寝楽起楽

ネタばれには配慮しない、感想/紹介ブログです。毎週1回更新 +α を目指したかった。

父とのお話

 つい先ほどまで酔っ払った父と話してたので、その要旨を備忘録代わりに。

 

・生きていること、今ここにいることそれ自体が比類ないことなので、個性とか豊かな経験とかそんなものには毛ほどの価値がない。

 

・にも関わらず世間にはそうしたことに精を出す人が居るけれども、優先順位というか人生というものをまるで分かってない。

 

・20代前半でその後の人生の方向は基本的に決定づけられるけれども、だからといって変に気構える必要はなく、適当に過ごせばよい。4年間何もしないで過ごすというのも経験である。

 

・経験に優劣はない。ただ経験をするという事実、生きているという事実が大事なのである。

 

・ゆえに無理をする必要はない。取り繕う必要はない。なんでこんなことしてまで・・・という思いがあるのであれば、いっそのこと辞めてしまうという生き方はあり。

 

・上から言われたことには何の疑いももたず、はいと従う人達が日本の上層に固まっているのが今の現状である。世の中を最も分かってない奴が世の中を回してる。

 

・今まで言ってきた発言も生きてきたのも全て自分は適当なので、話半分で聞けばよい。

 

・まあ生きてさえいればそれで良いよ。

 

以上。

森博嗣『喜嶋先生の静かな世界』 講談社

  最近何読んでる?と聞かれた時に森博嗣って答えておけばほーん、良いセンスだねって何故か上から目線で褒められる、そんなイメージの森博嗣さん。

元大学の助教授としての経験をふんだんに盛り込んだと思われる、学問を志す学生が大学教授(にまでなったかは覚えてないけど)になるまでを追った小説。
 
 
 
 『黒猫の三角』を読んだ時に、所謂王道を外してくる人だと思ったけど、今回は凄く静かに勉強に励む学生と大学の先生との交流とのこと別学問の素晴らしさについて延々書いてあって、こんな作風も出来るのか!と感嘆してたらオチがやっぱり森博嗣だった。
 
 
  研究について、主人公の口から「周囲が真っ暗闇で、自分が辿ってきた道以外は見えず、手応えを感じても正しさを担保してくれる証明書のないもの」と語らせている、これは多分作者の思いそのままなのだろう。
 
 
この流れなら普通こうなっておしまいだろーなー、という淡い期待をしながら読み進めている読者が歩んでいる「王道」から最後に大幅にハンドルを切ってしまうことで、真っ暗闇の中に落とし込み、物語を終わらせる。其処から先は主人公の様に、我武者羅に個々人で研究するしかないのだ。
 
 
 その意味でこの本は森さんの研究書である、気がする。つまりこれは論文を書くにあたっての先行文献だ。「こういう風に進めていくんですよ、だから後は自分でやってみなさい」という意図が込められているのではなかろーか。
 
 
  妄想はこのぐらいにしておく。
この本の見所はなんといっても勉学にストイックな主人公と喜嶋先生の姿勢である。勉強ってつまらんと思っている人が読むと、少し学ぶことについて前向きになれるかもしれない。僕はそうなった。
 
読んで損をすることはけしてないと思うので、暇な人はちらっと見てみるといいんじゃないでしょうか。ではさいなら。
 

勉強しない子をいかに机に向かわせるか

  自分の知っていることは全て常識であり、自分の見ているものは全て他人も見ていると思っている人を、一般に馬鹿と呼ぶ。そして僕も立派に馬鹿の一員である。

 
  塾のバイトを始めて一番衝撃だったのは、当然こちらが出来るだろうと思ったことをできない生徒が結構多いということだった。
それが僕よりも(僕よりも!)コミュ力に劣るとかなら話は分かりやすいのだけれど、往々にして彼ら彼女らは会話してみるとすげー賢かったのである。
 
  これは別に考えてみると何のことはなくて、僕は此処までの人生を勉強がまあまあ乃至かなり出来る人たちが周りにいる世界に生きており、世の多くの人はそうではない、という話に帰結する。
 
  人が勉強をしなければならないと思う時、その大体の原因は自分の帰属している集団から著しく知識•知力が乖離していることに気づいたからである。
自分は無知である、ということを自覚していない人は永遠に学ぶことはできない。
 
   そのうえで自分の所属場所をどこに置き、どこまで広げていくかによって学びの上限とでもいうべきものが決まる。
「よくつるんでる奴ら」の間か、「クラスの上位集団」の間か、「全国の同学年」、はたまた「昔同じ年齢だった人達」まで。
その中で平均にいれば、少なくともその人はその人にとっての標準の位置にいる、という安心感を得ることが出来、特別な向上心がない限りは其処に居着いてしまうのである。
 
  世の大人たちは往々にして子どもに対し、若いうちに勉強しといた方がいいよ、と語り聞かせるが、それに子どもが必ずと言っていいほど耳を傾けないのは、帰属している集団が違うからである(ここ若いうちに〜の枕にはしばしば今になって後悔してるんだけど、などの言葉が入るが、それは「かつて同年代だった人」も勉強していなかったという机に向かわない免罪符を与えることになってしまうので、オススメできない。未来において、過去勉強しなかった自分を後悔している自分を想像できないがゆえに子どもは子どもなのである。ブーメラン)。
 
 
  だからまず生徒や子どもに勉強をさせるには、君は真に帰属するべき場所におらず、それゆえに多くの知るべきことを知らず、そしてそれは致命的なことなんだよ、と伝えてあげることが大事だと思う。
 
 
そしてその言葉はその子が知らないことを知っており、そのお陰でその子の見ることができない世界を見ている人から告げられるべきだ。もしそうでないにしても、そういうフリは出来なければならない。そうして始めてその子は自分の視界の欠乏に気づけるのだ。
学びへの欲望を駆動させること、それだけが指導者の仕事である。話す度に無知を自覚させられ、遥かに高い視座から同じステージに来られるように手を差し伸べてくる人こそが真の教師ではなかろうか。
 
 
 

まず我より始めよ

 思い返してみるに、僕が畏れ敬する相手は自分をしっかり持っている人が多かった。

 

僕は自分をさらすということがどうにも苦手である(とかいいながらこんなの書いてるのは矛盾だけれども、書くのは何故かおっけー)。

 

母の述懐するところによれば、僕は生まれてきた時、こんな怖い場所からは消えてなくなりたい、というような顔をしていたらしい。

 

気がついたら居なくなっていそうで、目が離せなかったというから中々大変だったろうと思う。

 

恐らくその一番最初の、「この世界は怖いところだ」という印象が刷り込まれているせいで、世間に対しバリアをあらかじめ張ってしまう癖がある。自分を出すにはその壁を一枚一枚剥がさなければいけないのだが、どうにも難儀だ。

 

内田樹先生にはまったのも、あの人の「中心にある自己なんて存在しない」という論が目から鱗であり、これを体得することができれば諸々が解決するかも、と思ったのがきっかけだった気がする(哲学とか思想とかは自分にとってどれだけ切実であるかで向き不向きが決まると最近感じる)。先生の本を買ったりブログをさかのぼって詠みまくったりしたのも、彼の思考方法を身につけられないかと思ったからだ。

 

高校の時に出来るだけ、我なんてないと思い込もうとひっそりと頑張ってたのだけれども、残念ながら僕は不器用であるので、昔から染み付いたものを取っ払うことが出来なかった。

 

少なくとも僕にとって、身体実感は思想よりも上だった。

だとするならば、タイトルどおりまず自分が居る、というところから始めるしかない。とようやく諦めがついた。

 

最近はこんなことをずっと考えていたという話です。では。