寝楽起楽

最近は頑張って読書感想ブログにしてます。

                ネタバレには配慮しない感想ブログです。

空白を埋める:『家(チベ)の歴史を書く』 朴 沙羅著 筑摩書房 2018年

 存在すると思われていない世界の人々は、しかしごく当たり前に生きていて、彼らの過去と現在を生きている。記憶の中で、過去の様々な経験は一つに溶け合っていて、彼らはその経験と共に生きている。(…)誰のために、何のために、私は「家(チベ)の歴史」を書こうと思ったのだろうか。最初はもちろん、私のためだった。私はなぜここにいて、こんな思いをしなければならないのかを知りたかった。けれでおも、もしかしたら「空白」を埋める一助になるのではないか、とも思っている。

 記憶によって書くことが可能になる歴史がある、と私は信じている。

(本著『終わりに』p296-297)

 

 世の中知らないこといっぱい。 

 

 

家(チベ)の歴史を書く (単行本)

家(チベ)の歴史を書く (単行本)

 

 

〇内容

 在日コリアン三世の筆者が自分の一家の歴史をインタビューからひも解く

 

〇感想

 

 

 オーラルヒストリーって基本的にはインタビュイーの語り口を再現しつつ収録するんだけど、この方たち、皆関西弁なんすよね。

それがま~話が生き生きしててね。

こんなに相性いいもんかってのが一つ発見でした。

一個一個のエピソードが凄絶だったりするだけに、余計に。逃げようっつって知らない人についてって、山の中で草食べて過ごした話とかね。

 

 『家の歴史』ってタイトルから、てっきり3世代ぐらいにまたがるもんかと思ったけど、インタビュイーは全員叔父さん・叔母さんで、それがまた興味深かった。

皆さん、「家」って言ったとき、叔父叔母まで含めます?その発想がまずもって自分には無いし。

 

 あと、「済州島四・三事件」をはじめとする歴史について、ある程度こっちが知ってるかのように書いてくるのも考えさせられるところ。

この本を書いた朴沙羅さん自身が、まぎれもなく「在日コリアン」として僕の知らない世界を受容して生きてる証左のように思えました。

勿論多少の補足は入るし、事前知識無くても読み通せるようになってることも付記しておきます。

 

 

 「空白を埋める」ことによって、その周辺の巨大な空白に気が付いた、つうのが今の僕の状態で、もっと話を聞いてみたいですね。

 

 「在日コリアン」というテーマ。

 かつインタビューから歴史を描くオーラルヒストリーの手法。

  どちらもどこかに偏らせるのが非常に容易な材料で、だからあんま読まれることないかもしれない。

 ただそれでこの本を捨てるのはもったいない。

 

 だいいち、偏ってたって面白い本は面白いはずなんですよ。

 有名ツイッタラー(?)のダ・ヴィンチ・恐山曰くですね、思想の偏りに全く別の判断を持ちこむのはおかしな話であると。

 思想は偏っていてもまっとうでいられるっていうのが彼の主張で、良いこと言うなあと思いましたね。 

 

 こういうしんどいテーマのものを読むときには、その人が「まっとう」かどうかっていうのが自分の中では大きな基準なんですが、それでいえば朴さんはこちらが何もいうことないです。

まあ俺の思う「まっとう」が人によってはガチ頭おかしいこともあるだろうけど、そんなんはもう言い出したらきりないし。

 

 3月を0更新で乗り切り、気が付けば新元号も発表されてびっくりなんですが、新年度もこんな感じでちょこちょこ更新していければと思ってます。

 

以上。

 

 

 

聴く・する・語る:『音楽の聴き方』 岡田暁生著 中公新書 2009年

 音楽は決してそれ自体で存在しているわけではなく、常に特定の歴史/社会から生み出され、そして特定の歴史/社会の中で聴かれる。どんなに自由に音楽を聴いているつもりでも、私たちは必ず何らかの文化文脈によって規定された聴き方をしている。そして「ある音楽が分からない」といいうケースの大半は、対象となる音楽とこちら側の「聴く枠」との食い違いに起因しているように思う。私たちは皆、特定の歴史/社会の中で生きている以上、音楽の聴き方もまた、それらからバイアスをかけられるのはいかんともしがたい。自由に音楽を聴くことなど、誰にも出来ない。ただし、自分自身の聞き方の偏差について幾分自覚的になることによって、もっと楽しく音楽とつきあうことが出来るのではないかーーこれが本書において最も私が言いたいことである。

