寝楽起楽

ネタばれには配慮しない、感想/紹介ブログです。毎週1回更新 +α を目指したかった。

発掘された新概念:『中動態の世界 意思と責任の考古学』 國分功一郎 医学書院 2017年

 私は毎日さまざまなことをしている。たえず何ごとかをなしている。

 だが、私が何ごとかをなすとはいったいどういうことだろうか?どんな場合に、「私が何ごとかをなす」と言えるのだろうか?

 たとえば、私が「何ごとかをさせられている」のではなく、「何ごとかをなしている」と言いうるのはどういう場合か?そこにはいかなる条件が必要となるのか?言い換えれば、私が何ごとかをなすことの成立要件とは何か?どうすれば私は何ごとかをなすことが出来るのか?

 いや、問いはもっと遡りうる。そもそも、私は何ごとかをなすことができるのか?

(本著p14)

 

  この導入いかにも哲学書っぽくてかっこよい。

 

 

 

 

○内容要約

 能動態/受動態=行為をする/されるの二分法しかないという思いこみが、意思の概念、主体/客体といった観点の強制・抑圧がなされた哲学を導いているが、古来より存在する中動態を導入し、主語が文中の動詞が指す行為の過程中の「外側と内側(能動態と中動態」のどちらの方により傾いているか、という視点から哲学を読み解いてみよーぜ

 

○感想・考察

 医学書院から出てるというのがとても良い。

 「近代的主体」が創造されてしまったがために生まれる問題(依存症の人たちに、それって意思が弱いからでしょ、っていっちゃうとか)に対する反駁を書かなければならない、という「義の心」で執筆したらしい。偉い。実際本著において主体とか意思とかを特権的地位から引き摺り下ろすことには間違いなく成功してると思う。

 

 意思が行為の第一の原因じゃない(惚れる、て言った時、惚れよう!という意思が第一にあってそっから惚れる人は居ない)ていう話から、段々中動態の話に転じてく。

 

 色んな人(本著で言及されるのはパンヴェニスト、ハンナアレントデリダハイデガードゥルーズ、細江逸記、アガンペン、スピノザメルヴィル)がこれまで書いてきた「能動態/受動態の外部にあるもの」の論理を見始めるあたりから、同じ回廊をぐるぐる回ってるような感じになってきてややこしさがあった。

まあでもこれは筆者のせいではなくて、それぞれが散発的に(つまり、蓄積されることがなく)論じてきたのを初めて集積しようとした試み、として本著は多分位置づけられるもんなので、分かりにくくなっちゃうのもしゃーない。

 

 多分國分さんの目指してるのはこんな低い理解ではないだろうけれども、中動態っつうなんかすげーもんがあるらしい、という認識はとりあえず出来て、それだけでも読んだ価値は充分あった。

 

 これから読むという人たちは、各論に入る4章あたりからは、「中動態の考察が深まっていくんだろう」で読むのではなく、「それぞれがどんな風に能動態/受動態の外部に出ようとしたのか」で読み解いてった方が分かりいいと思うんで、それをお勧めします。僕も二読目出来ればそーする。

 

以上。

 

 

愛のディスコミュニケーション:『私たちがやったこと』 レベッカ・ブラウン 柴田元幸訳 マガジンハウス 2002年

  あなたは両腕で私を包み込んで、言ってくれた、明るいわよ、明るいわよ、明るいわよ、明るいわよ、と。そしてあなたは私を抱きしめて、言ってくれた、今夜はもうずっと、朝が来る直前まで明るいのよ、朝になったらギャラリーが開く前にここを出なくちゃね、と。

(「愛の詩」 p94より)

 

 二人の間だけで完結できるすばらしさ/できない悲しさ。

 

 

私たちがやったこと

私たちがやったこと

 

 

○あらすじ

本人不在の新婚生活:「結婚の喜び」

目と耳お互い潰せば二人きりになれる:「私たちがやったこと」

言いたくなかった言葉:「アニー」

秘密の共有:「愛の詩」

ナポレオン絶対殺すウーマン:「ナポレオンの死」

心の友の喪失:「よき友」

美しく終わらせたい醜さ:「悲しみ」

以上7編所収。

 

○考察・感想

 作者がレズビアンということもあり、性別はあんまり明らかにされないまま進む話が多く、まあ一応肉体関係的な描写も匂わせる程度はあるけれども、ある種純粋な愛というもの、それを目指す苦しみ、みたいななんかそういうものが書かれてると思った。

 

 具体的な形では明示されてはこないので、合わない人はとことん合わなそう。

 

