寝楽起楽

ネタばれには配慮しない、感想/紹介ブログです。毎週1回更新 +α を目指したかった。

『ねじの回転』 ヘンリー・ジェイムズ 小川高義訳

郊外の貴族屋敷に住む子供(兄妹)の家庭教師をすることになった田舎者の女の子、しかしその屋敷には幽霊が居て……。という本なのだが、「子供たちも幽霊が見えているはずなのに、見えないふりをしている!」と思い詰めるあたりから語り手である家庭教師の様子がおかしくなっていく。いわゆる「信頼できない語り手」というジャンルに入るのだろう。

 

この本は「その家庭教師から聞いた話を怪談話として披露している男、の話を聞いた男が書いた話」という三重構造であることが出だしに示されている。ラストがやや不可解に終わるのもあり、「結局幽霊って居たの? 居なかったの?」「あれ? これ語ってるのって結局だれだったの?」といった、読み終わってまず疑問に思うところを考えるのがけっこうめんどくさい。しかも、それらは考えても答えが出るようにはなっていないようなので、謎解き的な楽しみ方をする本ではないっぽい。

 

で、じゃあどういう楽しみ方をする本なの? というと、これが私にはよくわかりませんでした!! 家庭教師さんが(勝手に)追い詰められていく感じはけっこうおもしろかったし、ラストも意外性があったんだけど、「おかしくなってしまった人の脳内を描く」がやりたいならもっと工夫の凝らしようがありそう。たとえば、やや退屈気味な中盤までで、「兄妹の愛らしさ」をもっとちゃんと書いてくれたほうが、のちのち不気味に思い出すところとの対比がきいてくる気もする。

 

ただまあ、1898年の発表と古い作品なので、こういうものの先駆けだと思って読めばいいのかもしれない。また、訳者さんのあとがきを見るに、原文はかなり多義的な解釈ができるように書かれているようだ。となると、原著は言葉遊び的な側面も色濃いもので、英語が読めるならそっちを読んだほうがいろいろと楽しいのかもしれない。

(にしても、訳者さん、あとがきで「訳めんどくさかった」という気持ちをあまり隠していなかったのがおもしろかった)。

なお訳文それ自体は、こなれていてかなり読みやすいものだった。

 

それから翌日までは、もう落ち込まずにいられました。これから生徒になる二人のうちの妹のほうに引き合わされてから、なんと幸先のよいことかと喜んでいたのです。グロースさんに伴われていた女の子は、もう見た瞬間に可愛らしいとしか思えなくて、こんな子と知り合いになれるとは、それだけで大変な果報なのでした。

 

後はあとがきを読む感じ、イギリス・ヴィクトリア朝の階級社会のことを想像しながら読むとまた一段深まるのかな。グロースさん(女中)が、ぽっと出の田舎者家庭教師(主人公)に従順なのがよくわかんなかったんだけど、「家庭教師」は「女中」よりも上の立場になるんだね。なるほどね~。

 

 

ではまた。

遠さ:『隣のアボリジニ 小さな町に暮らす先住民』/上橋菜穂子

獣の奏者エリン』『鹿の王』『守り人』シリーズなど、壮大なファンタジーを描く小説家上橋菜穂子の、民族学研究者としての側面を出した1冊。

とはいっても本書は研究書ではなく、その語り口は子どもでもわかるほどに平易で、しかし大人が読んでも深く楽しめる。こういう文章を書ける時点で、まずもって稀有な書き手さんだと思う。

本書の主題はオーストリア先住民族アボリジニだ。その中でも著者が研究のテーマとしたのは、「昔ながらの伝統的な暮らしを保った」人々ではなく、入植者とともに暮らし、街に溶け込むことを選んだ、タイトルの表現を借りれば「隣の」アボリジニたちである。外見からはまったく区別がつかず、普段の暮らしぶりもさほど特別にも思われない彼ら、しかし調査を進める中で、著者は「白人」と「アボリジニ」の狭間にいる人々ならではの暮らしや言葉に出くわしていく。

