居ても、「私たちを代表する私」と「私たちを代表するあなた」として切り取れば個々は違う存在であり、そこまでを含めて同化することはできない。私の内的経験は、私がこれまでの経験のなかで身につけてきた私だけの文脈に依っており、それを理解できるのは私しかいないし、どんなに説明を尽くしても、それが私が感じている感じのままに人に伝わることはない。だから本質的にはたぶん私は孤独である。

 

と、ここまでで私なりの論理でもって私が孤独であることを立証してみた。ここで、「孤独」という言葉は一般にはマイナスの意味を含むことも多いけれども、私としてはそれを不幸なことではないと思っているっぽい。というか、感覚的には孤独かどうかもよくわかっていないっぽい。

たとえば私はいまこの文章を、小1時間目を閉じても眠れなかったのでしょうがなく、真っ暗な部屋の中で、敷布団にあおむけになって、足を組んで腹のうえにノートパソコンを置いて書いている……というこの一つの経験をこうして文章にしたとき、たぶんだれかは「わかって」くれるんじゃね、という楽観的な気持ちがある。

 

私はここまでの文章を「ほかの人が読んでもわかりやすいこと」よりも、「私の内的な印象に正直であるかどうか」に重きを置いて書いている(このブログにあがっている文章は基本的に全部このスタンスである)。説明が足りないな、と思って更新するとしても、それはあくまで「私が私の言っていることを理解するうえで説明が足りない」から追加する、という向きが強い。今書いているこの文章は、今の私にとって一番わかりやすい言葉で書かれている。そういう意味では、私の書く文章は私フレンドリーではあっても、ユーザーフレンドリーではまったくない。

 

だから、いまこれを読んでいるあなたが「わかんねー」と思うのも「わかった」と思うのも自由だ。ただ、「わかった」と思ってくれたほうが嬉しくはある。でもその「わかりかた」がどんなわかりかたなのかは、私にとっては割とどうでもよくて、それは「その人が私の思考をなにがしかの形で受け取ってくれたこと」というそれ自体に価値を置いているから、というのがありそう。もし、違うわかりかたをされていそうだなと思ったら、また別の説明の仕方をするだけなんだろう。そして、それを繰り返せば「わかって」くれるだろう、という楽観的な感覚も私の中にある。

「わかんねー」と言われてもそれはそれでおもしろい。それは私もあなたのことがわからないであろうことを意味するけれども、わからないことがあるのは悲しいことではなく、むしろ楽しいことだと思う。つまるところ、私にとっては「孤独=わかってもらえないこと」ではなくて「孤独=理解しようとすらしてもらえないこと」なのだろう。「わかんねー」と意思表示してもらえることは、理解しようとしてくれている証でもある。

 

脱線:逆に、もし私のすべてをわかる存在が出てきたとすれば、むしろそれは私の存在意義が消える、という感覚もうすぼんやりとある気がする。「たぶん、ほかでもなく私にしかわからないであろうこと」があることに存在理由をかけてる的な? 感じ? と思ったけど、「私のすべてをわかる存在にわかられてしまった私」という形で存在意義を見出すかもな。あとふつうに「私ってなんなの?」てそいつに聞いてみるのおもしろそう。

 

こうした文章を書く動機は、「私を理解してほしい」のほか、「そうすることによって私が私を深く理解したい」のときもありそう。ただ、今この文章を書き始めた動機はこのどちらでもなくて、「単に気になったから」というのがたぶん一番近い。私を理解すること/されることはあくまで副次的な効果であって、こういう糸口で書いたらおもしろいかも、で書いたらできたものである。

……と、ここまでつらつらなんか書いてみたが、はたしてわかってもらえただろうか?

 

ではまた。

『ほんまにオレはアホやろか』/水木しげる

ゲゲゲの鬼太郎』を描く前までを中心にした水木しげるの自伝本。のべつくまなしに語られるエピソードの一つ一つがやたらと濃ゆい↓

 

学校に馴染めず日がなベンケイガニを眺めて過ごし、入学してみた美術学院は退屈で自分から辞め、誰でも入れるといわれた園芸学校には入試で落とされ、新聞配達と学生生活を平行しているうちに赤紙が届き、最前線に送られて片腕を無くし、いっぽうで村民と仲良くなった結果あわや現地の住民の一人となりそうになり、終戦後には魚屋をやりアパート屋をやりかたわらに漫画を持ち込み……などなど。

 

「俺はこんだけ苦労をしてたんだ」という風でもなく、ニヤニヤと口笛でも吹きながら書いてんじゃねーかな、と思わせる調子なのもよい(実際、特に腕なくすとこなんか苦労なんてもんじゃないと思うのだが)。月並みだけれども、一言でまとめると「生命力が違うなー」とわからされた感じ。

 

