寝楽起楽

最近は頑張って読書感想ブログにしてます。

                ネタバレには配慮しない感想ブログです。

生きててももう居ない:『アンネの童話』 アンネ・フランク 中川李枝子訳 酒井駒子絵 文春文庫 2017年

 夕方八時、ドアがまた開いて、あの小柄な娘がもう一度御おっ奇異バスケットをふたつ腕にかかえて出てきます。娘は小さい家々のまわりにある、あちこちの野原に行きます。遠くに行く必要はありません。 野原ではすぐかがんで花をつみます。大きい花や小さい花、いろいろな花がバスケットにはいります。太陽がしずみかけてもまだ、明日のぶんをつんでいます。

 バスケットがふたつともいっぱいになって仕事はおわります。太陽は沈み、クリスタは草に寝転がると両腕を頭の下で組んで空を見上げます。

 クリスタの大好きな十五分間です。この働き者の小さな花売り娘がかわいそうだなんて思わないでください。このすばらしいひとやすみのあるかぎり、クリスタの毎日はけっしてけっして不幸ではありません。

(「花売り娘」,p50-51)

 

アンネの童話 (文春文庫)

アンネの童話 (文春文庫)

 

 

 

増補新訂版 アンネの日記 (文春文庫)

増補新訂版 アンネの日記 (文春文庫)

 

 

○あらすじ

アンネの日記』の他に書かれた童話・エッセイの中から、30編を収録。童話14編、エッセイ16編。

 

○考察・感想

 『アンネの日記』は中学生の時に読んでて一時トラウマになった記憶があったので、チャレンジする気持ちで読んだんだけど、これはそうはならなかった。 

 

 『日記』は、同年代の子が書いてるという部分がポイントで、だから当時はアンネを14,5歳のイメージのまんまイメージしてたんですよね。で、その子がこの日記を書いた後は理不尽に亡くなっている。当時の自分が具体的に何に対して恐怖を抱いたのかはもはや覚えていませんが、それがなんとなく怖かった。

 

 ですが今回読んでみて気づいたのは、必ず最初にその文章が書かれた年月がかかれてて、「1943年」とか「1945年」とかそんなんなんですよね。『日記』と同時期なので当然なんですけど。

 

 アンネって、今でも生きてたら88歳ぐらいみたいなんですが、平均寿命から考えると、それってもう老衰で亡くなってても全然おかしくない。

そう考えてみたとき、頭に浮かんだのはおばあちゃんになったアンネで、「少女」としてのアンネは、一回(僕の中では)完結したという感じがしました。

 

 アウシュビッツの事件と一緒に取り上げられることが多い分、「被害者としての少女アンネ」としてしか『日記』も『童話』も受容できない、という人も多いだろうと思います。 

なんですけど、たとえそこから生き延びられたとしても、もう亡くなってる可能性のほうが高い、という時代になって、まだずっと「被害者」のイコンとして表象され続ける、それはちょっと可哀想というか、一旦は「おつかれさまでした」と言ってあげてもバチはあたらないんじゃないかなと。

ただこれは確実に、事件を風化させていく方向(結論めいたものを出してしまうわけなので)に行ってしまうことでもあるので、あくまで「僕の中では」こうなりました、というだけに留めます。

 

 んで、以下は年代ということをついでに考えてみたとき思ったこと。

僕今22歳なんですが、現在の平均寿命をそのまま適応させて考えてみると、多分ざっくりあと+60年以内、2078年には自分等の同世代の5割はもう亡くなってて、その中に自分が含まれてる可能性は充分ある。どんなに頑張っても、22世紀を迎えるというのはまあきつい(医療技術がすげえ発展とかしてたらわかりませんが)

 

て考えると、自分って「21世紀の人」なんですよね。一方調べて見ると、最後の1800年代生まれが昨年の4月にはもう亡くなっていて、てことは現世人類は20世紀生まれと21世紀生まれしかもう存在してない。

 

 別にだからどうという話でもないんですけど。ただ歴史の本とか読んでて、例えば「13世紀はモンゴルの世紀」とかあったりするわけですが、多分そんな風に、「21世紀は○○の世紀」とか言われながら、そこに住んでいた一個人一個人には焦点が当たることなく、抽象的に扱われていくんだろうなーとか思いますよね。

 

 あとこれから先出会うどの人も、確実に20世紀生まれか21世紀生まれのどっちかでしかない、というのもなんとなく不思議っちゃ不思議。当たり前なんですが。

 

 まとまりなくなってきたので終わります。今回は以上です。

明けまして

 浅原ナオトさんの『彼女が好きなものはホモであって僕ではない』書籍化決定!

