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寝楽起楽

最近は頑張って読書感想ブログにしてます。

黄瀬戸茶碗が可愛い/陶これってアリじゃねって話

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(日本のやきもの② 美濃・志野・織部より)

 

↑これ、黄瀬戸茶碗っていうんですけど、めっちゃかわいくない?好きですね~

 

歴史的には、愛知の瀬戸地域が文明の乱やらなんやらの世の不安から陶工たちが移動をはじめて、美濃に至って始めたもの、らしいです。

 

写真だとそうでもないけど、実物みると結構こぶり。んで丸々としてる。そこがなんとも可愛らしい。

 

で考えた。陶これってゲーム開発するの割とありじゃないですかね。

 

刀とか船とかと比べた時に、肌の色は陶磁器の色で決められるし、体型や性格も見た目で決められるし、日本文化ブームだし、中々いい線いくと思うんですよね。

 

て、考えて検索したら、似たようなこと考えてる人いました。

【!?】陶磁器を美少女化したゲームって売れそうじゃない? : まとまとネット速

 

資材は粘土で、プレイヤーは窯元って設定、めちゃ良いと思います。

61番の、かまもとさま~って呼ばせたいってその発想、不覚にもぐっと来ました。

 

 

 

 

 

 

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かわいい(断言)

 

いやあ、でも割とまじでサービス開始されたらやっちゃうだろうな。

どっか検討してたりしないかな。

ベビーカーに乗りたい。

性癖暴露とかそういうのではないです。

 

年の離れた弟がいるせいか(とはいえ彼ももう大きくなってしまって、昔はほっといても後ろついてきたのに今ではこっちが構ってもらってる状態で、自立を感じて寂しい)、なんとなくちっちゃい子がいるとそっちに目がいっちゃうんですが、この前見た子が抜群にベビーカーを楽しんでて凄く良かった。

 

 

両足を外にぬっと突き出して、ジェットコースターに乗ってるかのように手はしっかりお腹の前の安全棒?を握り締めながら、その顔は光り輝いてました。全身で風、感じてます!みたいな。そんな雰囲気。とても良い。

 

 

んでそれみてふと、ベビーカー乗りてえな、と思ったわけです。これ公開して大丈夫ですかね、不安になってきました。

ほんとはツイッターで呟いて終わりにしようかと思ったんですけど、ベビーカー乗りたい、てツイートだけするとガチで心配されるか敬遠されるかの二択だと思ったので、長々経緯を説明できるブログに書いてるんですが、語りに落ちていく感半端ない。

 

GWの際、長野の山の上にある神社に行ってきまして。

長々と登っていく先にあるんですが、後半から完全にただの雪山なんです。

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 これが滑る滑る。行きはよいよい帰りは怖いで、下山してる人たちはもう例外なく転んでいく。

 

ももう途中から完全に諦めて、座って滑って降りてったんですが、それが結構楽しい。

 

で、その楽しさの要因って、勿論スリルとかそういうのもあるとは思いますが、一番は自分の身体を自分で制御してない、という事態そのものだと思うんです。

 

心臓を意識的に止めることは出来ない、ゆえに我々は身体を制御できていない、とか言われたって、現実的な知覚の中では、僕らは歩こうと思わんと歩けないし、打とうと思わないと文字も打てません。

 

自分でない何かに、強制的に動かされる、それは非常に稀で、だから面白い(合氣道とかに通じる話になってきました)。

 

ただこの論法だと、動く歩道とかエスカレーターでいいじゃんってことになっちゃうんですよね。ただあれらに乗ってて気持ちいいかって言われると全然そんなことは無くて、多分あんまり動かされてる感がないからじゃないかと思います。

 

例えばベビーカー、車椅子でも良いですが、に乗るとすると、車輪が石畳の小さな凸凹を噛んだり、後ろから誰かに押されているという感覚がダイレクトに来るんじゃないかと想像されます。

 

動く歩道エスカレーターはそれがない。

あれらにとって大事なのは、乗った人たちをその状態のまま運ぶということで、極端にいえばワープみたいな、瞬きしたら着きました、みたいなそういうのが多分理想。

 

で、多分ベビーカーはそうでない。勿論ワープがあれば子育て中の方々も大助かりだと思いますけど、ベビーカーの目的の第1は当然子育ての負担の軽減にあるわけです。

 

その目的の中にたまたま移動という大きなくくりが有って、エスカレーターとかと重なってるだけで。

だって実際、ワープが発明されたって、ベビーカーって存在はなくなんないだろうし。

ずっとだっこしてるわけにもいかないし、赤ちゃん置いとく場所がいるから。  

 

なんかなんでこんな話になってんだ?今のくだり必要だったか??