 

 英語を話し、ホテルのパブで騒ぎ、トラックを運転し、白人とほとんど変わらぬ暮らしを営み、両親や祖父母にとっては母語であったはずの言葉さえ失い……それでも、自らを「アボリジニ」であると考え、白人たちからもそう見られている、人々。

 生活の形は白人と同じでありながら、定職もなく、貧しく、どことなく白人と異なる「生活の匂い」を発散している、この人々。
(本書p49)

 

母さんが倒れたとき、その老人が、母さんを支えたの。そして、ベッドに運んで、母さんの額に掌を当てたのよ。その時は、まだ母さんでさえ、自分が妊娠しているとは知らなかったのに、彼は「彼女は、赤ん坊を産むだろう」って言ったのよ、そして、母さんの額から掌を放したの。……そうしたら、彼の掌から、まるで車のウィンド・スクリーンが粉々に割れたようなガラスの破片がいっぱい出てきたのよ。母さんは、行ってはいけない所へ行って、触れてはいけない物に触れちゃったの。
(本書p203)

 

また「著者自身が院生だったときの、オーストラリアでの滞在経験を追走する形で書く」という構成の中で、当時の衝撃をみずみずしく描いているのもよい。「フィールドワークの結果当初描いていた研究テーマが粉々になる」「わけはわからないが、とにかくおもしろい話/できごとに出会う」などの文化人類学あるあるがきちんと描写され、フィールドワークの入門書、として読んでいくこともできる。一方で、教授としての立場から、それらに平易でわかりやすい意味づけをしていくことも忘れない。旅行記、海外の文化への興味、文化人類学への関心などがある人には間違いなくおすすめできる1冊だ。

 

■ごく個人的な深掘り

 

最後に、タイトルの『隣のアボリジニ』についてひとこと、この『隣の』をどこまで私が受け入れられるか、をずっと考えている。

『隣の』が意味するところについて、本書でちゃんと明示される箇所はない(なかったと思う)が、

 

・オーストラリアの中で、白人の隣にいる人たち

・著者の心の中で、隣にいる人たち

・この本を読んだ読者にとって「隣」

 

という3つの意味を内包したものだろう。さて、では、このアボリジニの人たちを、私は「隣」に置けただろうか……? という疑問について、私は明瞭に答えを出せていない。

引っかかっている要因は、たとえば「この本で描かれている人たちは30年前の人々であって、時間にラグがある」「私たち日本人が、アボリジニを『隣』にいる意識を持つことの難しさ」など一般化して説明することも可能だ。が、一番は、ごく私の個人的な、「大学で、近い界隈の人達をテーマにしたにも関わらず、ついぞ自分の『隣』にその人達を置けなかった」という負い目があるのだと思う。隣に置く「べき」論でそれらしく理屈をつけることは今なら可能だが、そもそも、隣には置くべきだから置くのではなく、気づいたら居る、居てほしくないのに居る、以前から居たことに後から気づく、そういうものであって、理屈は後からついてくるべきだと思う。

……と「べき論」で語ってしまう時点で、たぶん私は本来的に、このへんのことを了解できていない。では、どうやったら、理屈ではなく、「隣」に居ることに気づいたりするものなのか? ということは本書で描かれているので、気になった人は読んでみてもらえれば。

 

 

 

ではまた。

私と私たち

「私たちは」という主語には「特定の物事について暗に合意を取ることで、集団を形成する」機能と、「その集団に入らないものの排除」という2つの機能が含まれている、気がする。たとえば、「いま私たちは、私たちという言葉に含まれる2つの意味を確認した」と書いて次に進めば、この文にまだ納得できていない人を振るい落とす役割を果たすだろう。ただ、私がここで書きたいのは、その排除の側面ではなく、合意の側面についてである。

