寝楽起楽

最近は頑張って読書感想ブログにしてます。

                ネタバレには配慮しない感想ブログです。

いるためにあるコミュニティ:『居るのはつらいよ ケアとセラピーについての覚書』 東畑 開人 医学書院 2019年

  これ(※通過型デイケア)に対して、居場所型デイケアでは、必ずしも「通過」が前提とされない。実際、多くのメンバーさんがデイケアを通して社会復帰していくのではなく、デイケアに留まり続ける。だから、居場所型デイケアはときに、「終の棲家系デイケア」と揶揄されたりもする。

 それでいいのか? といわれちゃいそうだけど、統合失調症だったり、長くひきこもっていた人だったり、あるいは高齢者だったり、社会復帰が必ずしも容易ではない人たちが居場所型デイケアに集まってくるから、どうしてもそうなってしまう。

 彼らは社会に「いる」のが難しい人たちなのだ。だから、僕の仕事は「いる」のが難しい」人と、一緒に「いる」ことだった。

(本著p43  「いる」と「する」 とりあえず座っといてくれ より)

 

  終の棲家系デイケアって、ほんとに界隈の人しか使ってなさそうな用語だ。

 

 

居るのはつらいよ: ケアとセラピーについての覚書 (シリーズ ケアをひらく)
 

 

〇1行要約

 京大大学院博士課程を出たあと「俺は臨床心理に生きる」っつって沖縄に就職した人が人々に触れるうちにケアについてめっちゃ悩む

 

〇感想

 ただ居るだけで肯定される、というとなんだか夢のようなコミュニティのようだし、筆者も、それをある程度意識しつつ書いているように見える。

しかし、桃源郷を真に作れるのであればそれほど良いことはないのだが、残念ながらそう上手くはいくはずもなく。

 

 「ケア」は、するもされるも日常的に頻繁に行われ、デイケアコミュニティにおいては、メンバー(治療を受けている人)とスタッフは相互にお互いを癒やす……が、スタッフたちにとっては、それはどうしようもなく「仕事」でもある。

 

 ゆえにメンバーたちからされる「いらないケア」を受け取らなければいけないこともあれば、「今自分がしていることは本当に正しいのか」と悩むこともある。やがて次々とスタッフは辞めていき、そして、筆者もやがてそのコミュニティを去ることとなる……では、悪いのは本当はなんだったのか?というお話につながっていく。

 

 総評すれば面白い本なんだけど、もうちょい突っ込んで書ける部分が本当はもっとあるんじゃないかという気がする。

 

 「学術書」のつもりで書いていると筆者は言うが、それなら最後に突然資本主義社会との関わりを論じ始めるのではなく、もっと随所随所に伏線を忍ばせるような書き口があったはず。

 

 それぞれのメンバー、スタッフとの関わり合いについても、プライバシーの問題で絶対に書けない部分はともかくとして、「綺麗なものとしてデイケアコミュニティを書きたい」という筆者の気持ちが、筆を止めさせている部分もあるような感じがする。

 目指すところが社会復帰、成長を目指させるセラピーを推奨し、「ただ居るだけ」を許さない社会の緩やかな変革ならば、「居る」ことが難しい人々の在り方について、もっと焦点を当てて書いても良いのではないだろうか。

 

 ただこれについては、読書をすることで非日常的なものを得ることで、自分を成長させたいと願う的な価値観が影響していて、その根底には資本主義がある、みたいな言い方もできるんだよな。書いててマジかって感じだ。

清濁の「濁」はもちろんデイケアの日常の中には様々あったのだろうが、それは普通の人の生活でも同じことだし、「濁」は日常を脅かすものとして機能することがあるけど、筆者の書きたいことはそこじゃないし。とすると、社会に病んでるのは俺のほうということもできるのか。

 

 元々本著を手に取ったのは、ツイッターで話題の「レンタルなんもしない人」(人ひとり分の存在だけが欲しいときに、自分をレンタルするサービスをしてる人)と、この本の著者さんの対談が今度あるって聞いたからなんだけど、油断してたらチケットの予約埋まってた。悲しみと共に終わる。

 

