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寝楽起楽

最近は頑張って読書感想ブログにしてます。

高橋秀美『はい、泳げません』 新潮社 2005年

 チェコ好きの日記さんで紹介されており、気になったので読んだ。

 

 

はい、泳げません

はい、泳げません

 

 

 水が怖い怖いと怯える中年男性が、怖い怖い言いながら泳げるようになるノンフィクション。

 

 「できなさ」と付き合うためのハウツー、という切り口の本という先入観で読んでいたのだけれど、個人的にはあんましそういう風には見えなかった。

 

 高橋さんの「できなさ」は一重に水への恐怖に起因していたわけで、嫌々ながらもスイミングスクールに通っていくと彼は泳ぎ自体は上達していく。

 

 彼が後半で「泳ぎたくないけど、泳げちゃう」という水との付き合い方を会得したことからも分かるように、本書から学べるのは「どうしてもやりたくないこと」と付き合うためのハウツーなんではないかと思う。

 

 まあそんなことはさておき無類に面白いのは間違いない。「泳げる人」の只中に一人孤立する「泳げない人」である高橋さん。初心者の頃は訳が分からないままやっていたことが、中級者になってからちょっと理解できるかな?と思った途端、「泳げる人たち」と自分との違いが却って浮き彫りになったり、こういう感じで学習って行われてくんだな、という感じ。途中で日本古式泳法に浮気したりするのも如何にもそれっぽい。

 

 あと実際に身体感覚的に文章にされたときの、スイミングスクールの生徒さんたちの泳ぎに対する感覚の違いもまた面白い。身体との付き合い方はほんとに人によって千差万別なんすね。

 

個人的ツボポイントは、桂コーチがレッスンが進むにつれてコロコロ言うことが変わり、それに高橋さんががんがん翻弄されていくところ。こういうのあるあるだよなあ。

 

姫野カオルコ『昭和の犬』 幻冬舎 2013

 

昭和の犬 (幻冬舎文庫)

昭和の犬 (幻冬舎文庫)

 

 

 僕は凄い好きな本になったんだけど、魅力を伝えるのが難しく、どう書けばいいのか非常に迷う。

 

 と思って検索したら作者のブログのここに辿り着いた。そのものズバリ魅力が書いてあった。そのまま引用。

 

「大都市ではない小さな町」には、いろいろとメンドウなことがありましょう。

そんなメンドウさの中で、さらにまた家の中で、苦しい気持ちになっている子供がいることを、意外に大人は気づかない。
子供は、子供ゆえに、他者に語る語彙や知識がない。
味方がいないのです。
その小さな疵(きず)を抱えて大人になったとき、疵を抱えずに大人になった人をさぞやまぶしく感じるでしょう。

そのまぶしさが、ふたたび自分の中の小さな疵(きず)を照射する。
そのときにできる影。
それを、疵を抱えた大人は、大人になったのに他者に語る語彙がない。
そんな大人に、すこしでも、あなたはひとりではないとささやいてあげられるのが、『昭和の犬』という小説であればと、私は願っています。「スタジオ・ジブリ」のアニメでは掬えない部分を私が受け持とうと。

 

 

 これを自分の言葉で書けなかったのは一重に自分のレベル不足で、悔しい限りなんだけど、ホントこういう話だった。

 

 僕に言語化不能の小さな瑕、トラウマというべきものは、正直に言ってしまえばあるにはあるけれども無視してしまえるほど微々たるもの、だと自分では思ってて、だから上を読む限りは僕はお呼びでない読者だ。ジブリでも見てろ、てなもんです。

 

 の、はずなのに主人公が理不尽な父の怒りに身を強張らせ、その後幼い頃託児所で教わったキリストの祈りを預言者の描かれた絵皿の前で唱えたりしている描写を読んでいると胸がざわざわする感じを覚える。瑕のつき方はそれぞれ固有で混ざり合いもしないし、イエス様に頼ったことなんてないんだけど、確かに経験したことがあるものが書いてある、という気がする。

 

 だから戦後初期~昭和が終わるぐらいまで、主人公の幼年期~成長期(※主人公は女性)までの章は、そういう意味では呼んでてつらかった。そういう、周りからぐわんぐわん色々取り込んでる時期に、何かしら抱えてしまうもんなんでしょうな。

 

 反面、平成9年に飛んだ終章は非常に穏やか。49歳となった彼女は、もう完全に自分に瑕があることを受け入れられている。前向きでも後ろ向きでもないその佇まい方がまた、亡くなった祖父母とダブって個人的に大変良い。

 