 

たとえば「我々日本人がやるべきことは●●である」と言われ、その趣旨に私が賛同できたとする。しかし、そこで「私が賛同できたと思ったこと」と「この発話主体が考えたこと」は、おそらく同じではない。私が●●に賛同できたということは、「我々日本人」の中に私が包摂されたことを意味する。しかし、「我々日本人」を代表する個人としてその集団を個々に切り分けていったとき、それぞれの●●の受け止め方はおそらく異なる。

 

一つ補足として、私がここで言いたいのは「一つの旗の元に集まった集団の中でも、●●と考えている人もいれば、対立する▲▲と考えている人もいる」ことではない。私の主張は、「同じ●●という言葉を、一言一句違わずに全員が賛同できている集団が居たとして、しかし個々の内的経験の中では、●●の受け止め方は異なっている」ということだ。

 

「発した言葉がちゃんと伝わる」という経験は、私にとってたぶんうれしいものだ。そのとき、その場に形成されているのは、一つの「私たち」という集団とみなしてよい気がする。しかし、そこで合意形成がなされたのはおそらく「その言葉の趣旨」にすぎず、「私の内的経験までも含めたそれ」ではない。「私たち」という同じ集団の中に居ても、「私たちを代表する私」と「私たちを代表するあなた」として切り取れば個々は違う存在であり、そこまでを含めて同化することはできない。私の内的経験は、私がこれまでの経験のなかで身につけてきた私だけの文脈に依っており、それを理解できるのは私しかいないし、どんなに説明を尽くしても、それが私が感じている感じのままに人に伝わることはない。だから本質的にはたぶん私は孤独である。

 

と、ここまでで私なりの論理でもって私が孤独であることを立証してみた。ここで、「孤独」という言葉は一般にはマイナスの意味を含むことも多いけれども、私としてはそれを不幸なことではないと思っているっぽい。というか、感覚的には孤独かどうかもよくわかっていないっぽい。

たとえば私はいまこの文章を、小1時間目を閉じても眠れなかったのでしょうがなく、真っ暗な部屋の中で、敷布団にあおむけになって、足を組んで腹のうえにノートパソコンを置いて書いている……というこの一つの経験をこうして文章にしたとき、たぶんだれかは「わかって」くれるんじゃね、という楽観的な気持ちがある。

 

私はここまでの文章を「ほかの人が読んでもわかりやすいこと」よりも、「私の内的な印象に正直であるかどうか」に重きを置いて書いている(このブログにあがっている文章は基本的に全部このスタンスである)。説明が足りないな、と思って更新するとしても、それはあくまで「私が私の言っていることを理解するうえで説明が足りない」から追加する、という向きが強い。今書いているこの文章は、今の私にとって一番わかりやすい言葉で書かれている。そういう意味では、私の書く文章は私フレンドリーではあっても、ユーザーフレンドリーではまったくない。

 

だから、いまこれを読んでいるあなたが「わかんねー」と思うのも「わかった」と思うのも自由だ。ただ、「わかった」と思ってくれたほうが嬉しくはある。でもその「わかりかた」がどんなわかりかたなのかは、私にとっては割とどうでもよくて、それは「その人が私の思考をなにがしかの形で受け取ってくれたこと」というそれ自体に価値を置いているから、というのがありそう。もし、違うわかりかたをされていそうだなと思ったら、また別の説明の仕方をするだけなんだろう。そして、それを繰り返せば「わかって」くれるだろう、という楽観的な感覚も私の中にある。

「わかんねー」と言われてもそれはそれでおもしろい。それは私もあなたのことがわからないであろうことを意味するけれども、わからないことがあるのは悲しいことではなく、むしろ楽しいことだと思う。つまるところ、私にとっては「孤独=わかってもらえないこと」ではなくて「孤独=理解しようとすらしてもらえないこと」なのだろう。「わかんねー」と意思表示してもらえることは、理解しようとしてくれている証でもある。