 以上。

空白を埋める:『家(チベ)の歴史を書く』 朴 沙羅著 筑摩書房 2018年

 存在すると思われていない世界の人々は、しかしごく当たり前に生きていて、彼らの過去と現在を生きている。記憶の中で、過去の様々な経験は一つに溶け合っていて、彼らはその経験と共に生きている。(…)誰のために、何のために、私は「家(チベ)の歴史」を書こうと思ったのだろうか。最初はもちろん、私のためだった。私はなぜここにいて、こんな思いをしなければならないのかを知りたかった。けれでおも、もしかしたら「空白」を埋める一助になるのではないか、とも思っている。

 記憶によって書くことが可能になる歴史がある、と私は信じている。

(本著『終わりに』p296-297)

 

 世の中知らないこといっぱい。 

 

 

家(チベ)の歴史を書く (単行本)

家(チベ)の歴史を書く (単行本)

 

 

〇内容

 在日コリアン三世の筆者が自分の一家の歴史をインタビューからひも解く

 

〇感想

 

 

 オーラルヒストリーって基本的にはインタビュイーの語り口を再現しつつ収録するんだけど、この方たち、皆関西弁なんすよね。

それがま~話が生き生きしててね。

こんなに相性いいもんかってのが一つ発見でした。

一個一個のエピソードが凄絶だったりするだけに、余計に。逃げようっつって知らない人についてって、山の中で草食べて過ごした話とかね。

 

 『家の歴史』ってタイトルから、てっきり3世代ぐらいにまたがるもんかと思ったけど、インタビュイーは全員叔父さん・叔母さんで、それがまた興味深かった。

皆さん、「家」って言ったとき、叔父叔母まで含めます?その発想がまずもって自分には無いし。

 

 あと、「済州島四・三事件」をはじめとする歴史について、ある程度こっちが知ってるかのように書いてくるのも考えさせられるところ。

この本を書いた朴沙羅さん自身が、まぎれもなく「在日コリアン」として僕の知らない世界を受容して生きてる証左のように思えました。

勿論多少の補足は入るし、事前知識無くても読み通せるようになってることも付記しておきます。

 

 

 「空白を埋める」ことによって、その周辺の巨大な空白に気が付いた、つうのが今の僕の状態で、もっと話を聞いてみたいですね。

 

 「在日コリアン」というテーマ。

 かつインタビューから歴史を描くオーラルヒストリーの手法。

  どちらもどこかに偏らせるのが非常に容易な材料で、だからあんま読まれることないかもしれない。

 ただそれでこの本を捨てるのはもったいない。

 

 だいいち、偏ってたって面白い本は面白いはずなんですよ。

 有名ツイッタラー(?)のダ・ヴィンチ・恐山曰くですね、思想の偏りに全く別の判断を持ちこむのはおかしな話であると。

 思想は偏っていてもまっとうでいられるっていうのが彼の主張で、良いこと言うなあと思いましたね。 

 

 こういうしんどいテーマのものを読むときには、その人が「まっとう」かどうかっていうのが自分の中では大きな基準なんですが、それでいえば朴さんはこちらが何もいうことないです。

まあ俺の思う「まっとう」が人によってはガチ頭おかしいこともあるだろうけど、そんなんはもう言い出したらきりないし。

 

 3月を0更新で乗り切り、気が付けば新元号も発表されてびっくりなんですが、新年度もこんな感じでちょこちょこ更新していければと思ってます。

 

以上。

 

 

 

聴く・する・語る:『音楽の聴き方』 岡田暁生著 中公新書 2009年

 音楽は決してそれ自体で存在しているわけではなく、常に特定の歴史/社会から生み出され、そして特定の歴史/社会の中で聴かれる。どんなに自由に音楽を聴いているつもりでも、私たちは必ず何らかの文化文脈によって規定された聴き方をしている。そして「ある音楽が分からない」といいうケースの大半は、対象となる音楽とこちら側の「聴く枠」との食い違いに起因しているように思う。私たちは皆、特定の歴史/社会の中で生きている以上、音楽の聴き方もまた、それらからバイアスをかけられるのはいかんともしがたい。自由に音楽を聴くことなど、誰にも出来ない。ただし、自分自身の聞き方の偏差について幾分自覚的になることによって、もっと楽しく音楽とつきあうことが出来るのではないかーーこれが本書において最も私が言いたいことである。