 昭和っていう年代がやっぱり凄く濃くて、そういうところも書き方に影響している気がする。僕の周りには戦争を経験したことのある人なんて居ないし、ましてぼろっと「人の肉はすっぱい」なんて、それこそ戦争中の自分の瑕をさらけ出してしまうような人物に出会ったことはない。これをファンタジーじみた気分でも読めてしまうのは幸せなことなんだろうと感じる。

 

 あと、トラウマそのものをえぐっていくのではなく、そこに犬っていうフィルターを一つ通してるのも上手いなーと思う。多分そのまま差し出さられてたらえぐくて読めなかったし、瑕を持った人を癒すような物語にも出来なかった。

 

 あと主人公がちっさいころの感受性が豊かでかわいい。犬もかわいいからほのぼのするシーンはほんとほのぼのする。

 

 ああよかった。

 

エマニュエル•カレール『口ひげを剃る男』 田中千春訳 河出書房新社 2006年(原著は1986年)

 

口ひげを剃る男 (Modern & Classic)

口ひげを剃る男 (Modern & Classic)

 

 

 

あることに興味を持ち始めた途端、図ったようにそのことについて偶然に情報が集まってくる、という経験に覚えがない人はいるだろうか?

 

あらゆるものから後押しされてるかのような錯覚と興奮を覚えることが出来るので、僕は結構好きなのだけれど、実際は無論そんな訳はなく、ただ単に今まで見過ごしていたことに注意を向けられるようになった、というだけに過ぎないのだと思う。

 

本書はちょっとした悪戯心めいた感情から、口ひげを剃り落とし、それからありとあらゆることがおかしくなっていく男の話である。口ひげなんてもともと生やしてなかったでしょ?と嘯く交際相手、突然存在なかったことになる友人、この前の日曜日に話した父が一昨年に死んでいる。やがて何も信じられなくなり、主人公の過去も現在も全ては意味もないものと化していく。

 

主人公にとって、たまたま口ひげは見過ごすことのできない現実だった。

しかしもしかするとずっと以前から彼の現実は変容していて、それに気づいていなかったのかもしれない。

もしかすると今この瞬間も僕の現実は変容していて、それに気づいていないだけなのかもしれない。

読みながらそんなことを考えました。

PASMOのことをSuicaと言えるようになった。

表題の通り。

 

中高では私はPASMOユーザーだった。

だから私の中では電子マネーPASMOで、友達の定期入れから時折覗くSuicaに違和感と由来の分からない微かな羨望を覚えながら、日常の電子マネー決済を全てPASMOで行なっていた。

 

大学に入った時、私はふとした気まぐれでJRみどりの窓口で定期を作った。

その結果、手元に届いたのはSuicaだった。私は初めて、PASMOSuicaの違いは発行会社の違いなのだと知った。

 

しかし私の中の、電子マネーPASMOという認識は中々揺らぎを見せなかった。

コンビニでちょっとした買い物をする時、私の口をついて出るのは「PASMOでお願いします」の一言だった。手に握っているのはSuicaなのに。そうした際、私はいつもチリチリと胸が痛むのを感じていた。それは事実の通りSuicaと言うことのできない罪悪感だったのかもしれないし、自分への不甲斐なさだったのかもしれないが、今となっては分からない。

次こそはしっかり「Suicaで」と言おうと決意し、また実際にそうしてみることもあったが、そうした時は言い知れぬ虚無感が私を襲った。

私の中の何かが、強硬に自分はPASMOユーザーだと主張していた。メトロから私が脱却することは認められていなかった。

 

しかしどうした心境の変化だろうか、最近は、「Suicaで」と躊躇いもなく言っている自分に気づく。ついに私は、Suicaを持っている自分を受容することができたのだ。

 

もしかしたら私は、ようやく高校を卒業したのかもしれない。

真木祐介『気流の鳴る音 交響するコミューン』 ちくま学芸文庫 2003

 

気流の鳴る音―交響するコミューン (ちくま学芸文庫)

気流の鳴る音―交響するコミューン (ちくま学芸文庫)

 

 

 

 本名見田宗介。若くして東大の助教授になった後のメキシコ留学で「近代の後の時代」について深い知見を得た。この本はその最初期の若く荒い構想を世に表明したもので、

 文化人類学カスタネダの、呪術師ドン・ファンとのエピソードに多く紙数を割きつつ、これを中心に比較社会学の観点から近代合理主義を自明のものとする空気に疑問を投げかける。

 

 たまたま視覚とか聴覚のような、客観的に測定しうる感覚の量的な退廃のみは、たとえば十五分後には機音がわれわれにも聞こえてくるとか、いくつもの丘のむこうを事実走行したトラックの記録とかいう、固陋な近代理性にとっても否応のないデータを通して、われわれの感覚の欠落部分を外的に立証してみせてくれる。