 「あんたがここにいるから……」もっと長くためらう。「だから楽しいよ」

 自分の考えにすっかり夢中になっていたせいで、私はもう少しでその言葉の意味を取り逃がしそうになる。それどころか、私のなかのある部分は、とりのがそうとさえする。でもそうでない部分は、自分が一緒にひざまずいて彼女に触れ、彼女を両腕に抱き寄せる姿を想像する。けれどももう一方の部分はそそくさとそこから逃げ出す、物事にうわべ以上の意味なんてないんだというふりをして。

(「アニー」p78-79)

 

 「もしもし?もしもし?大変ですーーもしもし?大変なことが起きたんですーーもしもし?人が刺されたんですーー聞こえませんでしたーー私には聞こえないんですーーもしもし?」

 私は電話口にとどまって、これを何度も繰り返した。なぜなら私にはわからなかったからだ。いつ誰かが電話に出てくれるのかも、理解してもらうのにどれぐらいかかるのかも、そもそもいつかはわかってもらえるのかどうかも、何があったのかを私がなぜうまく言えないのかも、私たちがやったことを私がなぜ言えないのかも。

(「私たちがやったこと」 p46)

 

↑このあたりが一番来た。

 

 一番ついてけなかったのは「ナポレオンの死」だけれども、これはそもそも歴史上の偉人ナポレオンを訳もなく殺したくなっちゃった子が、恋人とその一点でもって決定的に合わなくなる(そりゃそうだ)という話で、これを理解できてしまったらそれはそれでおしまいという気もする。

 

 少なくとも自分はナポレオンは殺したくない、というかそもそも殺す・殺さないみたいな次元にナポレオンは立ってないけど、人によってはもしかしたら殺してえっておもてるかもしんないし、その感情というのは完全に他人からは理解不能なもんで、そういう端から見れば隔絶されたもんを皆持ちながら生きてるんだろうし、別にお互いに理解なんて全くできんでもしっかり世の中が成り立ってるっていうのは不思議な話ですよな。

 

 あと「悲しみ」の、上にあげたあらすじまんまなんだけど、美しさを目指す過程はでも醜い、というのはなるほど確かにだった。そこんとこも克明に描写されてるわけではないから多分そういう話ってだけなんだが。でもだからといってじゃあ全部欺瞞じゃん、なんて方向に行っちゃうと、それはその通りなんだけどでも地獄だし、つうか文学なんて言っちゃえば全部嘘ついてるようなもんなのかもしんないし。

 

 多分、ある意味では、自分で自分に嘘つくのは結構きついものがあって、だから他人に嘘ついてもらうために本読んでるところはあるんだろーなー、と思いました。なんの話だこれは。

 

以上。

 

 

 

 

治癒の歌:『キリンの子』 鳥居著 KADOKAWA  2016年

目を伏せて空へのびゆくキリンの子 月の光はかあさんのいろ

 

キリンの子 鳥居歌集

キリンの子 鳥居歌集

 

 

 

○内容

 両親離婚→目の前で母が自殺→養護施設で虐待→拾った新聞で文字を覚えて短歌を詠むようになった詩人の歌集

 

○考察・感想 

 凄くよい。

 

 母自殺以前の幸福な時代/自殺後の養護施設での生活/その後の生活、の主に3つにカテゴライズ出来る。

 

 「生き辛いと感じる人は短歌を詠もう」という姿勢が全体に通低しており、ために「良い短歌を作る」などといった変な力みもなく、それが帰って一つ一つの短歌のそのままの味わい深さを出している気がする。

また上に書いたとおりの人生を送っている分、特に捻らずとも詠まれる題材がそもそも凄絶であり、読み手を黙らせるパワーを感じた。

 

 以下は特に気に入った歌。

 

「精神科だってさ」過ぎる少年は大人の声になりかけていて

白々となにもかなしくない朝に鈍い光で並ぶ包丁

大きく手を振れば大きく振り返す母が見えなくなる曲がり角

爪のないゆびを庇って耐える夜 「私に眠りを、絵本の夢を」

お月さますこし食べたという母と三日月の夜の坂みちのぼる

噴水は空に圧されて崩れゆく帰れる家も風もない午後

母はいま 雪のひとひら地に落ちて人に踏まれるまでを見ており

永遠に泣いている子がそこにいる「ドアにちゅうい」の指先腫らし

さかさまに世界を映す水たまりまたいで夏の終わりへ向かう

海越えて来るかがやきのひと粒の光源として春のみつばち

海底にねむりしひとのとうめいなこえかさなりて海のかさ増す

ほんとうの名前を持つゆえこの猫はどんな名で呼ばれてもふりむく

300年の文学:『ブリティッシュ&アイリッシュ・マスターピース』 柴田元幸訳 スイッチ・パブリッシング 2015年

 この本は要するに、いわゆる「英文学」の名作短編を集めたアンソロジーである。当翻訳者が個人的に長年敬意を抱き、何度か読み直してきた作品が並んでいるというだけでなく、これまで刊行された多くの英文学傑作短編集などにも繰り返し選ばれてきた名作中の名作ばかりである。(中略)一般に――と、乱暴な一般論を展開すると――米文学は遠心的であり英文学は求心的である。キャッチコピー的に言うと米文学は荒野を目指し英文学は家庭の団欒に向かう。

