寝楽起楽

最近は頑張って読書感想ブログにしてます。

                ネタバレには配慮しない感想ブログです。

『少女終末旅行』観て読んだ感想

 

 

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 (原作1巻から)

 

いつもの如く凄いネタバレします。

後未読勢にはよくわからんかも。

 

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少女終末旅行 1 (BUNCH COMICS)

少女終末旅行 1 (BUNCH COMICS)

 

 

 ○あらすじ

 チトとユーリが人類終わった後の都市を生き抜くために旅をする

 

○感想

 2ヶ月ぐらい前にHULUに登録しました。

 

 それで今頃ようやく『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない』観てあの花やべええええええとなり『少女終末旅行』見てつくみずさんやべええええとなってるわけなんですが、あの花は劇場版まだ観てないんで、『少女終末旅行』の感想書きます。

あの花について書くかどうかは未定。

 

 で、『少女終末旅行』について。

 2017年秋にアニメをやり、今年の3月に原作漫画最終巻が発売され、とまだそんなに日数が経ってるわけではないので、どこかで見聞きしたのを覚えている方も多いのではないかと思います。

 『けものフレンズ』とかと併せて「心地よい破滅もの」みたいなジャンルであることが発見されて話題になったりもしてましたね。

togetter.com

(↑でも『灰羽連盟』は「滅びた世界で豊かに生きる」話じゃない気がする)

 

 かわいいタッチの女の子二人が、明日生きていられるかも分からない世界の中でお互いを頼りにしつつ、都市の最上部に行けば何か希望があるかもと漠然と信じて頑張るというお話。

 読者にとって一番のページ捲る動機は「この二人の先にちゃんと未来があるのか」ってとこになると思います。

 ですが、途中たった二人だけ登場するチトとユーリ以外の人類、登場する地図を作ることを生きがいとしていたのに全て紛失してしまうカナザワ、飛行機作って都市を脱出することを目指すも空中分解してしまうイシイ同様、二人の旅路も「絶望と仲良くなる」がテーマになるわけで。

 

 チトとユーリはやっとこさ最上部に辿りつくも、そこには過去の誰かが残した黒い石があるだけ。生き残った人類達が集落を作っていて、暖かく二人を迎えいれてくれる…なんてご都合エンドは当然のように無く、二人は最後に残った食料を食べ、降りしきる雪の中、身を寄せ合って眠りにつく。

 そこから数ページ都市の描写が入った後、ラストで二人が寝た場所に雪がつもり、被っていたヘルメットと鞄が打ち捨てられている、という描写で終わります。

 

 二人の死体等が明確に描かれておらず、また黒い石がひょっとしてもしかすると古代文明の遺産でそれが起動したのかも、という少しの期待の余地を残してくれています。

そのために、

「あそこから二人は宇宙人とかに救われてハッピーエンドに終わったんだよ派」

「話のテンション的に雪が積もって凍死か餓死かしたでしょ派」

「どっちにしろチトとユーリはお互いが居ればそれでいいことになったからハッピーエンドだよ派」

 等々の派閥が生まれているようですが、私は後者二つに所属しています。

 

 だからハッピーエンドだったね、で自分の中で〆て終わりでよかったはずなんですが、どうにももやもやしたもんが残ってて、それが何かということをここ数日考えてました。

 

 そこを突き詰めて出てきたのは、結局チトとユーリの旅には一体何の意味があったのだろうか、という部分なんです。

 

 上で一瞬触れたカナザワは「地図を作る、残す」ことに固執している様子が見え、イシイも「人類の末端に刻む飛行」という言葉や、「誰かに見ていて欲しかった」という言葉から察せられるように、「何かを残す」ことに意識的でいることが伺えます。

そんなカナザワもイシイも、チトとユーリと別れた後どこかで人知れず亡くなったと思しき描写があり、チトたちが都市最後の人類であろうことが意識化されていきます。

つまり彼らのことを、なんらかの形で残していけるとすれば二人以外にいないわけです。

 

 しかし、カナザワからもらったカメラ(そこには文明崩壊前の写真も多数保存されており、とても長く稼動していたことがわかるのですが)は旅路の途中で失われます。

楽天的で今を生きているユーリとは対照的に、本好きで歴史好きなチトは日記を書いていたんですが、それも旅程終盤で焚き火の燃料として燃やされることになります。

 

 ↑このシーン好き

 

 そうしてお互い以外の何もかもを失っていきながら、最上部に託していた希望もついに消え、でも「生きるのは最高だったよね」「見て触って感じられることが世界の全て」と振り返るシーンは感動的ではあるのですが、同時に私はすげえ哀しくなりました。