 けれどもそれは、雨あられと降る文明の土砂のかなたに圧殺され、近代理性の流れるようなハイウェイの舗装の下に窒息する多くの感性と理性の次元の、小さな露頭にすぎないかもしれないのである。(p.16-17)

 

  この序盤の文章でもうやられてしまい、後は流れるようにずーっと読み進めてしまった。

 

 読みどころはやはし不可思議(に僕らからは見えてしまう)ドンファンの言葉の数々。

 

「死は人間みたいなものじゃない。むしろひとつの存在だ。」「わしは人といるとくつろぐ、だからわしにとっては、死は人だ。わしは自分を神秘に捧げる。だから死はうつろな目だ。それを通してみることが出来る。」「戦士が自分の死を見る味方は個人の問題だ。それはなんにでもなる奪取―鳥にも、光にも、人間にも、潅木にも、小石にも、霧にも、道の存在にも。」

 カスタネダはすっかり混乱してしまう。(p.61)

 

 この文章自体にわくわくするし、どう説明してくれるのかも凄く楽しみで、ページをめくる手を止められなかった。

 

 合理主義は必然的に「成果」を求め、それは究極的に全ての人類を「死」という結果に帰結することになる、というところから、生きている今に対するいとおしさ、かけがえのなさに人は拠るべきである、という筆者の論調そのもの(こんな一言で収まるようなもんでもないので、具体的に知りたい人は本読んでください)は全く一般的でも、論理的なものではない。しかしそれも考えてみれば、合理主義とは別の立場から書かれている本が、合理主義者からみて理論立ってないのは当然のことなのかもしれない。

 

 確かにここには近代の諸問題に対する一つの解答が示されているように思わせる、何かが書かれているように思う。「人生って(=現代って)なんかつまんねーなー」と最近思っている人が読むと良いかも知れない。

 

『Sting』 監督:ジョージ•ロイ•ヒル 1973年

 

スティング (字幕版)

スティング (字幕版)

 

 映画。若手の詐欺師が、表にも裏にも広く顔のきく大人物に意図せずちょっかいを出してしまったために目をつけられ、相方を殺され自分も命を狙われる身になりながら、詐欺師として「命は奪わず金をだまし取る」ことを復讐として、様々な人物の手を借りて大計画を実行に移す話。

 

中々寝付けなかった日にぼんやり見た。面白かった。俳優の名演ぶりにしっかりと引き込まれ、先の展開を期待しながら見てしまう。話は単純ながら一本道にはなっておらず、かつ最後はすっきりと気持ちよく見終えることが出来る。高く評価されているだけのことはあると思った。

 

個人的に、劇中音楽にラグタイムが使われてるのが嬉しかった。これは20世紀初頭のアメリカで流行した軽音楽で、つい最近その名称を知り聴き始めたところだったので、「これ進研ゼミでやった奴だ!」みたいな偶然の快感があった。

 

有名どころのラグタイムの曲は例えばこれとか。

エンターテイナー ピアノ楽譜 スコット・ジョプリン / The Entertainer Piano Sheet Music Scott Joplin - YouTube

家にテレビがあるならまず聞いたことはあると思う。

 

 

 

 

 

福岡伸一『世界は分けてもわからない』 講談社 2009年

 

世界は分けてもわからない (講談社現代新書)

世界は分けてもわからない (講談社現代新書)

 

 

 

生物と無生物のあいだ』で一躍有名になった先生が、その続編のような立ち位置のものとして、雑誌連載していたのを一つにまとめた本。

 

前作は、人間の体はエントロピー増大の法則に対抗するために、「分解」と「合成」の絶え間ない動的平衡の中にあるということが話の中心だったが、今作はそれから更に発展して細胞分野のみならず絵画や写真などから「全体とは部分の総和以上の何かであり、その何かは流れ(=部分と部分の常に移り変わる関係性)である」とし、「世界に部分はなく、輪郭線もボーダーもない」ことを示しながら、それでもなお世界を分けつづける意思を静かに書き記して終わる。

 

その考えそのものはそれほど目新しいものでもないけれど、分子生物学者としての深い経験と、他分野にも精通する学識で持って書かれた文は非常に読ませるところがあり、これは有名になってくれてよかった人だと思う。

 

ただ事実そのものを教科書的に書くことなら知っている人になら誰にでも出来ることで、福岡先生はそれをしっかり自分の血が通う文章にしている。これが出来る人になりたいですね。