見方を変えれば、水木しげるは学校生活にも一般的な労働にも一切なじめないドロップアウト勢だったわけだが、そのことについていっさい思い悩むそぶりを見せないのがこの本の核心であり、水木しげるの際立ったところと思う。社会の流れに頼らずに自分で立つ姿勢は、幼少期から人よりもむしろ自然と触れ合うことを好み、また自然に近いところで暮らす(暮らしているように見える)ラバウルの人々の暮らしを理想と見た結果、養成されたものであるらしい。

 

同じくドロップアウト勢に勇気を与える本でもあると思うのだが、「なんだって好きにやりゃあいいよ」という、やさしい言葉をかけるだけでは終わらないのもいいところ。

 

 虫の中にもいろいろな種類があるように、われわれ人間にも、いろいろな種類があるのだ。トンボにかなきりになれとか、南京虫にミミズになれと、いわれても困る。

(…)自分の好きなことをやるにしても、やはり、なまけていてはダメで、やるからには、なんでも、ねばり強く、努力することが必要である。

 自然界では、どんな虫でもケダモノでも、自分でエサを探して食べるのだ。

(あとがきより。傍点の代わりに太字としました)

 

つまるところ水木しげるがどうやって「エサ」を探してきたか、という記録がこの本であり、その能力については、私はどうやっても足元に及ばんなぁ……と思ったしだい。

 

 

 

(以下蛇足)

ひっさびさに読書感想書いたけど、

 

・タイトルに1行コピー入れるのをやめる(思いついたら後で更新しておく)

・冒頭に本からの引用を書くのをやめる(打つ&引用の後に1行感想書くのが地味にめんどい)

 

とすればわりと思ったことそのまま書いてくだけで公開してけそうかも? 自分の今後に期待。

 

ではまた。

私が「歴史」というものについてどう向き合うか、のド深夜覚書

「歴史そのものは好きだけど、読んでも読んでもかたっぱしから忘れる問題」について最近考えていた。「読んでる間おもしろいならそれでいいじゃん」という考え方もあるのだけれど(実際これまではそう処理してきたわけだけれど)、やっぱし読むからにはちゃんと自分の中に蓄積してった方がよりおもろいのではなかろうか。

 

……という興味関心から、「歴史学における歴史への向き合い方」について、ネットで見られる範囲で寝しなに文章をちょっと読んだところおもしろかったので、それらを引きながら「私が考える、あくまで私のための歴史への向かい方」をまとめる(わざわざ太字にしたのは、これが歴史学のそれとは異なるものであることをわかってほしいからです)。

また、ここから書く「歴史学における歴史への向き合い方」については、歴史の専門家でもないトーシロが雑に(歴史学的な手法を守らずに)つなぎ合わせているものであることにも留意してもらいたい。

 

■歴史は解釈か、事実か

 

歴史については、一般には「結局歴史って事実なのか、解釈なのか」という点が議題にのぼることが多い。ただ、これは歴史学者の中では「歴史とは解釈である」という風に、見解はおおむね統一されているっぽい。

ただし、その「解釈」は、学問的な手法に基づいてさまざまな資料を検証した結果生まれてくるものであって、まったくの荒唐無稽、というわけではない。がゆえに、「大多数/あるいはその年代の解釈において、認識が共通している部分」が、そのときどきの共通見解になっていく、というような感じだと思う。

 

という土台のうえで、歴史学者さんがあれこれ言っているのを見るとおもしろくて、西洋史学の学者さんなんかは、

 

「そもそも西洋史東洋史、という区分自体が日本固有の区分であること」

 

をまず日本の西洋史学的な常識として挙げていて、確かにねとなる。

また別の観点で、川北稔氏は、中高の教育における詰め込み暗記型の授業を嘆き、「現代社会のよってきたる根拠としてのゆえん」を説明することこそが、世界史教育の神髄だと述べていた。

 

ここで、冒頭で私が述べた「歴史が覚えられない」という悩みはまさに「詰め込み暗記ができない」という悩みに言い換えることもできる。という意味で、川北稔の文章は身に突き刺さることも多かった。なんと私は大学で歴史系の学部に居たくせして、中高的な「歴史」から全然脱却できてないわけだなぁ。

てことで、私が向き合うべきは「歴史」ではなく「歴史観」なんだろーなー、というのが、今回得た大きな気づきの一つである。

 

ただ学者さんたちの問題意識は、当然「学問として(日本の)歴史学をどう位置付けるか」という問題と密接に関連する。そのため私という「この先学問として歴史学をやっていく予定は一切ない奴」にとっては、直接の参考にならない話も多々あった。

どんだけ偏った歴史認識を持ってようが、個人で留めておけるなら無害だ。もし学問をやりたいなら、普遍的な何かを目指さなければいけないプレッシャーが存在するけれども、一個人である私はそこはどうでもいいものとして捨て置くことは可能である。