 

 

kakuyomu.jp

 

 めでたいめでたいと一人で喜んでいたのですが、ふと自分のことでもないのにうれしいのは何故?という疑問が湧いたので、今回はそこから考えたことについて書きます。

 

 まず一歩踏みこむと、そこにあるのは「自分の好きなものが世の中からちゃんと評価される喜び」です。自分はどこかしら、俺が好きなら他の皆も当然好きになるだろ、と思いこんでる節があって、だから全人類が読書始めりゃいいのにといつも思ってます。

ただこれは自分が嫌いなものについては当てはまらないことのほうがむしろ多くて、自分の嫌いなものが他の人にとっては良いものであっても、好みは人それぞれだと納得出来てしまう。

だから逆も然りかというとそれはそんなことはなく、自分の好きな作品等が貶されてると結構悲しい。この違いは果たしてどこから来るんでしょうか?

「好きなもの」という言葉には、暗黙のうちに「自分が自身の世界の一部にしている/したいと思っているもの」という意味が含まれているような気がします。

「何が嫌いかより、何が好きかで自分を語れよ」というネットで一時期はやった漫画の台詞にあるように、「嫌い」というのも自分の世界を為す構成要素ではありますが、しかしその事実からは、私(我々?)は目を背けがちです。

誰だって「嫌いなもの」を自分の一部とは認めたくはなく、むしろ視界から消えてくれたほうがましだと思うでしょう。翻って「好きなもの」のほうは、むしろ積極的に摂取していきたいと思うはずで、私は実際こんな感じです。

 

 で、私は上で述べたように、全人類が当然私の好きなものは好きだろう、と考えています。これは私が、私の世界をある種普遍絶対のものとして見なしている証左です。

好きなものが世の中から評価されるとうれしいのは、その絶対性、私の正しさが一つ証明された喜びとリンクしているのではないでしょうか。また同時にそれらが貶されると悲しいのは、その絶対性が揺らぐからだと思います。

 <遠い隔絶した他者>みたいな表現を本読んでると見かけることがあるのですが、私はこの言葉を、<遠い>という言葉に文字通り引っ張られ、完全に私の世界からは外れたものと観念してしまいがちです。

 しかし本当は、<遠い他者>は距離的には非常に近い、私が私の世界だと見なしているものの中に居るのかもしれません。

 

 

 『彼女が好きなものはホモであって僕ではない』は、そんな<他者>との交流が一つ大きなテーマでもあります。

kakuyomu.jp

 皆さんまずはこのweb版を読みましょう。次に書籍を買いましょう。そして今更ですが明けましておめでとうございます。

 

以上。

 

沈む館からの脱出:『遠い声 遠い部屋』 トルーマン・カポーティ 河野一郎訳 新潮文庫 1955年(原著1948年)

 ポーチの上の3人は、木版画にきざまれた姿のようであった――りっぱな枕の王座にすわった老人、主人の膝に寝そべり、その足元にぬかずく小さな召使を、溺れゆく光の中でじっと見守っている黄色い愛玩動物、そして祈祷を捧げるかのように、ひときわ高くさし上げられた黒い矢のような娘の両腕。

 だが、ジョエルの胸には何の祈りも浮かんでこなかった、というより、言葉の網に捕らえられるものが何一つなかったのだ。ただ一つの例外を除いて、今までの彼の祈りはすべて単純な、具体的なものばかりだったからであるーー神様、僕に自転車をください、刃の7つついたナイフをください、油絵具の箱をください。だけどそれにしたって、いったいどうしてあんなあいまいな、意味のないお祈りが出来るんだろうーー神様、わたしを愛されるようにしてください、なんて。

「アーメン」ズーが呟いた。

 とこのとき、はっと息を吸いこんだように、沛然たる雨がやってきた。

(本著p102-103)

 

 どこ切り取っても読ませる文章になるので、どこを抜き出してくるか迷った。↑の最初の段落みたいな表現のオンパレードで、読むのに体力いります。

 

