寝楽起楽

ネタばれには配慮しない、感想/紹介ブログです。毎週1回更新 +α を目指したかった。

21歳になった。

 21世紀のこの日、私はめでたく21歳になっただ。

 

よく考えてみるまでもなく、世紀と同じ歳になることはよほど長生きしないことが無い限りこれが最初で最後の経験であろう。そう思うと凄いことのような気もするし、別にどうでもいい気もする(2000年に20歳になった人は20世紀ー20歳、21世紀ー21歳と二回これを体験できたわけだが、それを思っても別に羨ましいということはなかった)。

 

そんなことよりも、21という数字が特別になる原因が他にある。これである。

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この、「センチュリートゥウェンティーワァアアーン↑↑」のおかげで、私の頭の中では21という数字を見ると脳内でこれが再生されてしまうのである。

 

日常において自分の年齢を書く機会は意外と多い。そのたびに私はこの音声を幻聴することになる。これは地味に、地味に、困ったことだ。

 

この日記を書いた主な目的は、今年同じく21歳になる皆様に、同じ苦しみを味わってほしいと思ったからである。別に今年はこれを頑張る、とかそんな初心表明を書く気はさらさらない。

 

というわけで、書きたいことは書いたので、脈絡なく終わるのである。

こんな夢を見た。

 果てが見えないほど広い丘に家族で来ている。

 

 その丘は人工的な緑で覆われており、見回すと地面を掘り返している人がポツリポツリと見受けられる。どうやらこの丘のどこかにとても貴重な何かが埋まっており、人々はそれを探しているらしい。

 

 しかし見つかるものは何故だか大抵、こどもの写真と無地の色紙である。それは白黒だったりカラーだったりし、また写された当人は既に故人である場合もある。それはしかるべき人の元に返される、成長した本人や、その親族などに。この場にいる大半は、おのれの写真が出てくることを期待して待っている人である。私の兄はその写真を渡す係に従事している。

 

  発掘風景を眺めている人々の間を、私は小学3年生の時の国語のジャポニカ学習帳を持って歩いている。そのノートの中身は落書きで埋まっている。どうやら私がここに来るのは二回目で、一回目当時小学生だった私は誰彼構わずそのノートを差し出して絵を描いてください、とお願いをしたらしい。

  成長した私は、その時に絵を描いてくれた人を探している。同じようにまた、絵を描いてくださいと頼むために。

 

 

安保法制の一連の流れについて

   実際集団的自衛権が限定行使出来るようになったとして、それによって何がどう変わっていくのかの、政治的な見通しを述べることは詳しくないので出来ない。

 
  ただ新聞やニュースで聞きかじったこの安保採決の流れについて些か思うことがあるので書いておく。
 
安倍首相は国民の理解が不十分ではないことを認めつつ、なおも採決を進め、国民には説明を尽くしていく、という考えでいるらしい。
 
  この態度は民主主義からは程遠いと言わざるを得ない。
 
  民主主義とはそもそも、「決めたくても決められない」制度である。できるだけ沢山の人の色んな意見を聞いて皆が納得するようなものを作っていこう!というのが理想なのだから、効率が悪くて当たり前である。
 
これはどうしようもねえな、という輩が権力を好き勝手振るってきた過去を踏まえて作られた、中々良くできた制度である。
 
 
  しかし安倍首相は曲がりなりにも民主主義国家である日本で、理解なきまま安保法案を成立させようとしている。つまり、此処の抜け穴を突けばいくらでも政治を自由に出来るよ、というのを未来の首相達に示してしまっているのである。
 
これは自民党にとってもあまりよろしくない。今後何年後か何十年後かは分からないけど、ずっと自民体制が続くということはないだろう。自党と敵対する党に対しても「民主国家での独裁のやり方」のお手本教科書を作っちゃってるのである。
 
  次に問題だと感ずるのは、どうせ国民なんて鶏ぐらいの知能しかないんだから成立させればこっちのもんでしょ発言である(大分表現は変えてるけど)。
 
  秘密保護法法案の時のことがよく引き合いに出され、あの時同様また忘れて選挙になれば自民党に投票するだろ、とタカを括っている人は多いように思う。
 
 
  他の人たちは分からないが確かに僕の頭は鶏なので、次選挙の際にこの一連の出来事を忘れている可能性はある。それは認める。
  けれども、政治への不信感は、無意識下のうちに残るどろう。
 
個別の事象は忘れても、印象だけは拭い難く残る。これは対人であっても対国家であっても、主体が個人であるがゆえに同じだ。
 
  そしてそれは、日常では綺麗さっぱり無いように見えて、此処ぞという時に爆発する。今回のように。
 
  「もう政治家は誰も信じられない」  「どうせ俺1人が動いても何も変わらない」という形で、大多数の反対派の人の胸の中に安保法案は残る。そのことは、政治をこの先非健全にしていくことにまず間違いなく貢献する。これも自民党にとって良いこととは言えないのでは?
 
 
  別にちゃんと説明を尽くしてくれさえすれば、なんかよくわかんないけど取り敢えず怖いから消極的に反対、という人が賛成派に回って、そのお陰で賛成派多数、ちゃんと民意に従った上での安保法案成立、となる可能性は十分あるし、それなら僕だって文句は言わん(僕個人は理屈の前に感情で強く否定してしまうあんましよろしくない反対派なので、多分賛成派に靡くことはないけど)。
 
  要は安心させてほしいのである。この人なら任せても大丈夫、と思わせてほしいのである。本当は政治のことなんか何も気にせず好きなことに囲まれてのんびり生きてたいのに、なんだか安倍首相のやり方が誠実に見えないから、お陰でいらぬ事を考える羽目になってるのである(んなもん知るか、って感じだろけどあっちとしては)。
 
 
 段々オチが見えなくなってきたなと思ってたら
法案通過のお知らせがきた。予定調和だけどやっぱし徒労感。これからどうなってくのかね。
 
 
 
 

父とのお話

 つい先ほどまで酔っ払った父と話してたので、その要旨を備忘録代わりに。

 

・生きていること、今ここにいることそれ自体が比類ないことなので、個性とか豊かな経験とかそんなものには毛ほどの価値がない。

 

・にも関わらず世間にはそうしたことに精を出す人が居るけれども、優先順位というか人生というものをまるで分かってない。

 

・20代前半でその後の人生の方向は基本的に決定づけられるけれども、だからといって変に気構える必要はなく、適当に過ごせばよい。4年間何もしないで過ごすというのも経験である。

 

・経験に優劣はない。ただ経験をするという事実、生きているという事実が大事なのである。

 

・ゆえに無理をする必要はない。取り繕う必要はない。なんでこんなことしてまで・・・という思いがあるのであれば、いっそのこと辞めてしまうという生き方はあり。

 

・上から言われたことには何の疑いももたず、はいと従う人達が日本の上層に固まっているのが今の現状である。世の中を最も分かってない奴が世の中を回してる。

 

・今まで言ってきた発言も生きてきたのも全て自分は適当なので、話半分で聞けばよい。

 

・まあ生きてさえいればそれで良いよ。

 

以上。