 (「はじめに」より)

 

 当たり前だけど重要。

 

 

音楽の聴き方―聴く型と趣味を語る言葉 (中公新書)

音楽の聴き方―聴く型と趣味を語る言葉 (中公新書)

 

 

〇内容要約

 「聴く・する・語る」が一体だった時代から、近代に入りそれぞれの分業が行われ、かつドイツロマン派やら国民国家の登場に伴い「音楽は国境を越える」っていう観念が支配的になって久しいけど、そろそろ脱却してまた聴いて・語って・やりもする時代になったら楽しくないですか

 

 

〇感想・考察

 単に音楽の聴き方の偏差にだけに終始して終わるのではなく、その歴史的拝啓・思想にしっかりと目を向けている点で労作だと思った。

 

 「意味なんていらねえ、音楽は感じるもんだ!」みたいな派閥の人々にも配慮が見られ、西洋音楽を中心に据えているものの、音楽全般に大変に心が行き届いている。

 惜しむらくはあまりにも音楽アゲをするせいで、他の芸術分野との比較の際にちょっと行き過ぎてる感じがなー。別に貶してるとかいうわけでもなし、愛の表れとして見れば全然許容範囲ではあるんだけど、ちょい気になった。

 

 個人的に一番面白かったのは、説明の際に、当時の音楽家/批評家の言説や、筆者自身の経験を惜しみなくつぎ込まれていること。

 それらを通読することで見えてくるのは、岡田先生自身の文脈を重視する「聴く型」そのもので、こればっかりは読んでみないと得心がいかないところだと思います。

 

西洋音楽史―「クラシック」の黄昏 (中公新書)

西洋音楽史―「クラシック」の黄昏 (中公新書)

 

 

 ↑

 副読本としてこちらも読んだ。

 自分、「第九はジャジャジャジャーン、ではじまるアレ」ぐらいの知識しかないぐらいにはクラシックに疎いんですが(訂正。第九と運命って違うものなんですね、、、)、そんなんでも楽しく読んで「こういう流れなんすね」て把握出来ました。

 歴史系の本って暗黙のうちに初学者を対象から外すことが多くて、この本も「周知のように」とか作者名+作品名とかを知ってる前提で出してきたりとか、そういう本のポイントを稼いでるはずなんですよね。

 にも関わらず私が普通に読めてしまった、というのは、岡田先生の力量のなせる業のような気がします。何を言ってるのかがわかんねーな、てなることが無かった。

 

 

 以上。

遊んだ 読みにくさ無限大

   こんな      感   
 じ で         適   
   当       な   
文章で私って    漢   
   字      を    
  作って    み  
   た   ら
   な     ん   か 
   面    白    く 
   な    ら    ない
   か  という思いつき。

 


               改めて自
             がち        我
                 し       に
           定                つ

         想               い
  を                   て
 私                     私               思
 に                     考
 風                  し
 な                    よ
  ん                う

   こ            と
   くな        する
       とんなと

 

だけれども実際生活のうえではは対象ではなく背景として存在し、だから強調されていくのもではなく以外の何かが基本になるんじゃねーか、それを文章で表現するとしたらこうなるだろう、という思考順序でこんな記事を書いている。と見せかけて実際には以外を全部黒字にしたら何か面白くね?っていう思いつきから無理くりに理屈をこじつけてるだけで、上の円が歪んでんのもの歪みをあらわしていると言うことも出来るがただめんどくさくて妥協したというのが本当のところであり、しかし実際のところこういう事例っていうのは皆言わんだけで結構よくあることなんじゃねーのという気もしている。

 

 

我思う、ゆえに我あり」は、「我が思考している我を思うときその思考している我の存在を我は否定できない」ってことだが、たくさんのものがある中で唯一前景であり対象でもなるのが我という存在なのか。

世界広いんだからもう一個ぐらい同じカテゴリーのものがあってもよさそうなもんだけどな。

例えばかまぼこが私と常に共に同じ位置にあったら、もっと良い世の中になるとは言わんが、少なくともかまぼこについての深い思索は得られる。それがどうした。

 

 

あけましておめでとうございました。

 

以上。