寝楽起楽

最近は頑張って読書感想ブログにしてます。

                ネタバレには配慮しない感想ブログです。

ここは地獄、どこでも地獄:『優しい鬼」 レナード・ハント 柴田元幸著 朝日新聞出版 2015年

 むかしわたしは鬼たちの住む場所に暮らしていた。わたしも鬼のひとりだった。わたしは今年寄りでそのころは若かったけれど、じつはそんなにすごくまえの話ではなく、単にわたしにはめていた枷を時が手にとってねじっただけのこと。いまわたしはインディアナに生きているーーこの家でわたしがすごす日々を生きるといえるなら。これなら足が不自由でろくにうごけなくてもおなじこと。よたよたと地をあゆむ生き物。ある晴ればれと明るい朝私はケンタッキーにいた。何もかもおぼえている。わたしはもうすでにこのジゴクの輪に自分の旗を立てた。この住人たちはなにひとつ忘れない。

(p19より)

 

 二度読み推奨作品。

 

 

優しい鬼

優しい鬼

 

 

 

 ○あらすじ

 「パラダイス」と呼ばれた場所に嫁いだ ジネストラ、その夫ライナス、奴隷ジニアとクリオニーの4人が害し害されながら地獄を行く

 

 ○考察・感想

  上の引用を読んでもらえば分かるとおり、全てが語りで構成され、時系列も前後するので本書は非常に読み解きにくい。白状すると自分は途中で挫折し、あとがきで関係性を把握しなおしてから読んだ。けどそれだとやっぱり衝撃は薄くなってしまうので、出来るだけネタバレなしで読むのがお勧め。

 

 「つらかった」とか、「苦しかった」とか、一人称なのに心情をほとんど(一切?)出てこないのが凄く特徴的だと思った。ゆえに大部分の頁が割かれているジネストラの心情が分かりづらく、それを探り探りしているうちに泥沼にはまらされていく感じ。

 

 わたしはいままで影にいたのだしいまも影にいて影のなかでなさけない歩みを進めている。だからもしわたしが、ケンタッキーのあの場所でのわたしの夫ライナス・ランカスターの家に来たばかりの日々をいまふり返るとそこにうつくしい、そこなわれていない場所の光がわたしたちみなを照らすのが見えるなどと言ったりしたら、あなたにはわかるしわたしにもいえる、そんなのは起きたのとはちがったことをねがいはしても起きたことは変えられはしない頭がくり出すごまかしでしかないと。

 (本著p28)

 

 ルーシャス・ウィルソンは言い返さなかった。わたしの足首にあるあざのことをかれは知っていたし、痛みがおさまってくるたびにわたしがそれを叩いていることも知っていた。ここへ来てまもないころ、ある晴れた土曜日にわたしがそうやってたたいているところにかれはたまたま入ってきたのだ。わたしがたたいて、血が靴下にしみこむのをかれは立ってながめていた。それがベッドシーツを汚すのをかれは見た。床にしみこむのを。トンネルをとおって垂れていくのを。ケンタッキーの下のほうに向かうのを。ミミズたちに話しかけるのを。

 「なにをしているんだ、スー?」と彼はそのときたずねた。

 「旅をしているんです、ミスタ・ルーシャス・ウィルソン」とわたしはそのときこたえた。

 「わかった」とかれはそのとき言った。

 不気味   スケアリーというのはまちがっていなかった。

(本著p40)

 

  このへんもわかってから読むとああ・・・なるほど・・・と思うが、最初は訳分からんかった。

 

 訳者あとがきで、白人男性が黒人女性を語り手に起用することは、人種差別に敏感なアメリカではきわめて稀って書いててびっくり。でも考えてみりゃ日本で在日の人を日本人作家が主人公にして書いたらなんか言われたりする気はするなあ。

ただ本著は別に奴隷制に対する批判、とかそういう類のもんでもなくて、あくまで自分の中に浮かんだアイデアを生々しく肉付けしました、というもんだと思う。その現実の問題に対するスタンスは『この世界の片隅に』と近い。あれは事実考証による再現の方向性だから、作品の毛色は違うけど。

 

 置き去りにしてきたと思ったすべてのものが、明日と呼べるんじゃないかといまだに思っていたもののまんなかにテントを張って「こっちだぞぉ」とわめく、そんな日がいつか来る。