なんで結論としては、あくまで自分の趣味として、自分の歴史観を今後作っていくことを目指す、てことになると思われる。

 

「自分の歴史観を作る」とはいっても、自分で一次資料を漁る気力は正直ない。ただ気力がないとはいえども「これこそが真実だ(これだけを信じとけば大丈夫)」という論調で提出される、一部の「歴史観」には私は乗っかれない(「歴史の真実」という言葉は、私の好きな歴史学からは出てきにくいものだと思う)。しかし、何にも依拠せずに私の中だけで検証のない妄想をして、それを「私の歴史観」として保持するのは抵抗がある。

 

てことで、結局やることはなんも変わらず、きちんと検証がされている(ように私には見なせる)歴史の本を読んで「へー」て言うだけだろう。

けど、まあ、意識が変わっただけでもなんか変わるだろ。知らんけど。今後はそんな感じでやっていきたい。

 

■■以下は今回書くにあたって読んだもの(西洋史学ばっかっすね)

 

■「日本の西洋史学」は特殊か 佐藤公美 西洋史学、2015年、260巻

https://www.jstage.jst.go.jp/article/shsww/260/0/260_56/_article/-char/ja

→12年のイタリア滞在の中で見聞きした、イタリアにおける歴史学と日本の西洋史学との比較をしつつ、現場の歴史学と、共同の未来に向かうグローバルな歴史学、のヒントを論じている。おもろい。

 

■リアルなものを求めてー「日本西洋史学」の道 川北稔 パブリック・ヒストリー、2007年、4巻、p3-12

https://ir.library.osaka-u.ac.jp/repo/ouka/all/66443/

→上で引いたやつ。引いた以外のところも、歴史観を欠如した研究に対して怒っていたりしておもしろい。

 

■(ひょっとしてネットで読めちゃいけない論文なのでは?と思ったので元を張るのは控えたもの)

→「歴史学現代社会の根拠を探り、またそれによって未来を予測する学問」といった見方をすると、「じゃあ、古代史の研究は近現代史の研究よりも優先順位低くね?」という疑問が私は湧く。それに対して、古代ギリシャ史の研究者である藤縄謙三氏の言葉を引き、「歴史とはピラミッドのようなものであって、古代史とは現代にいたるまでの礎石なのである」という言葉を紹介していて、なるほどねとなった。

 

■■読んでないけど面白いんだろうなと思った本

 

 

あと、日本史学でも同じような本があったら読んでみたい。

 

以上

23年私的振り返り&24年に向けて

 

ちょっと前に年始のブログを書いた記憶なのだがいつの間にか12月になり、「じゃあ23年振り返りの記事を書くか~」と思っているうちに31日になった。

ただ、その間何も考えていなかったわけではなく、脳内ではずっと記事をこねくり回していたのだが、まとまらずに今に至る。ので、とりあえず見切り発車で書き始めて、おそらく推敲せずにそのまま出したものが今あなたが読んでいるものです。ということで早速。

 

■■23年振り返り

 

■環境変化①:部署を異動した

 

まず23年で大きかったのは、新卒で配属して以来ずっと居た部署から異動したこと。といっても、書籍編集という職業自体は変わらず、また担当ジャンルも大きな変化はなかったのだが、上に居る人が変わったのは大きい。

「一人ひとりが一国一城の職業だよね」と言われることも多い職業だが、それにしたってこれまで自分が見てきたところと、今の上司が見ているところが違いすぎてびっくりする一年だった。23年はその違いを把握するところまでで終わってしまったが、24年はそのうえで自分はどうやっていくのかを考えないといけないのかもしれない。

なにしろ現在進行形のことなので、この変化が自分にとってプラスだったのかマイナスだったのかの断定はできないのだが、今んとこ、雑に言えばいろいろとおもしれえ感じはしている。

 

■環境変化②:一人暮らし始めた

 

20代後半になってやっと一人暮らしを始めた。が、これは外的な変化としては大きいものの、内的にどこまで作用しているかというと正直よくわからん。

始める前はそれこそ抜本的に生活が変わるもんだと思っていたのだが、やってしまえば慣れるし、実家に居たときと感覚が変わったかというとそうでもない気もする。しいていえば、「一人暮らしをした」という実績を一つ解除したのが収穫というぐらいか。

 

■内的変化:11月からの謎のテンション

 

何がきっかけかなのか判然としないのだが、11月あたりから、一つ頭のネジが緩んだ感覚がある。この結果、以前と比べて

 

・「人生ってなんでもありなんだなあ」と思うことが増えた

・未来だとか計画性だとかそういうのをはじめて考えるようになった

・いろんな判断軸のそれぞれの極が一個ずつ広がった?

・自分を相対的にみることが増えた?

・「まあいっかどうでも」となる割合が増えた?