 

だから結論としては、身体を制御できない状態っていうのが人間にとっては結構楽しいことで、それを味わうのにベビーカーって最適じゃねって話です。

 

ジェットコースターとか、ああいうのは、恐怖を主軸にしてしまっているのでまた別カテゴリーです。少なくとも自分の中では。

 

この結論の大きな問題は「ベビー」カーであるというそこに尽きますね。

 

車いすでも目的には充分叶うんですけど、車いすに乗りたいっていう発言も別ベクトルでやばいと思いましたんで、こんなタイトルになってます。

 

とここまではネタで書いてんですが、どうも大人用ベビーカーなるものを実際に作った会社があるようで。

 

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世の中はマジで広いですね。

以上。

 

 

 

 

 

世界の認識とその変容の3パターン

①認識は変わっていなかったのに、自分が変容していたパターン

 

 

自分が幼少期を過ごした街にこの前行った。あんなに広いと感じていた道は、実際はめちゃくちゃ小さかった。

 

はた迷惑な話で、あの頃幼稚園から帰る時、皆でわちゃわちゃな横並びを作って歩いていた記憶がある。

 

その凄い多人数で並べた、という記憶をずっと引きずっていたのだけれども、実際は大人が四人居れば肩がぶつかってしまうぐらいの幅しかなかった。

 

 

②認識そのものが変容したパターン

 

 

小学生の頃は、夜家の前の坂道を歩くのが怖かった。

 

お年寄りばかりが住んでいるような所で、早々に皆さん寝てしまうし、申し訳程度についている街灯は弱々しい明かりしか灯さず、無論団欒の声が漏れ聞こえてくることもない。

 

その道を一人で行くのは本当に怖かった。マンホールの下、水が流れる音だけが嫌に大きく響き渡る中、誰かが追いかけてくるのではないか、角から何かが飛び出してくるのではないかと怯えていた頃を思い出す。

 

無論今は全くそんなことはない。なんなら真夜中に自分から家を出ていくことさえある。

あの時暗闇の中に見ていた何かは、果たしてどこにいってしまったのだろう。

 

 

③空白を認識したパターン

 

 

毎日歩いている場所で、ふと目を上げたらたまたま「閉店しました」という張り紙が目に入った。

 

どうも何かの飲食店だったらしいが、一度も入ったことは無いし、そもそもそこに店があることさえ知らなかった。

 

張り紙は閉店以上の情報を語らない。ただ、自分がかつては認識していなかったその場所に実は何かがあって、それが知らない間に失われたという。

 

考えてみるとそのとき自分は、獲得と喪失を同時に経験した、あるいは喪失を獲得したわけで、それはなんだか面白いかなと思う。

 

ついに漫画を買い始めてしまった。

今まで本を買うことはあっても漫画には手を出してこなかった。

 

金銭面が問題、というわけではなく、それを集めてしまうと物理的に家が倒壊する怖れがあるからだ。

 

今住んでいる家は、今は亡き祖父母が何十年も前に建てたものに、新築の家を付け加えた形になっている。

自分の部屋はその祖父母側の、かつて父が使っていたところなのだが、ぶっちゃけ柱とかもう腐っている疑惑がある。

 

加えて、父は「一冊の本で人生が変わることもあるのだから、使う金は惜しむな」という考えの人のため、彼が少年の頃より買い集めてきた書籍群+僕の買った本で、部屋は完全に傾いている。ビー玉がよく転がります。

 

みなさんご存知の通り、漫画は本と違い一冊完結のものが少ない。集めれば重量も増すことは自明で、だからこれまで我慢していたのだけれど、とうとう買ってしまった。

 

とりあえず一万円分。レジで金額をみて心の中でギャって言った。お金は問題ではないって冒頭で話したがあれは完全に嘘。高えよ。

 

漫画へのアクセス手段は今は多くあって、自分はニコニコ静画、マンガワン、comicoを主要に使っている。

 

最初は無料で読めて嬉しい、ぐらいの気持ちだったが、段々無料で読むことに罪悪感を感じ始め、少しでも生活の足しになれば••••••というような気持ちが主な購入の動機。これ、やばい。

 

課金のことをお布施と呼ぶ人々に一歩近づいてしまった気がしていて、しかもなまじっか自己満足的な善意で動いている分、買ったことに対して達成感すらある。ほんとにまずい。

ソシャゲとかガチでやらないようにしないと。

 

とりあえず買うのは第1巻のみ、という制限でやっているため、際限なく求めていくことは避けられそうだが、これが崩れた時が財布と家が死ぬ時だなと思っている。

 

漫画紹介→『悪魔のメムメムちゃん』 四谷啓太郎 ジャンプコミックス

個人的ランキングで今ギャグ漫画日和に並ぶギャグ漫画です。

 

 

 

○あらすじ

えろいことをして魂を取る、サキュバスであるメムメムちゃんは、しかしえろいことが苦手な二頭身。

今日も嫌々ながら、小日向ひょう太の魂を取るべく家に通う。

果たして彼女は万年魂0の悪魔から脱出することができるのか。

 

○見所

メムメムというキャラの全て

 

ギャグ漫画日和がギャグ要素を鍋で煮詰めて出来た煮こごりの一番味が濃い部分をそのまま出してくる感じだとすれば、メムメムは適度なところで火を止め各種調味料で味付けし具も入った完成された料理として出てくる感じ。