 

 チトとユーリが、自分達で最上部に行くことを選択した結果の終末としてはあれ以上のものは無いだろうと確信しています。

ですが、最後の人類になってしまい誰もその後の歴史で触れてくれる生き物は居ないかもしれないけど、居てくれる可能性を信じて何らかの「記録」を残す、そんな描写が欲しかったと思います。

俺だって誰かは分からんけど誰かは読んでくれるだろうと思ってこの記事を書いているわけですが、それは別に未来の自分自身でもいいわけだけど、何かは伝わっていってくれるだろうみたいな期待をチトはずっと持って日記を書いてたはずなのに、最終的に「ユーリさえいればいい」になっちゃうのかぁ~~~~という寂しさ

作中に出てくる日記の文面を解読すると、「こんにちは。わたしはちと。」とか挨拶から始めてるものがあったりして、誰かに読まれる前提で書いてたことが伺えるみたいです)。

まああの状況で二人の関係性的にはそれは仕方ないし、重ね重ねあれ以上の終末はないと思うんですけど。

 

 というところまで書いて気づいたんですが、ユーリが美術館に残していった絵、あれを記録として観ることが可能かもしれませんね。

そういえばチトがふと「何かを残していくのはユーリみたいなやつなのかもな」と呟くシーンがありましたし。記録者としての視点で見るとどうしてもチトに着目しがちになってしまいますが、あの時にユーリがその存在になることが示唆されてるのかも。

 

 で、ユーリの話もしたいんですよ。

 どちらかというとチト目線で語られることの多い話だったので、ユーリの性格って掴みきれないこと多くないですか?

 2話目、どっちが多く食べるかで軽く揉めた時にじゃれあいの範疇とはいえチトに銃を向けるとこで「こいつ単なる馬鹿キャラではないのか?」という疑念が生じ、話が進んでくと「やっぱ馬鹿キャラなのか」で落ち着くんですけど、またそれをうっかり古代兵器のビームを発射させて大炎上する都市を見てげらげら笑う姿で「やっぱ単なる馬鹿キャラじゃない、の?」ってなって。

 

 「記憶なんて生きる邪魔だぜ」とか名言も多い、そんな「今を全力で生きる=子供的」である彼女が、二人の間では銃を持つ係=いざとなれば人を殺す役回りであるというのもなんとも。実際に殺した描写は本編中にはないんですけど、本編前は謎。

 

 原作者のつくみずさん的にも、恐らくユーリをどうするか、という点は悩ましいところだったと思うんですよね。その揺れを一番大きく感じるのは、色んな感想を観ると言及してらっしゃる方が居ますが、アニメのEDと原作の最終話の差異です。

 

 アニメのEDなら原作とはあんま関係ない、というのはこの作品に限っては当てはまらず、つくみずさん自らが申し出て一から十までEDつくみずさん一人で作られてるんですよね。

 しかもTwitter上で「アニメ放映前~放送中が丁度最終回を描いてたとこだった」と発言されており、また二人で雪合戦をするというシーンがどちらにもさしはさまれていることから考えると、アニメのEDと原作の最終話は大体同じ時期ぐらいにつくられたものだろうと推察できます。

 

 その二つの違いはどこにあるかっていうと、その雪合戦シーンで、ユーリが大きく口開けて笑ってるか笑ってないか。原作では、ここはユーリが胸の内を告白する場面になってます。

 

 また最終話前話に注目すると、突如ユーリが「死ぬのは怖い」と発言したり、暗闇が怖いと言ったり、握った手が震えていたり・・・と、突然弱さが凄く強調されてるんですよね。

 

 雪合戦のときにしたって、アニメのほうだと「後悔なんてしたってしかたねえぜ!」とか言いそうなんですけど、それじゃ駄目だとつくみずさんは思ったんでしょう。

その路線だとユーリが超然とした存在のようなままで、結局二人はお互いを理解しきれず孤独で終わる、とも読めてしまう。

だからユーリも普通の女の子であるように描ききった。

 

 「わかんないよ!どうすればよかったのかも どうしてこんな世界に二人っきりなのかも」って、チトも同じようなことを言いそうな台詞なんですけど、それをユーリが言ったというのがとても良いです。

 

 書いたらすっきりしました。つくみずさんの次回作がどんなテイストになるのか楽しみです。

 

