どはまり。
これが元。こっちのほうが盛り上がり感は上だけど、前者のが聞きやすい気がする。
地方に残り、家業を継いで働いている兄と、地方から飛び出し、東京でカメラマンとして働いている弟。母が亡くなったことを契機に帰ってきた弟だが、そこで事件が起こり・・・という話。
詳細は予告編を参照されたし。
すげー面白かったが、すげー読解力が必要な映画だった。
正直僕は兄の心理がほんとに全く解らず、見終わったあといくら考えても納得出来ずに、「大阪の一般人の男と女が大阪市のワンルームでだぁーっとしゃべったりゲラゲラ笑たりしてたらなんだかんだむっちゃええ感じになるんちゃうか?そんな感じでやってまうん。PODCAST」、略して「大大だゲなじ感(だいだいだげなじかん)」の完全ネタバレ回を聞いてやっと腑に落ちた。上のpodcastも凄く面白いのでおすすめ。
僕にはリアル兄がいるのだが、この映画の兄の心理が解らない=うちの兄の心理もまたぜんぜん解ってないということになる。この映画と同じように、兄はきっといろんなことにきっと耐えている。
そして僕はおそらく無自覚のうちに、兄からいろいろなものを奪っているんだと思う。
家がたまたま自由にさせてくれているがために、その度合いも低いだろうけど、この映画みたいな閉塞的な環境にもし生まれていたら、僕はきっとオダギリジョーと同じように兄にすべてを押しつけ逃げ出してるに違いないし、兄はきっとそれを受け入れ、耐えていくに違いない。
これをみて、兄と弟どっちの視点になるかで、自分の兄弟感が自然と炙り出される。地味な映画だけれども、見て損になることはないと思う。
最近、短歌を詠み始めた。
なれなれしい人まつげもやすちゃんさんのブログを読んでいたら、短歌を詠んでらっしゃって、なんとなく一句だけ作ってみたら自分天才じゃね!?となってそのまま続いている。その歌がこれ↓
背を向けた あなたを蹴飛ばす その代り 足元の影を そっと踏みつけ
どうっすか!?結構よくないっすかね、僕はいいと思うんですけどね、突然こんなことを言われて困惑気味に愛想笑いをしている皆様の顔が見えます。
まあでも上の歌はそもそもの着想からして綿矢りささんの『蹴りたい背中』からヒントを得まくってしまっているので、ぶっちゃけオリジナルとは言えない。『蹴りたい背中』がこんな話だったかは全然覚えてなくて、なんか女子高生が暗めの男子高校生の古びた木造家屋の二階の彼の部屋で写真集?がいっぱいつまった段ボール箱を見せられるシーンがあった・・・・?ぐらいの印象しかないんだけども。
言葉の持つ力っていうのはやっぱし強いもんで、「蹴りたい背中」はその中でも特に僕の中にしっかり残ってるものの一つである。このタイトルを聞き知っている人は、誰しも「あ、あの背中は蹴りてえ」とか、ふとした瞬間に考えるようになったに違いない。そんなことない?ちなみに僕は柔軟性皆無な人間なんで、蹴るとしても相手が階段を降りてる時にしか確実に思うようには蹴れず、そしてその絵面はどう考えても陰湿ないじめである。
話を元に戻すと、短歌って趣味としてやるにはほんとになんも手間かからないので、皆やってみません?単純に57577になるような言葉のリズムを探すのも楽しいし、俳句と違って季語いらないのでほんとに思いついたまま詠むだけでいいし、なんなら唯一のルールといってもいい57577も現代短歌はほんとにまったくと言っていいほど守ってないものもあるみたいです。
ちょっと何かを創作したりする側に回ってみたいけど、小説とか書く根性はないし、絵は下手だし、音楽もさっぱりわからないし・・・みたいなみなさんに、特に短歌はお勧めっす。
んじゃまた。
あまりにも推奨レベルが高すぎてちょっと手に負えないよね、という話は、聞かされた後のその話の置き場が自分の中に無くてずっと変なもやもやが残る。
成長するに従って、この話はあのカテゴリ、あの話はこのカテゴリ、と言う風な区分付けは上手になっていき、その分だけ心に直接どかんと来る様な経験は少なくなるもので、そういうのが時たま来るとびっくりするもんだ。
人は日常、自分の表層の部分しか使わずにお互い生きてるわけだけど、ふとした瞬間にその奥の、本人も整理のついてない何かがガッと出てくることがあって、それは受け取る側としてもよく分からないけど何だか凄いものとして大抵は受け取られていく。
もやもやが晴れたというのは、それだけ自分が成長したということであって、それは嬉しくもあり悲しくもあることだ。
まあなんでこんな話になったかといえば、昨日思いがけず重い話を聞いちまって、しかも長年かけて熟成されていた分だけ若者のそれよりも何倍か重く、もうどうしようもねえってなってるからである。