 (「はじめに」より)

 

 当たり前だけど重要。

 

 

音楽の聴き方―聴く型と趣味を語る言葉 (中公新書)

音楽の聴き方―聴く型と趣味を語る言葉 (中公新書)

 

 

〇内容要約

 「聴く・する・語る」が一体だった時代から、近代に入りそれぞれの分業が行われ、かつドイツロマン派やら国民国家の登場に伴い「音楽は国境を越える」っていう観念が支配的になって久しいけど、そろそろ脱却してまた聴いて・語って・やりもする時代になったら楽しくないですか

 

 

〇感想・考察

 単に音楽の聴き方の偏差にだけに終始して終わるのではなく、その歴史的拝啓・思想にしっかりと目を向けている点で労作だと思った。

 

 「意味なんていらねえ、音楽は感じるもんだ!」みたいな派閥の人々にも配慮が見られ、西洋音楽を中心に据えているものの、音楽全般に大変に心が行き届いている。

 惜しむらくはあまりにも音楽アゲをするせいで、他の芸術分野との比較の際にちょっと行き過ぎてる感じがなー。別に貶してるとかいうわけでもなし、愛の表れとして見れば全然許容範囲ではあるんだけど、ちょい気になった。

 

 個人的に一番面白かったのは、説明の際に、当時の音楽家/批評家の言説や、筆者自身の経験を惜しみなくつぎ込まれていること。

 それらを通読することで見えてくるのは、岡田先生自身の文脈を重視する「聴く型」そのもので、こればっかりは読んでみないと得心がいかないところだと思います。

 

西洋音楽史―「クラシック」の黄昏 (中公新書)

西洋音楽史―「クラシック」の黄昏 (中公新書)

 

 

 ↑

 副読本としてこちらも読んだ。

 自分、「第九はジャジャジャジャーン、ではじまるアレ」ぐらいの知識しかないぐらいにはクラシックに疎いんですが(訂正。第九と運命って違うものなんですね、、、)、そんなんでも楽しく読んで「こういう流れなんすね」て把握出来ました。

 歴史系の本って暗黙のうちに初学者を対象から外すことが多くて、この本も「周知のように」とか作者名+作品名とかを知ってる前提で出してきたりとか、そういう本のポイントを稼いでるはずなんですよね。

 にも関わらず私が普通に読めてしまった、というのは、岡田先生の力量のなせる業のような気がします。何を言ってるのかがわかんねーな、てなることが無かった。

 

 

 以上。

遊んだ 読みにくさ無限大

   こんな      感   
 じ で         適   
   当       な   
文章で私って    漢   
   字      を    
  作って    み  
   た   ら
   な     ん   か 
   面    白    く 
   な    ら    ない
   か  という思いつき。

 


               改めて自
             がち        我
                 し       に
           定                つ

         想               い
  を                   て
 私                     私               思
 に                     考
 風                  し
 な                    よ
  ん                う

   こ            と
   くな        する
       とんなと

 

だけれども実際生活のうえではは対象ではなく背景として存在し、だから強調されていくのもではなく以外の何かが基本になるんじゃねーか、それを文章で表現するとしたらこうなるだろう、という思考順序でこんな記事を書いている。と見せかけて実際には以外を全部黒字にしたら何か面白くね?っていう思いつきから無理くりに理屈をこじつけてるだけで、上の円が歪んでんのもの歪みをあらわしていると言うことも出来るがただめんどくさくて妥協したというのが本当のところであり、しかし実際のところこういう事例っていうのは皆言わんだけで結構よくあることなんじゃねーのという気もしている。

 

 

我思う、ゆえに我あり」は、「我が思考している我を思うときその思考している我の存在を我は否定できない」ってことだが、たくさんのものがある中で唯一前景であり対象でもなるのが我という存在なのか。

世界広いんだからもう一個ぐらい同じカテゴリーのものがあってもよさそうなもんだけどな。

例えばかまぼこが私と常に共に同じ位置にあったら、もっと良い世の中になるとは言わんが、少なくともかまぼこについての深い思索は得られる。それがどうした。

 

 

あけましておめでとうございました。

 