 それで、わたしもここにいる。

(p160)

 

 一番の聞かせどころで来たフレーズ。ジネストラの感覚としてはもう、「いつ」も「どこ」もなくて、だから語りもああなるし足首に傷をつけるし。アルコフィブラスと父の足は、やがてやってくる。そんな日が来なければジネストラも幸せになれるだろうに。

 

以上。

 

 

ふわふわしたおじさんの軍団:『僕の名はアラム』 ウィリアム・サローヤン著 柴田元幸訳 新潮文庫 2016年(原著1940年)

 僕が九歳で世界が想像しうるあらゆるたぐいの壮麗さに満ちていて、人生がいまだ楽しい神秘な夢だった古きよき時代のある日、僕以外のみんなから頭がおかしいと思われていたいとこのムーラッドが午前四時にわが家にやってきて、僕の部屋をこんこん叩いて僕を起こした。

 アラム、とムーラッドは言った。

 僕はベッドから飛び出して窓の外を見た。

 僕は自分の目が信じられなかった。

 まだ朝ではなかったけれど、夏だし夜明けもすぐそこまで来ていたから、夢ではないとわかるだけの明るさはあった。

 僕のいとこのムーラッドが、美しい白い馬の上に坐っていたのだ。

(本著p15「美しい白い馬の夏」より)

 

  ゆるいユーモアの短編集。

 

 

僕の名はアラム (新潮文庫)

僕の名はアラム (新潮文庫)

 

 

 

○あらすじ

 頭がおかしいいとこと一緒に馬に乗った「美しい白い馬の夏」

 アホのジョルギおじさんとおつかいにいった「ハンフォード行き」

 最低の農場主で詩人のメリクおじさんと砂漠で農業した「ザクロの木」

 アラムもアホだった「私たちの未来の詩人の一人、といってもいい」

 神秘的なジコおじさんにアドバイスもらった「五十ヤード走」

 鞭うちラブコメ「愛の詩から何からすべて揃った素敵な昔風ロマンス」

 学校中で一番頭がいいディクランの演説「僕のいとこ、雄弁家ディクラン」

 無造作宗教「長老派教会聖歌隊の歌い手たち」

 毎年恒例おやじの鞭うち「サーカス」

 認められた少年たち「三人の泳ぎ手」

 インディアンの車を運転「オジブウェー族、機関車38号」

 おじさんへの老人のありがたい忠告「アメリカを旅する者への旧世界流アドバイス

 きむずかオスローブおじとアラブ人の奇妙な交友「哀れな、燃えるアラブ人」

 ニューヨークへ行け「あざわらう者たちに一言」

以上14編所収。

 

○考察・感想

 親戚に一人は欲しい、「なんかよくわかんないことしてふらふらしてるおっさん」の成分が小説になりました。

 

 そういうおっさんって概して嫌いな人からはすっげえ嫌われるもんだが、これにはそんな存在は居ない。肯定されてる。優しい世界。でもその「ふらふらの方向性」がなんだかやっぱり身近にいる人らと違う感じがする。

 

 アメリカのアルメニア人、というちょっと自分にゃどんな風なのかまるで想像もつかない集団が主になってて、それが却って曖昧模糊とした小説の雰囲気を増幅させている。

 

 

 あとがきを読むと、当時の情勢もあいまって発表当初は「楽観的にすぎる」という批判があったらしい。

 

 ただ、サローヤン自身も決して楽な人生を送ったわけではないことはあとがきにも明示されているし、そうした人達へのアンサーは最後の「あざわらう者たちに一言」で十分示されてる気がする。

 

 信じる、と僕は言った。何を信じるんです?

 何もかもをだよ、と彼は言った。思いつくこと何もかもをだ。左、右、北、東、南、西、二階、一階と四方、内、外、見えるもの、見えないもの、善と悪とそのどちらでもないものとその両方であるもの。それが秘訣なんだ。私はこれに行き着くのに五十年かかったよ。

 それだけでいいわけ?と僕は言った。

 それだけだよ、と伝道師は言った。

 オーケー、と僕は言った。僕、信じますよ。

 君、と宗教の人はいった。君は救われた。もうニューヨークへ行こうとどこへ行こうと、何もかもすらすら楽に行くはずだ。

(p241)

  