 

気がしている。これらはそれぞれ緩やかにつながっている事象である。

たとえば「計画性」についていえば、たぶん1年前までの自分はこれを嫌悪していたのだが、「計画も大事ですね」と思うようになってきている感覚がある。が、おそらくその反動で、「計画っていうけど1秒後に死んでるかもわかんねえじゃん」という、なにもかもをどうでもよく思う気持ちも同時に強まっている。

この結果、「計画⇔衝動」という自分の中の極の幅が広がっており、そしてこういう拡張がいろんな軸で起こっている、というのが、11月から私の中で起こっている変化である。

たぶん、この事象にはいい面も悪い面もある。たとえば一年前の自分と今の自分とで比べたとき、社会性がよりあるのは今の自分のほうだ。が、いっぽうで、これまで「そうではありたくねえ」と思っていたものに近くなっている嫌悪感や、また同時に、この先あらゆることがどうでもよくなっていくのではないか(そうなりつつあるのではないか)という懸念がある。今のところ想定できる最悪のルートは、

 

・すべてのことがどうでもよくなる

・どうでもいいがゆえになんでもどうでもよく扱えるようになる

・結果としてどうでもいいなりに楽しめてしまい、惰性で生きる

 

という状態になることだ。私は元来、「どうでもいいからどうでもいいものとしてその場を楽しむ」ていうのは嫌いだったはずなのだが、すでにこの道も若干見えているのがなぁ。今後どうなるのかはわからんのだけれども、今過去の自分が目の前に召喚されたら、仲良くはしてくれないだろうなという感じはする。

 

■■24年どうする

 

上みたいな話はどうでもいいのでここらへんでやめておくとして、こっからは24年何をしたいか、という妄想を書き連ねていきます。

 

■ブログ定期的に書く

 

毎年言っている気がするが、ブログ、特に書評を定期的に更新したい。できれば週1で。読書自体はここ数年もずっとやっているし、紹介したいなと思う本もいくらでもあるので、あとは書く時間を取るか取らないかという話でしかない。以前は

 

「同じ業界に居る、広い意味で利害関係者が素知らぬ顔で『いい本でしたよ』とかいうのどうなん」

 

とか言ったりしていたのだが、それも「考えすぎ」、それこそ「どうでもよいこと」と思うようになってきたので、あとはほんとうにやるかやらんかだけなんだよな。一応「年末年始中に下書きを仕込んでいこう!」という気概だけはあり、ひょっとしたら1月中旬になんかしら公開するかもしれない。出なかったら察してほしい。

 

■音楽関係の目標をなんかしら作る

 

3年前からチェロを習っているのだが、なんとなく一番最初にイメージとしてあった「楽器が弾ける感じ」には到達しつつある。となってしまうと、自分の性格的にここで満足してしまって、それ以上を望まなくなる可能性が高い。

ということで、「目標を作ることが目標」というよくわからんことが目標である。いままでソロでしかやってないし、やっぱオケ入ったりしたほうがいいかもしれんな。

 

■大学で自分がやってたことらへんをもうちょい学んでいく

 

皮肉なことなのかなんなのか、大学に居たときよりも大学から出た後のほうが、学問について考えることが増えた。ただ、私は学生としては本当にダメななーんもしねえやつで、自分の中に学部1年レベルの知識すらないありさまなので、もうちょっとどうにかしたい。自分が研究するなどはどうあがこうとどうせ無理なのでそこは目指さず、趣味として継続的につながりは保っておきたい、というのが目標。

 

■本読む

 

今も別に読んでいないわけではないのだが、もうちょっと量も質も読みようがありそう。冊数で考えるのは賛否あるけど、(仕事で読むもの/再読も含めて)月に15~20程度安定して読む、ぐらいは目標にできそう。

仕事的な意味でも、自分の楽しみ的な意味でも、やっぱりたぶん一番は本なんだよな。

 

■本作る

 

これは仕事の話で、今年はさっぱり本を形にできていないので、仕込んでる奴を形にしていきたい。そのへんはいろんな人の協力が必要不可欠なのが難しいところなのだが……。この世でもっとも不要な職業は原稿を持っていない編集者です。はい。

 

■もっと外出る

 

せっかく一人暮らしで自由だし、もっと外に出ていろいろ吸収したり、広い意味での「外」へのアクションとしてアウトプットしたり、をしたほうがたぶん人生おもろい。

今年は人に誘われたり、チケット譲ってもらったりで知らん人の知らんライブに行ったりすることが多かった。どれもけっこうおもしろかったので、音楽周りを掘っていってもいいのかもしれない。あと映画も観たいんだよな。名作といわれてるやつ100本見るとか、ずっとやりたいという気持ちだけはある。

 

 

こんなもんかな。

では。2023年、みなさんおつかれさまでした。みなさんの2024年が良い年でありますように、良い年であれるよう、やっていきたいもんですね。