 

脱線:逆に、もし私のすべてをわかる存在が出てきたとすれば、むしろそれは私の存在意義が消える、という感覚もうすぼんやりとある気がする。「たぶん、ほかでもなく私にしかわからないであろうこと」があることに存在理由をかけてる的な? 感じ? と思ったけど、「私のすべてをわかる存在にわかられてしまった私」という形で存在意義を見出すかもな。あとふつうに「私ってなんなの?」てそいつに聞いてみるのおもしろそう。

 

こうした文章を書く動機は、「私を理解してほしい」のほか、「そうすることによって私が私を深く理解したい」のときもありそう。ただ、今この文章を書き始めた動機はこのどちらでもなくて、「単に気になったから」というのがたぶん一番近い。私を理解すること/されることはあくまで副次的な効果であって、こういう糸口で書いたらおもしろいかも、で書いたらできたものである。

……と、ここまでつらつらなんか書いてみたが、はたしてわかってもらえただろうか?

 

ではまた。

『ほんまにオレはアホやろか』/水木しげる

ゲゲゲの鬼太郎』を描く前までを中心にした水木しげるの自伝本。のべつくまなしに語られるエピソードの一つ一つがやたらと濃ゆい↓

 

学校に馴染めず日がなベンケイガニを眺めて過ごし、入学してみた美術学院は退屈で自分から辞め、誰でも入れるといわれた園芸学校には入試で落とされ、新聞配達と学生生活を平行しているうちに赤紙が届き、最前線に送られて片腕を無くし、いっぽうで村民と仲良くなった結果あわや現地の住民の一人となりそうになり、終戦後には魚屋をやりアパート屋をやりかたわらに漫画を持ち込み……などなど。

 

「俺はこんだけ苦労をしてたんだ」という風でもなく、ニヤニヤと口笛でも吹きながら書いてんじゃねーかな、と思わせる調子なのもよい(実際、特に腕なくすとこなんか苦労なんてもんじゃないと思うのだが)。月並みだけれども、一言でまとめると「生命力が違うなー」とわからされた感じ。

 

見方を変えれば、水木しげるは学校生活にも一般的な労働にも一切なじめないドロップアウト勢だったわけだが、そのことについていっさい思い悩むそぶりを見せないのがこの本の核心であり、水木しげるの際立ったところと思う。社会の流れに頼らずに自分で立つ姿勢は、幼少期から人よりもむしろ自然と触れ合うことを好み、また自然に近いところで暮らす(暮らしているように見える)ラバウルの人々の暮らしを理想と見た結果、養成されたものであるらしい。

 

同じくドロップアウト勢に勇気を与える本でもあると思うのだが、「なんだって好きにやりゃあいいよ」という、やさしい言葉をかけるだけでは終わらないのもいいところ。

 

 虫の中にもいろいろな種類があるように、われわれ人間にも、いろいろな種類があるのだ。トンボにかまきりになれとか、南京虫にミミズになれと、いわれても困る。

(…)自分の好きなことをやるにしても、やはり、なまけていてはダメで、やるからには、なんでも、ねばり強く、努力することが必要である。

 自然界では、どんな虫でもケダモノでも、自分でエサを探して食べるのだ。

(あとがきより。傍点の代わりに太字としました)

 

つまるところ水木しげるがどうやって「エサ」を探してきたか、という記録がこの本であり、その能力については、私はどうやっても足元に及ばんなぁ……と思ったしだい。

 

 

 

(以下蛇足)

ひっさびさに読書感想書いたけど、

 

・タイトルに1行コピー入れるのをやめる(思いついたら後で更新しておく)

・冒頭に本からの引用を書くのをやめる(打つ&引用の後に1行感想書くのが地味にめんどい)

 

とすればわりと思ったことそのまま書いてくだけで公開してけそうかも? 自分の今後に期待。

 

ではまた。