 以上。

『万引き家族』 是枝裕和監督 2018年

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ネタバレしまくるんで、大丈夫な人だけどうぞ。

後観た直後なんでまわりくどかったりする部分あるかもですけど、それはまあいつものことですね。

 

 

 

 

 

 

○あらすじ

 色んな事情を抱えつつなんとなく寄り合って万引きなどもやりながら暮らしてた血のつながりのない5人がある日虐待受けてた5才の女の子を拾う

 

○感想

 是枝監督の『誰も知らない』は以前見てて、それも育児放棄されてる子供達のお話だったんだけど、あっちは最後までその共同体が崩壊しないってところが一番の肝で、めっちゃ薄ら寒い思いしたのを覚えてる。

 

 それと比較すると『万引き家族』は、ちゃんと(っていう言葉が適切なのかもわからんが)「家族」が白日の下に晒され、駄目になるっていう過程が入るのが一番大きな変化だと思った。

 

 

 その駄目になった時、それぞれが事情聴取を受けるシーン。

 あそこで始めて皆のそれぞれの「家族」への正直な思いが吐露されてって、ああそんなことを思ってたんか、とか、ちゃんと歪ながら彼らなりに家族としてやっていけてたじゃんか、とか観客は見て思うわけですが、それらは全部聴取してる警察官が正論で封殺するんですね。結構腹立ちませんか?あれ。

 

 でも考えてみると、というか考えずとも、あの6人の関係は一般的に変なんです。でもいつの間にかそれを変だと思わないようにさせられてて、それはなんでかっていったら、映画の中で「一般的な家族」が登場するシーンがほぼないからだと思うんですね。

 

 一回樹木希林が元夫の家にお邪魔してお線香あげる場面があって、あそこすっごく違和感覚えたんですけど、あれは樹木希林が珍しく外出してるから、ってわけではなく、ああいう普通の家族が登場することが、映画内の中では不自然だったからなんですね。

 

 「警察が発する正論」という世の中一般の倫理が映画後半で前触れなく登場して、それによってあっという間にバラバラになるのは悲しいなあと思いつつも、どうしようもないという感じもあり。そのどうしようもなさは結局のところ、彼らの形態が普通じゃないよね、てところに改めて気づいちゃうから。

 

 あんだけ丁寧に彼ら6人の描写、絆が深まってく様子とかを見てんのに、それでも「どうしようもない」とか思っちゃうぐらい、「普通の家族観」てのが自分の中に浸透してんだなあ、て帰りの電車CMで、ハンバーグ作ってる家族みながら思いました。

 

 

 是枝監督がパルムドール受賞した、その会見がニコニコで中継されてるのをたまたま観てました。そこで話題になってた、皆で上空の花火を探すのを俯瞰で撮るシーン。あれは確かに良い絵でした。

 言葉以上に、雰囲気とか身振りとかで魅せるのが是枝さんは異常に上手いと個人的に思います。

 『万引き家族』は『誰も』と比べちゃうとちょっと言葉に頼りすぎじゃねーかというきらいもややあったんですけど、それでも最初のシーンの、ごみごみした家でよう分からん関係性の人達が何故か共同生活してる様子とか、「ちょっと見ててみ」っていってラムネ飲んだあと大きなげっぷするとことか、是枝さんのこういうのが観たかった!を満たしてくれて良かったです。

 

 

 こっからは読んでくれなくて大丈夫なんですが、「テレビ上映されるまで待つわ」って言ってる人一定数居て、確かにおっきいスクリーンで観るよりも、家のテレビで生活感に囲まれながらのほうが、却って面白いかもという感じはあります。

 

 あるんですけど、個人的にスクリーンで観た方が絶対良いと思う部分がいくつかあって、上に挙げた花火とか、俯瞰のシーンの部分は勿論、松岡茉優がイメクラ(?)で働くシーンが凄くて、あの店の形式めちゃめちゃエロくないですか?

 

 「完全匿名で性欲だけ発散させたい」みたいな、都合の良さ100%かよと。詳しい人に聞きたいですけど、ああいう店って実在するんですか?

 もし是枝監督オリジナルだったとすると中々に変態ですよね。

 実在してたら多分わりと自分ハマるタイプなんで、気をつけようと思います。まあでも松岡さんだったからこその可能性は高いですけど。

 

 大体言いたいことは書いたので、終わります。

 

 以上。

 

 

読んでなくても語りたい:『『罪と罰』を読まない』 岸本佐知子・吉田篤弘・三浦しをん・吉田浩美』 文藝春秋 2015年 

浩美 そうか、三人称の小説なんだ。なんとなく一人称なのかと思ってた。

篤弘 たしか、主人公はラスコなんとかーー。

岸本 ラスコーリニコフ

篤弘 その名前は、いきなり出てくるんですか?「彼は」ではなく、いきなりラスコール?