(あとがきより)

 

 柴田さんの訳でこんだけの作家の読めるとか贅沢すぎない。

ブリティッシュ&アイリッシュ・マスターピース(柴田元幸翻訳叢書) (Switch library)

ブリティッシュ&アイリッシュ・マスターピース(柴田元幸翻訳叢書) (Switch library)

 

 

○あらすじ

食べたらいいんだよ:「アイルランド貧民の子が両親や国の重荷となるを防ぎ、公共の益となるためのささやかな提案」 ジョナサン・スウィフト(1729)

死ねない:「死すべき不死の者」 メアリー・シェリー(1833)

虫の知らせ:「信号手」 チャールズ・ディケンズ(1866)

街で一番とおといもの:「しあわせな王子」 オスカー・ワイルド(1888)

願いをかなった不幸:「猿の手」 W・W・ジェイコブズ(1902)

子どもは箱の中:「謎」 ウォルター・デ・ラ・メア(1903)

共犯者:「秘密の共有者――沿岸の1エピソード」 ジョゼフ・コンラッド(1910)

応報:「運命の猟犬」 サキ(1911)

幼く燃える虚栄:「アラビー」 ジェームズ・ジョイス(1914)

失せない鎖:「エブリン」 ジェームズ・ジョイス(1914)

背中を押す見えざる手:「象を撃つ」 ジョージ・オーウェル(1936)

家族の情景:「ウェールズの子供たちのクリスマス」 ディラン・トマス(1955)

以上12編所収。

 

○考察・感想

 英文学は家族の団欒に向かう、とか書かれてるけど、正直全然そんな感じなのかどうかはつかめんかった。

アイルランドウェールズスコットランドイングランドとそれぞれどうも流れがあるっぽくて、この本では今いちその全容は明らかにされていない気がする。よくもわるくもつまみ食いて終わってる感じ?

柴田さんもどちらかというと米文学の人だし、まあこれについては入門書っていうカテゴリーなんだと思う。

 

 

・「アイルランド~」

 真っ黒なジョークとはこういうものをいう。食人食肉。小説じゃないっぽさもまたよい。

 

・「死すべき不死の~」

 解説の通り、不死の存在を小説で構想しはじめた、その最初期の作品の強さずるさが売り。錬金術、とかが普通に現実と地続きのものみたいに登場しているのがなんともいえず昔。

 

・「信号手」

 一番完成度が高いともいえるし、一番普通の展開といえば展開なので面白みがないといえばなかった気がする。

 

・「しあわせな王子」

 正直アンデルセンが書いたのかと思ってた。改めて読むと王子の聖人ぶりにはちょっと引くぐらいの凄みがある。それに付き合うツバメが人間くさくめちゃめちゃいい奴。

 

・「猿の手

 これ結構怖かった。生き返った息子は果たしてどんな姿をしていたのか。

 

・「謎」

 謎加減がめちゃくちゃ好み。デラメアはお気に入りリストに登録しておく。

どんどん箱に入っていく子どもたち、たった一人残されるおばあちゃん、こういう現実なのか妄想なのか曖昧になる感じのもののほうがすき。

 

・「秘密の共有者」

 こんな上司だと船員ものすごく気づかれするだろうな、という視点で読んでしまった。面白いは面白いけど。

 

・「運命の猟犬」

 全くの他人に見間違えられるところから、何から何まで定まってたんだなって思って読み返すと結構悲しい。本人もなんとなくそれを自覚してるぽいところもなんとも。

 

・「アラビー」

 これはトラウマあるあるだ・・・。最後の一文になんもかんも詰まってる。

 

・「エブリン」

 結局人はどこにもいけないんだなって。米文学なら船に乗って旅たったのだろうか。これと「アラビー」と両方書いてるジョイスさんの性格はやや歪んでそう。面白いけど。

 

・「象を撃つ」

 オーウェルの好きそうな題材。スタンフォード監獄実験とか、もし生きてたらとっても喜んだんじゃなかろうか。

 

・「ウェールズの子どもたちの」

 子どもの話すイメージに乗れるか乗れないか、という話。自分は無理でした。

 

 

 おんなじところから米文学版も出てるらしいんだけど、それは見つけられなかったんだよねえ。読みたいんだが。

 

 年代順に並べられてみると、なんとなくしっかり小説として読めてくるのが初期2作品以降っていうのがちょっと面白かった。サンプル数少ないからなんともいえんが。