以上。

よっぱらないながら今日考えたことについて書く 私と社会

 ライフ・ヒストリーというものについて授業で学んでいる。

 

 これがどういうものか説明すると、一般的にいう歴史というものは客観性というものをまず暗黙のうちに前提としているところがある。

 

 授業では被爆者の方々の例が出るので、この記事でもそれを参考にすると、例えば「広島に原爆がおちた」を客観的な事実だ。

 だがそれを体験した人々の体験・感情というものには、それを知っているだけでは全く迫れていない。

 そうした歴史のあり方に対するカウンターとして、社会学の界隈の人たちが提唱しているのがこのライフ・ヒストリーというもので、具体的には主にインタビューを通して、それぞれの人々の固有の記憶に迫っていこうぜ、という方法である。

 

 歴史学でもこれについての反省はあってしかるべきだとは思うんだけど、あんまり主流にはなってない。『ラディカル・オーラル・ヒストリー』っちゅう本があって、これがアボリジニの人々の持つ主観的な歴史を、われわれの抱いている客観的な歴史像にいかに接合させられるかを模索しててちょ~~~~おもろいんだけど、残念ながら筆者の方が若くして(30代で)亡くなられており、この人が生きてればもっとこの道が切り開かれてたのに、とか思わんでもない。

 

 

↑今まで読んだ本(ゆうて全然冊数ないんだけど)の中で ベストなんちゃらに入れてもいいくらいなんだけど、めんどくてまだ記事にしてない。怠惰。

 

 話それた。とにかくそのライフ・ヒストリーの授業の中で、この前取り上げられたのが『ヒロシマモナムール/24時間の情事』っていう映画である。

 

 この映画は、フランス人女性とヒロシマ人男性が恋仲になって、二人がベッドで睦みあってるシーンを流しつつ、女性が「私はヒロシマに来た。あれも見た、これも見た、私はヒロシマについてこんなにもいろんなことを知っている」って言い続けるのに対し、男性のほうが「いや、君はまだヒロシマについて何も知らない」って言い返し続ける。

んで、その合間に、お前ら視聴者はあれもこれも知らんだろう、と言わんばかりにヒロシマの資料映像が挿入されまくるっていうエグエグ映画で、これを見せられて、個人的には非常にもやもやするもんがあった。

 

 「お前はまだ何も知らない」という提起は、同時に「お前はこれについて知らなければならない」という前提も含んでいると思う。なんだけど、その必要性という部分についてどうしても引っかかりを覚える。

 

 ライフ・ヒストリーという手法についても同じことが言えて、これを採用するという自体、他人の経験・記憶に迫らなければならない、という合意が為されてしまっているんじゃないか?という気がする。

 だが、それは、本当にそうなの?その必要性を駆動しているものって、いったいなんなの?みたいなことを考えて、んで、今日兄とサシで飲んだんだけど、その話もしてみて、こうじゃね?ってなったことを今から書く。

 

 まず、他人それぞれに固有の体験があるということは、とりもなおさず、自分にもそれぞれ固有のもんがあるっつうことである。

 その「私」としての立場から、人それぞれの固有について考える、ということをするのであれば、まず必要なのは、「私」の固有について考えることである。

 

 ヒロシマについて考える人がいる、というのは、それはその人がヒロシマを考えることをその人の価値観で持って選択した、ということであって、普遍的な「必要性」あるいは「価値観」みたいなものというのは、本当はそこには存在はしていない。

 

 僕はずっと塾講師のバイトをしてんだけど、生徒には偏差値が高いから就職に有利だからどこどこを目指します、ていう子と、あの大学の雰囲気が好きだからあの大学にいくために勉強する、とか、この教科は好きだからこの教科を勉強してる、ていう子の二種類居る。

 

 何となく漠然と前者カテゴリーは社会的な観念の子、後者カテゴリーは個人的な観念の子、ていう風に思ってたんだけど、前者の子達だって、いろんな価値観がある中で「偏差値が高いほうが有利」っていう価値観を選択して受け入れてる、ていう意味では非常に個人的なもんである。

(「社会的な観念の子」と「個人的な観念の子」を分けるものとして、僕が最近思ったのが「愛着」っていうキーワードで、これがモチベーションを駆動する何がしかを考えるうえで重要になるのではないかという気がしてるんだけど、違う話になりそうなのでいったんおく)

 