岸本 ラスコーリ……ニコフかな

三浦 主人公がラスコなんとかっていうのは知ってた(ドヤ)。

(本著p18)

 

               _人人人人_
               > ドヤ <
                 ̄Y^Y^Y ̄

 

 

 

○内容

 飲み会で『罪と罰』読んだことなくね?ってなった4人が、そのノリで読まないまま読書会したら面白いんじゃね?って言い出し実現した企画。小出しに明らかになっていく情報から内容をあれこれ勝手に妄想する

 

○感想

 特に三浦しをんさんの炸裂ぶりが笑えた。

 

 断片的に集まってくる真実から内容を考えるという作業自体は推理小説っぽくも読める。んだけど、それまで全く出てこなかった登場人物が新しくもらった情報で飛び出してきたりして、もしこれがミステリ小説なら完全に反則だろ、ということが多い。

 

でも推理してる当人たちはそれにめげず、どころかますますエンジンをかけて点と点を(勝手に)つなぎ合わせ、一枚の絵を作り上げていくその過程の面白さ。

 

弘美 ラスコをマークしている警察の人がいるのは確かだけど、なんていう名前だったかなあーー。

篤弘 追いまわすヤツがいることは間違いないんだ?

弘美 だって、それで物語を引っ張ってたから。

篤弘 でも、ラスコの故郷まで追ってくる?くるか、当然。

三浦 来るんじゃないですかね。とはいえ、第三部の始まりは、故郷で気力体力を取り戻しつつあるラスコですよ。お母さんと妹の愛に改めて触れて、都会に残してきたソーニャのことはちょっと忘れがちになる。そこへイリヤの影がーーというろところで第三部は終わりです。

篤弘 要するに「彼も人の子」パートですね。ここで読者の同情も買っておくのかな。

(p93)

 

 読んでて思い出したのは、オモコロで話題になった、『刃牙を全然ワカってない人に「最大トーナメント」を予想してもらった』てやつ。

 

 僕は『刃牙』も『罪と罰』も断片的にしか知らないまま読んでて、どっちかっていうとどんな話なのか一緒に考えるような読み方だったんだけど、多分内容知ってる状態で突っ込みながらのほうが遥かに面白いんだろうと思った。

 

 後本書には、ちゃんと4人が全部『罪と罰』を読んだ後での座談会も収録されてて、このパートが最高。

 

 4人とも読んでない時とは違って、「ドゥーニャがスベをピストルで撃って、弾が頬をかすめるシーン良いよね!」とかあらすじレベルじゃない、めちゃめちゃ具体的な話をしてて、読む醍醐味ってやっぱ個々の具体的なところに降りていけるところにあるなあと。

4人ともプロだし、読み込みが半端じゃない熱量なのも凄い。『罪と罰』が最良のエンタメみたいに思えてくる。

 

 

 自分の中で『罪と罰』を『カラマーゾフの兄弟』と完全に混同してたことを発見。

『兄弟』は通読したんだけど、「何か人殺す話」としてしか記憶になくて、『罪と罰』も「何か人殺す話」ということだけは分かってて、既読の本と未読の本なのに情報量が全く一緒というね。そりゃ勘違いするわ。

 

 じゃあ『兄弟』読んだ意味ないじゃんと思われる向きもあろうが、そんな人には三浦さんのこのあとがきを持って反論とさせていただく。

 

 もしかしたら、「読む」は「読まない」うちから、すでにはじまっているのかもしれない。世の中には、私がまだ手に取ったことのない小説が無数にあります。そして、まだ語られず、私達のもとに届けられていない物語も、これから無数に生まれてくるでしょう。それらはいったい、どんな小説、どんな物語なのか、愛と期待を胸に思いめぐらせるとき、私たちはもう「読む」をはじめているのです。

(…)名作を読んでいないからといって、あるいは、読んだけれど大半を忘れてしまったからといって、恥じたりがっかりしたりすることはないのではないかと思います。読んでいなくても「読む」ははじまっているし、読み終えても「読む」はつづいているからです。そういう「読む」が高じて、気になって気になってどうしようもなくなったときに、満をじしてページを開けばいいのではないでしょうか。本は、待ってくれます。だから私は本が好きなのだと、改めて感じました。

(p290)

 

 良いこというわー。

 