  14ある物語中で、哀切を味わうことになるのは「ザクロの木」のメリクおじと「哀れな、燃えるアラブ人」オスローブおじ。

 

 地に足つけろよおっさん、と思うのと同時に、いつまでも夢を見ていて欲しいという感情もあるのが不思議である。

 

以上。

愛の爆弾:『こちらあみ子』 今村夏子著 2014年 ちくま文庫

 スコップと丸めたビニル袋を手に持って、あみ子は勝手口の戸を開けた。ここ何日かは深夜に雨が降ることが多かった。雨が降った翌日は、足の裏を地面から引きはがすようにしてあるかなければならないほどぬかるみがひどかった表の庭に通じる道も、昨日丸一日の快晴のおかげで今朝は突っかけたサンダルがなんの抵抗も受けずに前へと進む。サンダルの縁にへばりついた泥が灰色に固まっているのが目にとまり、すみれを採ったらついでに外の水道でこのサンダルを洗うことにした。

(本著p9)

 

 この出だしからあんな風になるとは。

 

 

こちらあみ子 (ちくま文庫)

こちらあみ子 (ちくま文庫)

 

 

 

○あらすじ 

 なにがなんでもなにが起きてもめっちゃ好き 「こちらあみ子」

 七瀬さんの、芸能人の、恋人「ピクニック」

 おばあちゃんがたった 「チズさん」

以上3編所収。

 

○考察・感想

 体調悪いときに読んだら多分そのまま吐くと思う。

そんぐらい力のある衝撃的な作品だった。今年読んだ本ベスト3に内定すると予言。

 

 別にいわゆるグロ・ホラーとかそのへんを狙ってるわけじゃなく、ただあみ子が生きてるだけなんだけどホントに途中から息が詰まって詰まってしんどかった。なのに読まされてしまうあたり筆力が高すぎる。

 

 こっからちょこちょこねたばれするけど、ほんとにまじでおすすめなんで未読の人は出来れば本屋に直行しておくれ。

 

 「泣いとったじゃろう」

 「うん。でもあれってほんまにいきなりなんよ。あみ子なんにもしてないよ」

 「あみ子」

 「なに」

 「あみ子」

 「なんなん」

 すでに日が暮れていた。兄は腹が痛むのをこらえているような顔をして、口を開きかけてはまた閉じて、結局それ以上はなにも言わずに背を向けた。

(本著p58-59)

 

 この場面で兄に共感しない読者は果たして居るのだろうか。こっちこそ「なんなん」と言いたいのに、あみ子はまるでこちらに理解を示さない。ここの事件を皮切りにして雰囲気はがらりと変わるが、あみ子自身は前半とまるで同じで、それがまた怖いというかなんというか。でも彼女からするとただ普通にしてるだけなんだよなぁ。

 

 解説の穂村弘さんが書いてるように(彼と町田康が解説してるという時点で普通の小説ではないよね)、「ありえないありえない」いうてるうちにいつの間にか、その絶対的な断絶さにこちらは憧れさえ抱くようになってしまう。正しい、とか正しくない、とかを飛び越えていかれる、その恐怖。多分どこからあみ子に感情移入しはじめるかであみ子レベルを診断できると思う。 自分、今でこそそれなりに育ったものの昔はマジで宇宙人だったと常々親から言われて過ごしてるんだが、これ読んでたらそいつが身じろぎするのを感じた。

 

 個人的にお気に入りはカメラをぶん投げるシーン。ずぅっとにこにこしてるようなこの子にもちゃんとそういう感情あるんだな、そりゃそうだな、と思って。あとあみ子の隣の席の子も好き。

 

 「ピクニック」は割合淡々と読んじゃったんだけど、「ルミ」ではなく常に「ルミたち」という群体が、「七瀬さん」を観察している、という書評を読んで後からうげぇーってなった。異物をあざ笑い、排除し、取り込もうとする集団意識の話ってことなんですかね。

 

 「チズさん」は一番謎。この話は果たしてなんなんだ。わからん。

 

以上。

 

一日魔法使い:『メアリと魔女の花』 メアリー・スチュアート著 越前敏弥・中田有紀訳 2017年 角川文庫

 まったく、いやになるくらい、ありふれた名前だ。メアリ・スミスだなんて。ほんとにがっかり、とメアリは思った。なんの取り得もなくて、十歳で、ひとりぼっちで、どんより曇った秋の日に寝室の窓から外を眺めたりして、そのうえ名前はメアリ・スミスだなんて。