 

コマ割りやらセリフやらを効果的に使って、ほらここで笑えよと告げてくるそれにはしかし嫌味がなく、気がつけば吹き出している。

この漫画は笑わせるべく計算されている。

 

ただ、そのギャグの根幹をメムメムというキャラに背負わせているので、彼女がそもそも合わないという人は受け付けないと思う。

 

ニコニコ静画で第0話(読み切り版)〜第2話まで公開されているので、気になる人は是非。

読み切りはまだメムメムの頭身が高く、個人的には二頭身になってからがこの漫画の面白さが際立つので、0話で切らずに2話まで読んで見てほしい。

 

以上。

 

 

22歳になった。

先日誕生日を迎えて22歳になった。

私の父いわく、22歳はこの辺りの曲が必修らしい。

www.youtube.com

 

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で、まあこういう音楽を聞かされていると、僕らより上の世代の人たちとしては必然的に、「今の曲は軽薄でいかん」という話になる。

 

 

母(ちなみに自分と母は同じ誕生日である。すげえ)は、昔の曲には悲しみがあった、という。

 

人生とはまず何よりも悲しみで始まらなくてはいけないし、そうでない私達の世代がおかしいと断じられた。

 

 

先日紹介した

姫野カオルコ『昭和の犬』 幻冬舎 2013 - 寝楽起楽

には、何の前ぶれもなく突然戦争期の記憶を突然思い出して往来で泣き出してしまうような人が、昭和前期にはたくさん居た、と回顧されている。

 

そういった空気はわずか60年の間にすっかり一掃され生まれているのが今の時代で、しかし今の明るさは、根底にある悲しみを無いように見せかけているだけの、空虚な楽しさでしかない、というのが母の主張であった。

 

 

酔っ払いの話なので要領を得なかったが、例えば今自分達がのうのうと生きている陰で、どこかの誰かが不条理に死んでいること、あるいはもっと直接的に、北朝鮮が日本に攻撃してきてそのまま戦争になるシナリオがありうること、そうした世の中にあって、自分がそれを知りながら何もせずにいること、というような諸々が、母にとっては悲しいらしい。

 

個々人の感覚がそもそもの出発点なので、合ってるとか間違ってるとか、そういう基準で考えることは出来ない。

 

どんなに理解したと思えても、真の意味で母の視座を自分が得ることもまた無いだろうが、ただ重要な話だと思えたので、備忘のために記事にしておく。

 

しかし、21世紀の21歳という記録的な年が終わってしまった。

次は22世紀の122歳ですかね。

同年代の皆さん長生きしましょう。

 

記事メモ→「電王戦」5年間で人類は何を目撃した?気鋭の文化人類学者と振り返るAIとの激闘史

ついに名人が電王戦に破れ、これにて戦いも終焉、ということで色々漁っていたところ、こんな記事を発見。

 

news.denfaminicogamer.jp

すっごく面白かった。長いので自分用メモのために要約する。

 

・将棋のAIは、あくまで将棋のルールの枠内でしか将棋を捉えない

 

・それに対して人間は、将棋の外の枠(劣勢になったらいつ投了するか?どんな美しい手を後世に残すか?)といった、情動の部分を重視する

 

・つまり人間はこれまで、将棋に物語を求めてきた(羽生さんが絶対的な王者である,

というような)

 

・プロ棋士たち当人の中には、自分達より絶対的に強い存在としてAIが出てきたことを、また更に将棋の可能性が広がったとして喜んでいる人達がいる。これは、人間とAIの関係を考えるうえで、非常に重要な視点

 

・ちょっとしたバグの除去が人間の予想を超えてコンピュータを強くした→すでに人間の完全な制御という幻想はなくなりつつある

 

・これからの将棋は、コンピュータの判断のもと、それを人間が翻訳する形で強くなっていく世代が登場する(最終的な優劣を、人間の知性ではなく、コンピュータが決める時代、あるいは、エヴァみたいに人間とコンピュータが融合する時代がやってくる?)

 

・近代は神の代わりに人間の理性を置くことで発展した。その理性の部分にコンピュータを置くのは、人間が制御不可能であるという点において、非常に怖いこと

 

・しかしこれは、近代の人々が、捕食対象としての動物たちが、同時に自分達を捕食するものにもなりうるという問題を考え続けていたこととめちゃめちゃ似ている

 

・人間を中心視点に置いた世界、ではない世界が見えつつある昨今にあって、機械を単なる道具として使用するのみに終わるのか、それともそれを超えたところにまで発展していくのか、大きな岐路に人類は立っている

 

 

怖いけど同時にわくわくする話。

私とは別のものが私の視点と融合してある状態ってどんな風なんだろう、と思うけど、そんな難しく考えるまでもなく、既にプロ棋士の皆さんはそういう状況にいてらして、つまりやっぱり極めてる人達っていうのは凄いってことですね。