寝楽起楽

ネタばれには配慮しない、感想/紹介ブログです。毎週1回更新 +α を目指したかった。

何故お年寄りに対し、幼児言葉を使うのか?

  特に医者、介護職員に多いイメージを勝手にいだいているのだが、何故世の中には、高齢者に対し、幼児に話す様に話す人がいるのであろうか?

 
年がいっている、というのはそれだけで賞賛されるべきであり、その人の持っているであろう知恵を、敬意を持って出来るだけ吸収するのが、正しいあり方ではないのか?(そんなことするに値しない人もいるだろうが)
 
 
  僕が無事に年を重ねることが出来たとして、70とか80とかになった時に、もし幼児と同じ様に接されたら、多分、自分の尊厳(なんて言えるほど格好いいものは持ってないが)が傷つけられたと感じるだろう。
 
 
    謙虚()な僕ですらそうなのだから、世の大多数の人はそうであるに違いない。では何故なのか?
 
 
イメージ的に医者、介護職員に多いというところから見るに、お年寄りの中でも特に、体に不全をきたしているひとはそうした扱いをされやすいと考えられる。
 
では、そうした人たちと、幼児との共通点はどこか?
 
簡単に言えば、「世話に手間がかかる」ことである。
 
オムツを変えなければならず(ぼけてるから)、言い聞かせてもきかず(耳遠いし)、なにをしでかすかもわからず(ぼけてるし)、その人の不始末は自分が責任をとらねばならない。
 
 
 
これはまるっきり赤ん坊と同じだ。
 
 
つまり、高齢者は、赤ちゃんと見なされる代価に、責任を免除され、その介護者は、高齢者を赤ちゃんとみなすことで、自分で責任を取れないのだから仕方が無い、という諦めに達せ、介護にかかるストレスを軽減しているのである。
 
 
もっといってしまえば、「面倒くさい人」を幼児扱いするというやり方が、ストレス軽減のための方法の一つとして文化的に認知されているのだろう。
 
 
例えば、モンスターペアレント関連の問題で、よく「こんな奴らに親になる資格はない」という意見を聞く。
 
親になる資格がない、というのは、つまり子供ということである。
 
そして子供は手間がかかるものだから、当然問題を引き起こす。
 
つまり、先程の意見は、一見モンスターペアレントを否定しているように見えて、実はその存在を認めているのである。
 
なるほど。

ダイアナ•ウィン•ジョーンズ『わたしが幽霊だった時』東京創元社 1993年

この人の本は、小学生の頃によく読んでいて、懐かしかったので借りてみた。

 

当時僕はファンタジーが大好きで、図書館の子供用ファンタジーの棚を片っ端から読み漁っていたのだが、題名に見覚えがあるから、この本も一回多分読んでいる。内容全く覚えてなかったけれども。

 

あと、ついでに、『トニーノの歌う魔法』と、『魔法使いハウルと火の悪魔』(ハウルの動く城の原作。個人的には、これが一番面白かった)も借りて読んだ。この二作は、割と内容を覚えていたので、一番新鮮に読めたこれをレビューする。

 

 

わたしが幽霊だった時 (創元推理文庫)

わたしが幽霊だった時 (創元推理文庫)

 

 

 

原因も分からず、なぜか突然幽霊になっちゃった「わたし」。記憶も曖昧で、自分が誰なのかもいまいち確信が持てない。姉や妹を見つけても、あちらにはこっちのことは見えもしないし、気づいてもくれない。なんで幽霊になんてなっちゃったんだろう・・・、というところから始まる物語である。

 

幽霊だから、精神もぼんやりしている、というのはありそうでなかった発想。

それに、「わたし」がわたしだと思ったサリーは、何故か生きて動いている、というそのアイデアも面白し。

 

けれども悪霊云々の話はいまいち納得いかないし、それに、『トニーノ』のやつでも思ったけれども、この人の書く物語は、ところどころに悪意が見えて気持ちが悪いときがある。

 

具体的に言うと、『トニーノ』は人形劇の人形にされてしまった主人公が、同じく人形の中のヒロインを、劇の筋書きに抗えずにがんがんに殴りまくるシーンとか、これだと姉妹が遊びではしゃぎすぎて、首が絞まるシーンとか、両親との何だか変な距離感とか。

 

新世界より』とか、『向日葵の咲かない夏』とかと同種の味の悪さが、個人的には余り好かなかった。ハウルのはその辺が少なくて良かったのだけれども。

 

逆に先の二作が好きな人なら、この人の著作が割りと楽しめるのではなかろうか。

最終的にはハッピーエンドだけどね。向日葵は徹頭徹尾捻じ曲がってて、凄かった。

 

 

よいもの

良い音楽、良い本、良いことだけをして暮らしていければいいのにと思う。

 

手塚治虫氏はその昔、自宅を訪ねてきた、まだ年若き石ノ森章太郎赤塚不二夫藤子不二雄らに向かって、「マンガばかり描いてちゃだめだよ。一流の音楽を聴きなさい。一流の芝居を見なさい。一流の映画を見なさい」と言ったそうだ。

 

優れたものに囲まれて過ごしたい、という願望が自分にはあるのだが、

それを実行する前に、すでに多くの時間を空費してしまったと思う。

 

しかも、なおたちが悪いのは、それに気づいているくせに、しょーもないとしかいえない事を惰性で行っている自分がいることである。

 

それに苛立ちを覚えもするが、けれども、凄い本を読むのには、体力が要るのである。

 

世の中には一日に何冊も本を読んだり映画を観たりすることが出来る人達が居るようだけれども、僕には為しえない芸当だ。

憧れはするけれども、貧弱なので無理である。

 

からしょうがなく、「どうしようもなく無駄なことをする、というのも知能を持った生き物にしか出来ない崇高な行為であり、人間にはそれを為す自由がある」という、父に教わった詭弁でもってお茶を濁しながら、僕は今日も電子の海を漂い、そして後で後悔するのだ。ちまい人生である。

 

 

 

翻訳物の違和感について

翻訳小説には、どこか手を出しづらいものがある。

 

翻訳を読むくらいなら原文を読みたいな、と思ったりもするのだが、それが実行に移せるほどの語学力も時間も無いので、結局村上春樹などの訳で読むのだけれども、やっぱり、どこか物足りない。

 

翻訳と、国産物(という呼称が正しいかは分からないが)と原著には、僕の中では決定的な隔たりがある。

 

翻訳を読む時に、その内容に心が動くことはあれども、文体や、リズムや、ちょっとした言い回しといった、その作者の個性がもっとも活きてくる部分に感動することが殆どないのである。

 

それらは大抵訳者の手によってラッピングされてしまっていて、お行儀良くなっていてしまい、作者がそれを書いた時に其処に託した勢いがこそぎ落されている。

 

その分だけ、本の魅力というものは減じてしまうし、翻訳物を読んでいる時には、どこか上滑りしてしまうのも、そのせいだと思う。

 

たまに、訳者が原著を自分の中で消化しきって、生き生きと物語を描けている本がある。そういうものはとても面白く読めるのだけれど、そこにあるのはあくまでその訳者にとってのその本であり、その本そのものではないのである。当然のことだけど。

 

別に、だからどうという話でも無いのだけれども、何と無く悲しいなあ、と思ったので書いた。

 

何と無く文章がすかしている(ラッピング、のとことか特に)のは、さっきまで村上春樹訳を読んでいたせいであるので、おきになさらず。