 家族中で、なんの取り得もないのは、メアリだけだ。お姉さんのジェニーの髪はながくてきれいで、本物の金みたいな色だし、お兄さんのじぇれミーはハンサムだって、みんながいう。どちらも頭がよくて、どう見てもずっとかわいい。

(本著p7)

 

  映画もみたのでその話もおりまぜます。

 

 

 

 

○あらすじ

 猫に誘われ不思議な花を潰したら魔法が使えるようになり、空を飛んだら魔法の大学を発見してわーい

 

○考察・感想

 上質なおとぎ話。心地よくすっと読めて楽しかった。

最後メアリが完全に冒険の内容忘れちゃうあたりのがやや淋しい。『不思議の国のアリス』は夢オチだけど、アリスはちゃんと夢のことを覚えてるし、お姉さんもそれ聞いて不思議の国を幻視してる。彼女らとメアリの違いはなんだろ?

 

 背の高い雑草が、足もとでさらさらと音を立てたのは、白兎が大急ぎで通っていったのでした――おびえたネズミが、近くの水たまりの中を、水をはねとばして進んで行きましたーー三月兎とその友達が、終わることのない食事をともにしているときの、茶碗のかちゃかちゃ鳴る音が聞こえました。女王が、不運な客を死刑にしろと命ずる甲高い声が聞こえました。

(中略)

 最後に、お姉さんは、このおなじ小さな妹が、やがていつの日にか、一人前の女になったころを想像してみました。アリスは、だんだん成熟していくでしょうが、それでも少女時代の素朴で優しい心を失わず、ほかの小さな子供たちを回りに集めては、いろいろな不思議な話をしてーーおそらくははるか昔の不思議の国の夢の話もしてやって、子ども達の目を輝かせるだろう。

(『不思議の国のアリス』より

 

  でも、冬になって、すべての木が葉を落とすと、カバノキは風の吹きすさぶ高い空を背にして、干しブドウを思わせる濃いむらさき色の枝ばかりになり、風邪がそのあいだを吹き抜けて、何かが飛んでいるような音が聞こえてくる。たくさんの小枝が、走るシカのひづめのようにな鳴り、その上の冬空では、鳥たちがするどい声をあげながら宙返りする。

 けれど、学校の寮に入ったメアリは冬にその林へいくことはめったになく、その音を聞くこともない。

 それに、たとえ聞いたとしても、なんの音だか、もうおぼえてないだろう。

(本著p186-187)

 

 

 

 以前読んだ『オズの魔法使い』の訳者あとがきで柴田元幸さんが、赤毛のアンとの対比で読むとまた面白い、という話を書いていた。

marutetto.hatenablog.com

 

 それを踏まえ、今作もその視点で読んで見ると、アンはあふれ出る妄想力によって日常をファンタジーに変えるが、メアリはファンタジーが向こうからやってくる、という違いがあるかなと。

 また『オズ』のドロシーは結構ニヒルというか、ほっといてもずんずん進んでくようなところがある。対してメアリは率先してお手伝いしようとしたり(失敗するけど)、なんか全体的に素直なイメージ。3人並んでたら見てておもろいのはドロシー、おもろいけどうるさいのはアン、癒しがメアリかな。

 

 映画の話。友情・努力・勝利、みたいな片鱗はあるものの、原作の主題があくまでおとぎなので、どうなるかと思ったがやっぱりそこは大分いじってきてたように思う。

むしろその部分も変えずにただジブリの世界観のまんまやってくれたほうが爽快な作品にしあがったんではないかという気がするけど、ジブリは改変が十八番だから仕方ないっちゃ仕方ない。

 

 多分意図的に、魔法サイドが過剰に悪趣味な形で描かれてるのが一番なんだかなあと思った。自分が凄く承認される場所、という部分だけで懐柔されるんじゃなく、魔法そのものに魅了される描写があったほうが好き。まあ完全に個人の趣味だし、原作にもそんな箇所一ミリもないが。でも最終的に「魔法なんていらない!」て結論に向かうのであれば、そういうシーンはある程度必要なんではなかろうか。総じて、次回作に期待、という出来。

 

 今回は以上です。