 

遠い声遠い部屋 (新潮文庫)

遠い声遠い部屋 (新潮文庫)

 

 

○あらすじ

 顔も見たことの無い生みの父親の元に引き取られることになった13歳の少年が過ごす折れ曲がった青春の日々

 

○感想・考察

 比喩が見境なく出てくるために深読みの幅がめちゃめちゃ広そうな本。CiNiiで検索かけたらこの本の論文が10件出てきた(自分の思った感想にしたいので、それらは未読のままつらつら書いてます)。

 

 僕は現実では出会ったことないんですが、独自の人生を否応なしに歩んできて、全然世間からは認められてないのに、叩いてみると凄く意味深長で意味不明な話が飛び出してくる老人キャラって小説とかで出てくることないですか? 

『遠い声、遠い部屋』は、あの種類の人の少年時代を追ったような作品だと感じます。

 

 裏表紙には、「近づきつつある大人の世界を予感して怯える一人の少年の、屈折した心理と移ろいやすい感情を見事にとらえた半自伝的な処女長編」て書いてありますが、これだと青春を肯定的に描いた作品みたいにも受け取れちゃいますよね。少なくとも僕はそう読んじゃって、そしたら本編全然違いました。否定的なわけでもないけど。

 

 「自殺すると作者は公言していた」とか「酒と麻薬に溺れた」とかあとがきにある通り、確かにそういう人が書くお話だとは思います。でもだからといって変に鬱屈しているというわけでもなく、却って凄い綺麗な表現が飛び出してきたりもする。

 書き上げた際は22歳(同い年で戦慄)だったそうで、余すことなく、どころかやや過剰にまでその才能を注ぎ込んだ作品であることは確かでしょう。

 

 カポーティは『ティファニーで朝食を』を書いた人でもあるそうです。こっちは名前聞いたことある方も多いのでは。家のどっかにはある気がしますが、まだ読んだことは多分ない(?)と思うので、こちらもいずれ読みます。

 

以上。

 

 

 

現の夢か、夢の現か:『シルヴィーとブルーノ』 ルイス・キャロル著 柳瀬尚紀訳 ちくま文庫 1987年(原著1889年)

  ――するともう一度どっと歓声が沸きあがり、とびきり興奮していたひとりの男が帽子を空中高く放りあげ(ぼくにわかった限りでは)こう叫んだのだった。「副総督閣下に万歳だ!」ひとり残らず歓声をあげたものの、それが副総督のためなのか、そうでないのかは、判然としなかった。「パン!」と叫ぶ者も、「税!」と叫ぶ者もいたが、自分たちのほんとうの要求が何かは誰一人わかっていない様子だった。

(本著p27)

 

 『不思議の国のアリス』の人です。

 

 

シルヴィーとブルーノ (ちくま文庫)

シルヴィーとブルーノ (ちくま文庫)

 

 

○あらすじ

 夢ん中に出てくる姉弟シルヴィーとブルーノが現実にも出てきてないまぜ

 

○考察・感想

 筋追おうとせず、雰囲気だけ掴めばいいんだと気づいてからは楽しめた。

ちゃんと物語を読みこんでいこうにも、夢⇔現実が明確に切り替わってるうちはまだいいんだけど、段々その境目が曖昧になっていくので、今回のキャッチコピーどおり「現の夢か、夢の現か」(←今回の文句は我ながら上手いと思った)状態になっちゃう。

 

 ただ、作品としての完成度は『アリス』のが言ってしまえばはるかに上だと思います。これは現実のお話も出てくるせいか、どことなく想像の幅が地味になっちゃってることと、端役があんまし魅力的に見えないのが要因と思います。シルヴィー、ブルーノ、ミリュエル嬢、アーサーあたりは良いんだけど。

『アリス』はちゃんと一本筋のある話になってて分かりやすいのもありますかね。

 

 英語が出来る人は、Sylvie and Brunoで検索すれば原文が出てくるので、訳を比べるのがとても面白そう。えらい大量に出てくる、翻訳者泣かせな言葉遊びに対する捌き方はさすがプロという感じ。注読むと、悪戦苦闘しながらも頭を捻ることを純粋に楽しんだ感が伝わってきて、とても良いです。

 

以上。