 個人的な選択を左右するものの中に、社会というものがかかわってくる。

ヒロシマ人男性が言う「お前はヒロシマを何も知らない」、講師が生徒に言う「この問題わかんないじゃだめだよ」、的なものは似通ってて、両方ともそれは社会からの要請の言葉として機能する。

 

 社会っていうものは巨大すぎて、あんましよくわかんない部分はあるんだけど、社会がそれらの必要性を迫ってくるのは、そうしたものを固有として持ちえている人々を内包しておくことが社会にとって恐らく良いことだからである。

 

 となると、ある社会の要請に対する自分の選択の近似値が、そのまま自分の属する社会、ということに成り得るのかもしれない。 

 ただこれを考えたときにしんどいのは、自分の選択というのは流動的であり、それがゆえに、自分の属する社会も流動的であることだ。

 

 社会のどの要請にこたえていくか、何に愛着を持つか、何に帰属意識を持つか、は時と場合によって異なる。

 例えば『ヒロシマモナムール』を見たときに、それに対しての反発も僕は抱いたけれど、同時に確かに俺は何もヒロシマについて知らん、とも思う。そう思うときの僕は、一瞬だけだが、自分にとってのヒロシマを固有とした、ヒロシマ社会に身を置いた自分になっている。

 

 みたいなことを考えたときに、ふと思い出したのが高校生ぐらいん時に角田光代さんだか誰だかが書いた短編だ。こういうときに誰のどの作品かをさらっと出せないあたりが、自分の読書家としての程度の低さを表している。

 

 それは水商売をしている女性が主人公なんだけど、その人は保健所?とか、飼い主が居なくなっちゃったペット、とかの保護活動団体に入ってて、昼間は駅前で、新しい家族探しのビラを配ったりとかしている。

 

 そうした活動というのは大概胡散臭く思われるもので、大体の人はスルーする。僕もしてる。んで、中には「飯を満足に食えない子どもだって居るのに、犬なんざを保護しようとする余裕なんて今の社会にはねえだろぼけが」みたいな嫌味を言われたりする。

 

 なんだけど、その女性は黙々とその活動を続ける。彼女自身も、はっきりとその理由はわからない。なんだけど、私はこれをやることを選んでしまったんだ、みたいな述懐をするシーンが確かあった。うろおぼえ~。

 私と社会、ということについて、自分の中のロールモデルになってるのはこれかもしれない。

 

 平和希求運動とか、たくさんの人が潜在的には忌避感を抱いているように思う、皆はそうじゃなくても自分はわりとそうなんだけど、のは、それ自体がこちらに対してしてくる要請があまりにも強すぎ、大きすぎるところにある。

 それ自体は良いことだと思うんだけど、それらは「私」をさしはさむ余地を与えてくれてない気がすんだよな。『ヒロシマモナムール』は多分そういう映画だ。

 

 だからといって極端に走り、社会の要請全部を跳ね除けて、自分の「愛着」だけでもって生活していくのには相当な覚悟がいって、なぜなら近似する社会がない場合そいつはただの狂人と化すからである。

 

 ただ面白いのは、その「愛着」を突き詰めていくことで、その人を中心としたその愛着コミュニティを生じさせることができたりすることで、大学教授とか、小説家漫画家とかはそうした側面はあるだろうし、ネットの登場によって一昔前の狂人たちも大分そうした社会を作りやすくなってるんじゃなかろーか。

 

 ただその場合必要なのは、自分の「愛着」を「他人」に対し翻訳し説明できるだけの力があるかどうかで、それが出来ない人は多分今でも狂人としてどこかに居るんだと思う。強く生きててほしい。

 

 後もいっこ興味深いのは、何よりも僕自身がこの疑問について、自分の中だけで考えるだけに終始せず、兄に対しても投げかけてみるっていう行動をとったことで、自分の中での理解がより深まった、ていう自覚があることだわな。

まあ当然のことではあるんだが、社会に所属してみることっていうのは、同志を増やせたその社会にとってだけじゃなく私にとってもメリットになりうる、という。無論デメリットになる場合も多々あろうが。

 

 これここまで読んでくれる人いるんですかね。酔い醒めてきたからもっかい何か飲もうかな。

 個人的に今回の記事で一番気に入ってるのは、タイトルが「よっぱらないながら」って誤字ってるところです。最後までありがとうございました。

 

 以上。