 本著を読んで、ラスコーリニコフ、アリョーナ・イワーノヴナ、ラズミーヒンは忘れるかもしれんけど、「いきなり帰るマン」、「因業ばばあ」、「馬」は多分忘れんし、あと上の言葉もよーく覚えておこうと思いました。まあ、忘れてもまた読めばいいし。

 

 『カラマーゾフの兄弟』で続編出してくれ。

 

以上。

プロフェッショナル・俳句の流儀:『他流試合ーー俳句入門真剣勝負!』(講談社+α文庫)

兜太 でね、そのことを別の角度から言うと、今日あるような俳句の一句一句、これはもともと正岡子規が、歌仙形式ーー後から虚子が連句って言ってますけど、連句の発句を独立させたんですね。それを俳句と呼んだんですけど。連句の発句というのは言うまでもなく、その後に七・七の付けを予定しているわけですよ。

せいこう 必ず付句がある。

兜太 だから当然、そのニュアンスは今でも残っているわけですよ。残影なんていうものではなくて、基礎的なものとして残っていると思います。俳句を作るときに、だれかに呼び掛けて作っているとか、次の付けを想定して作っている。これを私は「挨拶」と言っているんですが、挨拶の心構えで作るというのは大事なことだと思うんです。そうするといい句ができると、迷信みたいに思っていますけどね。とにかく俳句はそもそも挨拶を前提として作られていたんだと、これが大事でしょう。

せいこう ああ、素晴らしい。僕が素晴らしいなんていう権利もなにもないですけど、それはすごいですね。

 (p121-122)

 この辺とかなるほどの嵐。

 

 

 

〇内容

 伊藤園の「お~いお茶新俳句大賞」の選者仲間である俳句の大家金子兜太さんと、いとうせいこうさんが俳句について一生懸命話す。

 

〇感想

 『俳句入門』と銘打ってはいるものの、あくまで金子さんといとうさんの俳句観なので、全体として王道なのかどうかはわからん。

 

なので金子兜太さんについて知りてえ、あるいは知らなくてもすげえ人の話をとにかく聞きてえ、という人にはまず間違いなくお勧め。一般的な俳句論を知りたい、だとちょい微妙。

 

 

 せいこうさんがちゃんと素人の立場に立ってくれててありがたかった。

 

俳句賞の選者を長年務めてるんだから俳句のことを知らないわけはないんだけど、それでも「俳句ってなんだ?」て根本の疑問をずっと持ち得ることが出来てる人なんだと思う。

反して金子さんは自分流で「これはこうだ」という観念がしっかりとある人で、「他流試合」てタイトルだけど実質師匠と弟子の会話見てるみたいな感じ。

教える、教えられるの関係性がわりかしはっきりしてるから、自分みたいな一句も覚えてないど素人でも安心してついてける。

 

 

 そうやってなるほどね~っつって読んでって最後の章、文庫化するにあたって改めて十五年ぶりに対談してるあれはぶっ飛びますね。

完全に兜太さんが達人の境地に達してしまっていて、しめくくりにふさわしいラスボスの風格を漂わせてた。最初から読んでるからこそ覚える、「あそこから変身するんすか」感。

 

 

 俵万智さんの口語短歌の影響は俳句にもあるとか色々面白い部分は多々あったけど、やっぱし本文冒頭にあげた「俳句=挨拶」っていうのはすごいと思った。

 

ある意味では完成させる必要はないんだね。だから五七五の定型に落とし込んでいく術さえ身に着けてしまえば、あとはめちゃめちゃ自由な遊びになると。

 

 ただ兜太さんの俳句、例えば

谷に鯉もみ合う夜の歓喜かな

涙なし蝶かんかんと触れ合いて

なめくじり寂光を負い鶏のそば

 

  こんなんがあるが、これに七七つけろと言われてもそれはムリゲーだよなあ。

 

 あと金子さんは今年の二月に亡くなられてるんだけど、

 

水脈(みお)の果て炎天の墓碑を置きて去る

銃眼に母のごとくに海覗く

湾曲し火傷し爆心地のマラソン

 

 ↑こういう戦争をもとにした俳句も多い。

晩年は平和活動家としても有名で、それ自体にはいろいろ賛否あったようだ。

ただこういう、兵士としての実体験を基に詩を書ける人は金子さんが最後だったと今月号の『俳句』に載っていた。

言い方は悪いけど、それは損失だという気がしている。

 

 

俳句 2018年5月号

俳句 2018年5月号

 

 

『俳句』の金子兜太特集もぜひ一緒に。

 

以上。